鷹城屋の絆 参

 視線の先には頭を短く切り揃えた壮年の男が、懐手にして広間の柱に体を預けていた。


「伯父上」


 凛が声を上げると、有楽は呵々かかと笑う。


「元気そうだな」


 凛の姿をじっと見ると、有楽は凛の傍に座っていた千寿郎と秋之丞を目で制した。


「はぁ……ほなね、凛ちゃん」

「師匠と話し終わったら稽古を見ておいで。今回は凄いから」


 みるみるやる気のない顔になった秋之丞とは対照的に、千寿郎は凛の頭を撫でて微笑むと広間を出ていく。


「……まったく彼奴らは」


 有楽は小さく嘆息すると、凛の傍に胡座をかいた。

 どうやら稽古の時間が迫っていたようで、未だ姿の見えない二人を探していたらしいと察する。


「体調は大事ないか」


 最近は心配されるか気遣われるかされてばかりだな、と思うと同時に気を揉ませる事を申し訳なく思った。


 周囲が過保護だと苦労する、とはこういう事を言うのだと今になって学習する。


「はい。お騒がせし……あ、ご挨拶をしていなくてすみません」


 凛は慌てて居住まいを正そうとするが、有楽に止められる。


「いい、いい。子供がそんなことしなくていい」


 終いにゃ俺が雪子に怒られる、と有楽は眉尻を下げて笑う。


「え、でも……」

「俺の前では気を遣わなくていい。お前の父の兄なのだから」


 これ以上言い募れば不自然になる気がして、凛は諦めて口を閉じてせめてもの礼儀としてしっかりと正座する。


「それよりも、だ」


 有楽は先程よりも幾分か優しい声で、凛に語り掛けるように続ける。


「蒼馬の調子はどうだ」

(やっぱり兄上を心配されている)


 態々凛に聞くなら直接屋敷を訪ねればいい。


 つい先程有楽が言ったように『気を遣うな』と言いたいが、何も理由を聞かないで結論を出すのも良くないだろう。


「いや何、ここ数日は忙しくてな。蒼馬が帰らないのも、秋之丞に聞いて知ったくらいだ」


 有楽は各地を駆けずり回り、鷹城屋が興行を打てる場所を探しているのだと言う。


 というのも、江戸各地でとある新興一座が人気を博しており、こちらに打てる場所が回って来ないという。

 探せばあるはずだが、如何せん交渉まで進まない。


 これは新興一座に続け、という志を同じくする役者の卵らが、こぞって場所を奪い合うからだった。


「使い一つ寄越せなくてすまん、と蒼馬に伝えてくれるか?」


 有楽は心底申し訳なさそうに言う。

 仮にも養子に迎え入れ、有楽は養い親という立場なのだ。


 有楽の方から何も無ければ心置きなく療養させるのが一番だが、有楽なりに思うことがあるのだろう。


「……私が?」


 けれど、何故凛に言伝ことづてを頼むのか分からない。

 忙しくしているのは理解したが、鷹城屋は江戸以外にも贔屓にしてくれる客が大勢居る。


 蒼馬の体調は良好だが、顔を見に一度屋敷を訪ねて欲しいというのが凛の本音だ。


(あ、もしかして)


 そこで凛は頭の中にある出来事が浮かぶ。


(でも言ったら言ったでどうなるか……ううん)


 ここで悩んでいても後悔する方が可能性として高い。


「伯父上」

「ん?」


 どう転ぶか分からないが、凛はもつれそうになる口を懸命に動かした。


「伯父上がご自分で迎えに行かないのは、お屋敷で父様と会って、お話したくないから……ですか?」


 凛が言い終わると、有楽はじわりと目を見開いた。

 記憶の中よりも皺の少ない顔は、何かを考え込むように視線をあちこちへと彷徨わせる。


「そう、だな」


 やがて有楽がぽつりと言った。

 図らずも姪に己の考えを見破られるとは思っていなかったのか、感心したような口振りだ。


「お前には難しいかもしれないが、俺とお前の父様は衝突した。まぁ……そんな事、子供には聞かせられないんだが」


 はは、有楽はぎこちなく笑う。


「──よし!」


 そして膝を両手で打つと、すっと音も無く立ち上がった。


「折角来たんだ、少し稽古を見ていってくれ」


 彼奴らの為にも、と有楽は続ける。


「いいんですか?」


 蒼馬の傍で稽古を見る事はあるが、凛一人でとなると初めてと言ってもいい。


「なぁに、遠慮するな。今も寝込んでる馬鹿弟子に『凄かった』と土産話を持って行ってやるんだ」


 そう言い終えた有楽は、太陽のような快活な笑みを見せた。


 有楽と揃って座員が稽古に打ち込んでいる広間へ着くと、腹の奥深くまで響く楽の音が耳に入る。


「あれよあれよと思ひしが、終ぞ叶わぬものとなりて──」


 少し高い声を出して台詞を紡ぐ男は、凛でもよく知る人間だった。


「おお、今のは良いな」


 有楽が静かに声を出すと、それまでの楽や演者の動きが止まる。

 かと思えば全員が流れるように正座し、有楽に向けて頭を下げた。


「お疲れ様です、師匠!」


 様々な声が入り乱れ、けれど全員が全員声がよく通るからか耳が痛いほどだ。

 一番に有楽に気付きすぐさま正座して頭を下げた男は、額に玉のような汗を滲ませていた。


(あ、秋生しゅうせいさん)


 誰よりも稽古に打ち込む姿が印象的な、つい最近澤嶋さわしま屋を名乗ることを許された人間だ。


「堅いことは止めて続けろ。もっと見たい」

「はい。──皆、気を引き締めて参るぞ!」


 呆れたように有楽が手を振って合図すると、秋生の声で中断していた動きが再開した。


「ああ、先に教えておくがこれは──」


 有楽は凛にも分かりやすいよう、掻い摘んであらすじを教えてくれる。


 今回やるという演目は有楽が自ら創作し、細かく指導している「楽蒼人中がくそうしんじゅう」という、ある二人の男が互いに手を取り合って悪を退治するという、痛快で苛烈なものだ。


(演目の名前や動きからして……伯父上と兄上のこと、のような気がする)


 だから千寿郎や秋之丞も必要以上にやる気なのか、と合点がいった。

 凛は隣りでじっと静観している有楽を見上げる。


 とてもではないが、この一連の流れが終わるまで声を掛けてはならない。


(……今は何も聞かずに見ていよう。伯父上の思い描くこれからが、きっとここに詰まってる)


 昨今の世間で起きた悪人退治を風刺したのか、大まかに聞いたあらすじは、どこか聞いた事のあるものだ。


 けれどそれだけならばいざ知らず、演目名に有楽と蒼馬の名を一字ずつ入れている辺りで察せてしまう。


(これは……兄上に演じてもらうべきな気がする)


 主役である秋生が演じる男が、きっと近い将来蒼馬が演じる事になる。

 それが観られるかは分からないが、誰に何を言われずともそうだと分かった。




「よし! ……いいぞ、皆一旦注目!」


 有楽が鋭く手を打ち鳴らし、そこで余韻の空気が流れていた広間が一層引き締まった。

 演者だけでなく囃子方も肩で息をし、荒い呼吸をしている。


 後半に向けて激しく、普通の演目よりも全員が体力を消耗するものだというから、力を付けねば倒れてしまう事は明白だ。


「凛、どうだった?」

「え、っと……」


 まさかすぐに感想を聞かれるとは思わず、凛は一瞬瞠目する。

 しかし何事も無かったように凛は思った事を口にした。


「兄上がいない時はお稽古を見てないんですけど、皆さん凄いなと、思いました」


 頭では様々なことが巡っているが、いざ言葉にすると月並みなものしか出ない。

 もっと言いたいが、あまり興奮ぎみになっては不自然さの方が目立つ。


 仮にもここの人間は凛のことをよく知っており、可愛がってくれているのだ。

 いらぬ心配を掛け、稽古に身が入らなくなる事だけは避けたかった。


「そうか、凄かったか」


 ぽんぽんと有楽は凛の頭を何度も撫でる。

 有楽の上機嫌な様子に、周りの人間は困惑していた。


(ま、まぁ伯父上はお稽古になると厳しい方だし。見慣れない気持ちは分かります)


 凛は周囲に気付かれない程度に苦笑する。


「さて、皆に一つ言うことがあるんだが」


 有楽は座員のざわめきをものともせず、よく通る声で静かに言った。


「蒼馬は打ちどころが悪かったみたいでな、生家で療養してるらしい。そこで、だ」


 一度言葉を切ると、一座の者が座するところを隅から隅まで見回す。


「あれが心配な者は、俺と見舞いに行かんか」


 その方があれも喜ぶだろうさ、と有楽は呵々と笑う。


「蒼馬に……?」

「おい、それって」

「止めろ、師匠の前だぞ。慎め」


 先程とはまた違った思い思いのざわめきに、凛は首を傾げる。


(なんだろう、皆様の様子がおかしい)


 何かを耐えているような、今すぐにでも走り出してしまいそうな、そんな行動をする男らで溢れていた。


「流石に三人程度しか行けないからな。あまり大勢だと雪子にどやされてしまう」


 よく話して決めろよ、と言い残して有楽はさっさと広間を後にしようとした。


 それを凛は慌てて着いていく。


「あの、伯父上!」

「おっと、すまん。お前も気絶したばかりだというのに」


 大股で暫く歩いたところで有楽はこちらを振り向いた。

 どうやら自室への廊下を渡ろうとしているらしく、ここまで来ると人の声もまばらだ。


 ようやく追い付いた凛を迎え入れるように、有楽はしゃがみ込んだ。


「うぷっ」


 図らずも広い胸に飛び込む形になり、凛はくぐもった声を上げる。


「大丈夫ですけど……あの、お見舞いというのは」


 至近距離で焦げ茶色の瞳と視界が交わる。


「言葉通りだ」


 有楽は慈愛に満ちた瞳で凛を見下ろしていた。


「本人は死んでも口にしないだろうが、あれで蒼馬は皆から可愛がられているのでな。いつも兄弟子に絡まれて、鬱陶しそうにしているんだが……気付いてはおらんか?」


 そういえば、と凛はこれまでの記憶を思い出す。


 と言ってもあまり鮮明に覚えている訳ではないが、蒼馬は口では拒否しつつもなすがままにされている事が多々あった。


「そういう訳で見舞いに行くのだ。……俺一人よりも、その方が蒼馬も嬉しいだろう」


 有楽は庭先に視線を向けて言う。

 庭木が高々と生い茂り、風に揺れてさわさわと音を立てている。


 鷹城屋の庭は広く、大人一人が大立ち回りをするには最適な場所だった。

 どこか哀愁漂う瞳が何を思っているのか、凛には理解しかねる。


 しかし蒼馬を想う気持ちは人一倍あるというのは、言われずとも分かった。


(兄上の性格上、絶対に言わないだろうけれど。いつか素直になっていただきたいな)


 養子として鷹城屋の敷居を跨ぎ、こんなにも愛されているという事実を蒼馬が知らないふりをしているだけなのだ。


 すべて言葉通りの意味で受け取っているが、少し照れ隠しをするのが常の蒼馬は可愛らしいと思う。


「誰が行くか決まるまで俺の部屋に居るか? お前に食べさせたい甘い菓子があるのだ」


 有楽は凛の頭にぽんと手を起き、語り掛けた。

 大の甘党で辛党でもある有楽には、菓子は勿論のこと酒は耐えぬように常備されている。


「はい、頂きます!」


 凛は花開くように、年相応の笑みを浮かべた。




 半刻ほどして、ばたばたと廊下を走る音が響く。


「なんだ、騒がしいぞ」


 凛に甘い落雁や金平糖をあげ、そのさまを上機嫌に見ていた有楽はやや不快そうに顔を顰めて障子を開ける。


 ひょこりと凛も顔だけを出して音の在処に視線を向けると、長身の男が立っていた。


「すみません、有楽さん。秋之丞と雪之丞が煩くて」


 男は肩まである紺碧の髪を背中に垂らし、少しやつれてた顔を見せた。


「秋生か。……それにしては二人の姿が見えんが、お前も行くのか?」


 有楽の屋敷へ出向くと、時として女人と見紛う男が入門してくる。

 是非とも女形おんながたに、と勧めれば『自分は立役たちやくになる』と言って聞かなかった者も居た。


 その者──秋生は今では立派な女形となって民衆に人気があるのだから、人は見た目を一つとして才能というのもあるのだな、と思う。


 今回は代役として立役に回っているようで、秋生は未だ額に汗を滲ませている。


(多分だけれど秋生さん、少し痩せられた……?)


 練習量の違いというのもあるが、やはり消耗する体力は桁違いだ。

 いや、それ以前に先程見た時よりも更に老け込んだように思う。


 秋生は有楽の部屋とは反対──庭を見つめ、どこか遠い目をする。


「ええ。有楽さんだけだと大変でしょうし、お目付け役というやつです」


 秋生が最後の言葉を言い終わるよりも早く、その後ろからもう一人が顔を出す。


「秋生の兄さんだけだともっと心配ですし、俺も行きますよ」


 千寿郎がにこりと笑い、凛に手を振った。


「ちょ、待ちぃや! 俺が渡すんやぞ!」

「秋は絶対落とすから駄目だ、俺が持つ」

「そんな言って自分は蒼の笑顔見たいだけやろ! 俺には分かる、絶対にそうや!」


 その時、ばたばたと走り回る秋之丞と、同年であり同期でもある雪之丞の姿が見えた。

 雪之丞は風呂敷で包まれたものを持っており、どうやらそれを取り合って喧嘩をしているらしい。


 ひょいひょいと手を高く上げ、秋之丞から逃れようとしている人間は呆れたように言った。


「……今更お前が持って行っても、蒼馬が困るだけだろ。ここは潔く俺に──」

「五月蝿い!」


 雪之丞が最後まで言い終わることなく、有楽がぴしゃりと遮った。


「いちいち小さな事で喧嘩をするな! 治之はるゆき、お前も落ち着かんか!」


 有楽は治之──秋之丞のことだ──を叱り飛ばす。


「す、すんません」


 見る間に小さくなっていく秋之丞を憐憫すると同時に、凛は溜め息を吐いた。


(伯父上も少し落ち着いた方がいいと思うのだけれど)


 秋生らが来るまであれよあれよと菓子を供され、凛は腹がいっぱいになりそうだった。


 これでは夕餉を食べられないな、と思ったが半分は有楽の所為だと正直に言えば、また面倒な事になりそうだ。


(母様に怒られませんように……)


 未だ見ぬ雪子の般若のような顔を思い浮かべ、凛は小さく震える。


「……まぁいい。しかし、今度声を上げたら夕餉は無いからな」

「そんな阿呆な……いや、善処します」


 しょんぼりと項垂れる秋之丞は、夕餉という言葉が効いたのだろう。


 肩を落として雪之丞に「すまん」と謝るさまは、借りてきた猫のように頼りない。


「自業自得だよね」


 千寿郎の小さな呟きが落ちたが、それに反論する者はいなかった。


 変わりに風の吹く音と、どこかから聞こえる鳥の声が耳に入る。

 菓子を食べ過ぎたというのもあるが、今から胃が痛くなる心地がした。


「まぁ秋之丞が五月蝿いのは今に始まったことじゃないけど。蒼の前では大人しくしてた方が身のためじゃない?」


 体調を崩したらお前の所為だし、と続ける。


(千寿の兄様、貴方はかなり言い過ぎでは……!?)


 きりきりと胃の痛みが加速する。

 しかし、やはり千寿郎の言葉を止める者はいない。


 秋之丞が次第に小さくなっていく幻覚が見え、くらりと目眩に襲われそうになった。


 ただ思ったことをすぐに口に出し、毒吐く千寿郎を止める者はいないというのが何よりの証拠だ。


「こら、千寿郎。あまり口に出すもんじゃない」

「え、事実じゃないですか」


 見兼ねた秋生が諌めるも、千寿郎はどこ吹く風といった調子で続ける。


「あれは少し厳しくしないと分からないんです。じゃないとすぐに調子に乗って、周りを振り回す」


 凛ちゃんもね、と千寿郎はこちらに視線を向ける。


(私の方を見られても……)


 凛は困惑するばかりで、何も言えない。

 確かに秋之丞は落ち着きがなく、周りを振り回すのは変えられない事実だ。


 それで何度も余計な体力を奪われた者は少なくない。

 しかし、仮に凛が何か言えたとしても千寿郎の口は普通の大人以上によく回る。

 とてもではないが、到底千寿郎に口で勝てる気にはなれなかった。


「……よし、皆揃ったことだし行くぞ」


 そう長くはない痛く静かな沈黙を、有楽の声が破った。


「と、風呂敷は凛に持たせてやってくれ」

「え、なんでですか」


 雪之丞がすぐさま抗議の声を上げる。

 嬉々として秋之丞から蒼馬への見舞い品を勝ち取った事に小躍りしていたが、突然の有楽の言葉が分からないといったふうだ。


「こういうものはな、可愛がっている妹から渡す方がいいのだ」


 お前も早く蒼馬に会いたいのは分かるがな、と有楽は苦笑して続けた。


「ほら」


 裸足のまま庭に出ると、ぶつぶつと文句を言っている雪之丞の手から風呂敷を取り上げる。

 そして凛の手の平にそっと乗せた。


「あ、お菓子……ですか?」


 そう重さはなく、いくつもの軽い音なんなのか、凛はすぐに分かった。


「ああ。早く持って行こう」


 有楽は慈愛に満ちた瞳を向け、秋生らに声を掛ける。


「蒼馬が首を長くして待っているぞ」

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