鷹城屋の絆 弐

 数日後、凛は有楽の屋敷に続く道をゆっくりと歩いていた。

 一緒に行こう、と言う蒼馬をなんとか押さえ付けてくれている両親に感謝しつつ、半ば呆れてしまった。


(私が一人で行くというのに、兄上はどうしても一緒に行きたいだなんて)


 幼子でもそこまでの駄々は捏ねないはずだ。

 大方、凛が一人で有楽の屋敷までの道中に人攫いに遭ったり、怪しい者に付き纏われたり、といった妄想をしているに違いないのだ。


(少しでも強くなろうと突っ走る私が馬鹿みたい)


 はは、と凛は自嘲する。

 総司との事があってか、凛は蒼馬の期待に応えようとこの数日ひっそりと努力してきた。


 屋敷の庭で蒼馬にも鍛錬しているのが見えるように、木の枝を持って素振りをしているのだが、それに目敏く気付くお種や雪子に言い訳をしていると蒼馬は小さく笑っているのだ。


 その笑みを見てから、より一層頑張ろうと思った矢先に情けない姿を見ては、こちらの気力も削がれるというものだった。


(兄上は伯父上のお屋敷に帰っていないし、本来なら心配されて文の一つ、迎えの一つ寄越すはずだけれど……)


 この数日、蒼馬は生家で療養していた。

 というのも、心を痛めた雪子が大袈裟なほど心配して『治るまでお屋敷には帰しません』と言っているのだ。


 生家から有楽の屋敷まではそう掛からないのだが、これも母親としての想いなのだろう。

 蒼馬もそれを分かっているから、雪子の言う通り大人しくしている。


 宮司としての務めを終えた尚士がまとわりついてくる、と愚痴を零していたこと以外はおおむね良好だ。


 凛はふと立ち止まり、空を見上げる。

 日が高く昇り、雲ひとつない空がどこまでも続いていた。


 もう少しすれば蒸し暑くなると思うと憂鬱だが、凛は確実に季節を刻んでいるのだと実感するほかない。


(それにしても)


 凛の少し先を歩いている男が、こちらを着いていく気配がないためかようよう振り向いた。


「どしたん、凛ちゃん。疲れたか?」


 こちらを振り向いた少年は、凛を見つめて快活に笑った。


「疲れたんなら秋之丞あきのじょうあに様が抱っこしたろか?」


 にぱっと歯を見せて笑う秋之丞──松下の姓を貰い受けた千寿郎の兄弟子──は、下駄を鳴らしながらこちらに近付いてくる。

 それを凛は微笑んで避けた。


「大丈夫です。すぐに着きますし、殆ど毎日歩いているので疲れてません」


 どうしてか、有楽の屋敷に向かう道中で秋之丞に会ったのだ。

 近くに使いを頼まれていたらしく、折角だから一緒に行こう、というのは秋之丞の提案だった。


 秋之丞は出会った当初から飄々として、掴みどころの無い人間だった。

 元からそういう性格なのか、どんな時も笑顔を絶やさない秋之丞はともすれば犬のように見える時がある。


 少年と青年の間にある秋之丞は、京訛りの残る声で言う。


「ちぇ、可愛くあらへんなぁ。──あ、蒼がおらんから拗ねとるんやろ? な?」


 名案だ、というように秋之丞が両手を打ち鳴らす。

 当たったかしつこく聞いてくる男は、下手をすれば総司よりも面倒臭い。


(ちょっと黙って欲しいとか、そういうのを聞いてくれたらどんなにいいか……)


 凛は溜め息を吐きたくなったが、ぐっと堪える。

 千寿郎の兄弟子なのだから、ひいては蒼馬にも影響があるのだ。


 秋之丞はなんとも思ってない可能性もあるが、ひとたび怒らせるような事があっては何をされるのか分からない。

 凛はなんとか笑顔を貼り付け、秋之丞に問うた。


「でも道を覚えてるので、先に行ってくれても大丈夫ですよ……?」


 凛が歩くのを待っていては遅くなる、と言外に言葉にする。

 馬鹿正直に言ってしまえば逆鱗に触れ、何をされるか分かったものではなかった。


(秋之丞の兄様には失礼だけれど、正直邪魔でしかない……!)


 ちらちらとこちらを見て凛が追い付くのを待っているかと思えば、足早に先に行ってしまう。


 そう長くない道中が、永遠にも感じられるほどなのだ。


「そうかぁ。ほなしゃーないし、俺は先に行ってるわ」

「へ……?」


 ほなね、と後ろ手に手を振り、文字通り秋之丞はずんずん先を歩いていく。


 意外にもあっさりと口を聞いてくれたものだから、凛は一瞬理解するのが遅れる。


「って兄様! そっちは違います!」


 これで一人、落ち着いて屋敷に向かえると思った刹那。

 分かれ道にさし掛かろうとした時、秋之丞の脚は有楽の屋敷とは逆の方向へ向かいかけていた。


 凛は秋之丞の後を慌てて追い、前に回り込む。


「あ、ほんま? 偉いなぁ、もう道覚えとるんか」


 わしわしと頭を雑に撫でられ、そこで凛は理解した。


(昔は分からなかったけれど、方向感覚がおかしいなんて聞いてない……)


 先に向かわせてはきっと何か良からぬ事に巻き込まれる、そう凛の本能が悟っている。

 腐っても歌舞伎役者で、大人達と遜色なく舞台に立つ秋之丞は町娘に人気があった。


 気を抜くと歩けなくなるまで囲まれる事もある、というのも思い出して凛は今度こそ溜め息を吐く。


「……やっぱ疲れとるみたいやし、抱っこよかおんぶしたるわ」

「え、ちょ」


 言うが早いか、秋之丞はこちらの返答も待たずに凛を背負う。


「しっかり捕まっときや!」


 その言葉を最後に、凛の意識はそこで途切れた。




「──い、おーい。凛ちゃん」


 軽く揺さぶられる感覚と自身を呼ぶ声に、凛の意識がぼんやりと浮上する。


「……っ」


 何度か瞬きをして霞のかった視界をはっきりさせると、青と黄の瞳と視線がかち合った。


「あ、良かった。気付いた? 此処が何処か分かる?」


 柔らかな声が耳朶じだに響き、そこで凛は理解した。


(此処は……伯父上のお屋敷)


 見慣れた天井は鷹城屋の弟子達が昼夜関係なく稽古する場であり、時に広間としても使っている所だった。

 そんな広間の端に、凛は仰向けに寝かされているらしい。


「……凛ちゃん?」


 未だ霞のかかる視界を瞬くことで晴らし、凛はひっきりなしに名を呼ぶ人物を見た。

 蒼馬とはまた違った優しい声は常に柔らかく、ともすれば眠ってしまいそうなほど静かだ。


 海のように深い青と、水晶のように透き通った黄色い瞳を持つ少年は、凛が何を言うかじっと待ってくれている。

 凛はもごもごと口の中で相手の名を呼んだ。


「千寿の、兄様……?」

「そうだよ」


 にこりと控えめに笑った少年──千寿郎はそっと凛の額に触れられ、ゆっくりと訊ねてくる。


「此処に着いた時はもう気絶してたんだけど、体調はどう? 気持ち悪いとか、頭が痛いとか……何か変なことは教えられてない?」

「おい、最後は余計やろ」


 間髪入れず別の人間の声が聞こえ、凛は顔だけを動かした。


「なんや手拭いとたらい持ってきたら……俺のおらんとこで悪口たぁ、関心せんなぁ」


 千寿郎、と秋之丞はさも不機嫌な表情で言った。


 手元を見れば確かに水の張った盥と手拭いを持っており、凛の為に持って来てくれたのだと分かる。


 千寿郎はぱちくりと左右で違う瞳を瞬かせ、秋之丞に微笑んだ。


「でも、お前の所為で凛ちゃんが気を失ったんだろ。こういうのはちゃんと確認しないと」

「にしても余計や」


 秋之丞はどっかりと床に胡座あぐらをかき、手拭いを盥に浸した。


「あのな、俺かて好きで走った訳ちゃうねん。凛ちゃんが疲れとったさかい──」

「言い訳だよね、それ」


 秋之丞の言葉を最後まで言わせず、千寿郎が被せるように続けた。


「あんまり信用無くなると蒼に嫌われるよ。ただでさえお前は彼奴に嫌がられてるのに」


 俺とは違って、と付け足すように言うと秋之丞から盥ごと奪い、手拭いを絞ると凛の額にそっと乗せてくれる。


「っ」


 思ったよりも冷たい手拭いの感触に、凛は図らずも声が出る。


「あ、ごめん。冷たかった? ……お前、本当に歌舞伎しか取り柄がないんだね」


 すぐさま凛に謝ると、千寿郎は双眸を細めて秋之丞を睨み据える。


 千寿郎の言葉の節々にはごく僅かな棘があり、時として相手をぶっすりと刺し貫く事が多かった。


 それを根拠に、秋之丞は図星を突かれているから何も言えなくなっており、凛の気の所為でなければ今にも泣き出してしまいそうな勢いだ。


「えっと……兄様、あんまり秋之丞の兄様をいじめるのは」


 流石に可哀想になり、凛は千寿郎の袂を引いて止めるように促す。


「ああ、ごめんね。怖かったら目を閉じて耳を塞いでおいで。その間に秋之丞はいなくなるから」


 しかしその行動をどう受け取ったのか、殊更優しい声で諭すように囁いた。


「ちょい待てや! 俺がおらん方がええんか!?」


 凛の前からいなくなるのはどうしても聞き逃せないのか、秋之丞はがばりと立ち上がる。


「うるさ……もう少し声を落とせないの」


 一応病人でもあるんだよ、と千寿郎はまた秋之丞を睨んだ。


(ああ……)


 凛は今度こそ違う意味で頭痛に襲われそうになる。

 何故かこの二人は揃えば口喧嘩ばかりで、一つ下の千寿郎がかぎりなく落ち着いている分、秋之丞の言動が目立つ。


 凛も二人の間を取り持った事は両手では足りないほどで、下手をすれば一番仲裁役を買っている節があった。


(早く誰か通ってくれないかな……)


 不自然に起き上がろうとすれば、二人掛かりで止められてしまうのは目に見えていた。

 口では滅法合わないのに思っている事は似ているらしく、それも含めて凛はこの二人のことがよく分からない。


 千寿郎のことは勿論好きだが、秋之丞は少し落ち着きさえすればいいのに、と思ったのは何度目だろうか。


(秋之丞の兄様の声はよく通るから、誰かが気付きそうなものだけれど)


 ほど近くで次の興行で打つ演目を合わせているのか、野太い声が休みなく響いている。


 自身が気を失ったから態々広間一つを空けてくれ、弟子らは他の部屋でそれぞれ演目を合わせているとあっては、有楽は勿論のこと一座の全員に申し訳が立たない。


 此処で二人の口論が落ち着くのを待っていても、よっぽどの事がない限り終わる気配は皆無だろう。


「あ、あの!」


 凛は意を決して口を開くと、先程まで喧嘩をしていたはずの二人がこちらを見た。

 千寿郎の青と黄の瞳と、秋之丞のやや明るい木々に似た瞳が凛を映している。


「……起きてもいいですか」


 一度たりと逸らす事なくじっと見つめられると、流石の凛でも尻込みしてしまい、語尾が段々と小さくなった。


「いいけどゆっくりね」

「よっしゃ、手ぇ貸したろ」


 けれど二人にはしっかりと伝わったようで、口論する前の穏やかな声に戻った。


 千寿郎の手に背中を支えられ、秋之丞の手でぐいと頭を持ち上げられる。

 思ったよりも呆気なく起きられたが、やはり凛は疑問に思った。


(喧嘩するほど、というか……本当は仲がいいんだろうな)


 互いを見ていると、これ以上ないほど二人にぴったりな言葉だ。

 そもそも千寿郎と秋之丞は従兄弟同士の為、幼い頃から共に切磋琢磨している。


 その延長で二人とも口が達者になり、口論するまでになったのだと推察するが、正直に言うならば喧嘩をして欲しくないのが本音だ。


「本当に体調が悪くなったら無理しないで言ってね? 倒れたと蒼に知れたら、俺も……いや、秋之丞は確実に怒られる」


 千寿郎は凛を起き上がらせると、努めて優しくけれど本気とも取れる声音で言った。


「……まぁ、うん。俺の所為やし、稽古終わったら潔く説教受けてくるわ」


 秋之丞に至ってはその前の千寿郎の言葉が効いているのか、何も反論することなく受け入れている。


 あろう事か行きだけでなく帰りも秋之丞と一緒なのか、と凛が遠慮しようと声を出そうとした時のことだ。


「なんだ、もう起きたのか」


 低く腹に響く声に、凛は声の主を振り仰ぐ。

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