鷹城屋の絆 壱

『いいか、凛。ちゃんと見ていなさい』


 蒼馬と総司の手合わせが始まる前、隣りに座った周助に耳打ちされた。


『蒼馬にもお前にも辛いと思うが、アレは確実に負ける』


 周助は蒼馬の方を見ずに言ったが、口振りからしてこの手合わせは総司の瞬殺だと言っているのだ。


『総司の剣は儂でもちと厳しくなっていてな、もう……この場に勝てる奴などおらん』


 それ即ち、養子であり時期宗家に、と噂されている勝太ですら勝てないということだ。


 時々腕に覚えのある強者が道場破りに来るらしいが、その全員を総司が返り討ちにしているという。


(沖田さんが昔から強いのは知ってるけれど、そこまでなんて)


 一体総司に挑んだのはどれほどの猛者なのか、こんな時なのに場違いなことを思う。


 それと同時に、挑んだ者に後遺症が残ってやしないかと心配せずにはいられなかった。


(兄上が何故負ける試合に挑むのか、そこだけは分からない……最悪、もう歌舞伎を出来ない可能性もあるのに)


 手合わせは既に始まっているが、凛はじりじりと間合いを詰めていく蒼馬を止めて欲しい、と願わずにはいられない。


 凛ですら未だに見破れない総司の剣筋を、蒼馬が見切るとは思えないのだ。


(どうかお怪我をしませんように……!)


 きゅっと手を組み合わせ、凛は祈る。目線は二人に向けたままだ。


 竹刀を平晴眼に構えたまま、間合いを詰めた分だけ空けていく総司に僅かな隙が見えたのか、蒼馬は軸足を力いっぱい蹴り上げた。


 瞬間、総司は竹刀を大上段に構える。

 が、真下に振り下ろす事はせず蒼馬の肩口に向けて音もなく下ろした。


 痛みがあったのか、蒼馬の手から竹刀が転がり落ちる。


(兄上……!)


 凛は短く悲鳴を上げた。

 痛いほど静まり返った稽古場に、蒼馬の取り落とした竹刀の音が高く響き渡った。


「──い、一本!」


 そのすぐ後に井上の声が天井まで反響した。

 凛はそろりと周囲を見回す。


 皆が皆息を呑んでいたが、凛のほど近くで数人の囁き合う声が耳に入る。

 総司の実力を身をもって知っている者達だ。


「おい、ありゃあまずいだろ」

「手加減してやれよ……」

「あの鷹城屋のお師匠さんに怒鳴り込まれちゃあ、大事だぞ」


 こそこそと言い合っているが、ほど近くに居る人間には全て筒抜けだろう。

 しかし、皆何も言わなかった。否、言えなかった。


(手加減はしてる。ただ、兄上がその境地に追い付いていないだけで)


 凛は高鳴りつつある心臓を落ち着ける為、何度か呼吸を繰り返した。


 総司の剣技はいつ見ても冴え渡ると思うと同時に、数々の試合を見てもどうあってかその剣筋は未だに見破れない。


 よわい十四ほどで総司がここまでの実力となれば、手合わせを受けた蒼馬には、とてもではないが分が悪過ぎた。


 当たり前だが、蒼馬と総司とでは実力に圧倒的な差があるのだ。


(私が覚えている限り……沖田さんが負けてしまうのはずっと先)


 試衛館に入門して以降の記憶は鮮明に覚えている。

 ただ、総司はこの時から本気になれば大の男を寝込ませるほどの力量があった。


 脚力や膂力りょりょくといった単純な力は勿論のこと、反射神経一つ取っても総司に適う者は少ないだろう。


 肩に一撃受けた──竹刀を振り下ろす力を手加減だけ、あれで総司は優しい方だと思う。

 もう少し当たり所が悪ければ、蒼馬は寝込むどころでは済まされなかったのだから。


 やがて蒼馬がその場に膝を突くのが視界に映り、凛は慌てて駆け寄った。

 凛の隣りに座して観戦していた周助は、勝太は、何も言わなかった。


 ただ『皆、戻るぞ』という小さな声が、蒼馬に駆け寄る凛の耳に入った。

 どうやら周助は庭先や道場内に残る全員を退室させ、蒼馬だけにするらしい。


(頭を冷やせという意味では賢明だけれど……)


 ちらちらと蒼馬を気に掛ける人間は少なからず居たが、宗家の命令は絶対と言ってもいい。


 道場内の者はそう大きな足音を立てず、庭先の者も視線を向けてくれていたが、それぞれに元居た場所へと引き返していった。


 蒼馬は俯いて何かを呟いているが、心ここにあらずな表情から凛は全てを察する。

 力量の差を見せつけられ、すぐに立てと言う方が無理な話なのだ。


「……あに、うえ」


 凛は極力刺激しないよう、控えめに蒼馬の袂を引いた。


「大丈夫、ですか……?」


 肩とはいえ、総司の一撃を受けてとてもではないが『大丈夫』とは言えないだろう。


「ああ……」


 こちらを見てくれたが声を出す気力も無いのか、蒼馬はそれきり黙り込んだ。

 そんな兄を見つめ、凛はなんとも言えない気持ちになった。


(折角兄上が頑張ってくれたのに、沖田さんはいつもこうだから)


 昔から自分の好きなことをし、嫌いなことはとことん嫌う人間だった。


 手合わせも蒼馬とではなく、土方の方がいいと駄々を捏ねてはいたが、こうも瞬殺されてしまうと普通ならば心が折れてもおかしくはないのだ。


「──それくらい蒼馬くんならへっちゃらでしょ」


 不意に背後から聞こえた間延びした声に、凛は振り向く。

 見れば総司が立っており、気怠そうに竹刀を床に突いていた。


「毎日毎日、こわぁいお師匠さんに稽古付けてもらってるのに。これくらいで立てなくてどうするの」


 ──いつもの嫌味を好き勝手に言うのはいいが、今はそっとしてあげて欲しい。


 そう言ってしまいたいが、とても凛が口を挟める空気ではなかった。


「僕が直々に稽古付けてあげてもいいけどさ、蒼馬くんは試衛館こっちに来るの決まってないし。……君一人でちまちま稽古してても、僕に勝つのはもっと後だと思うよ」


 ふふ、と総司はおかしそうに笑う。

 けれど同情したような眼差しは、凛には覚えがあった。


『本っ当に馬鹿だよね。女の子が戦えると思ってるの?』


 あれはいつだったか、上京してすぐの事だった。

 発案者である清河きよかわ八郎はちろうを筆頭に、浪士組として徳川とくがわ幕府第十四代将軍・家茂いえもちの警護の為に共に上洛した折の事。


 つつがなく警護が終わり、一時滞在先の壬生みぶ寺で思い思いに身体を休めていた時の事だ。


 今思えば、総司なりの『江戸へ戻れ』という警告だったのかもしれない。


(不器用な人なのは今に始まったことではないけれど、流石に今の兄上には言葉が足りないのでは……!?)


 はらはらとのっぴきならない状況の中、凛は二人のやり取りを見つめるだけしか出来ない。


「あ、言っとくけどさっきの手合わせ。あれ、本気じゃないからね」

「手加減、した……のか」


 粗い息を断続的に吐きながら、蒼馬は言う。


「──っ!」


 反射的に肩を抑えているのが視界に入ったが、凛は動けなかった。

 動いてしまえば、蒼馬としても良くないと分かっているのだ。


「……じゃあ聞くけど」


 一段声が低くなった総司の声が耳に入ると同時に、蒼馬の元にゆっくりと歩いていく。

 ぎしりぎしりと音を立てて歩く時は、総司に怒っている時の癖だ。


 凛は不自然にならないように距離を取り、蒼馬と総司の元から四尺ほど間を空けていく。


 これならば聞こえないだろう、という凛なりのせめてもの思いやりだった。


「──かった?」


 断続的ながらも総司の声は聞こえているが、右に左にと受け流す。

 これは聞いてはならない、と漠然とながら思った。


(沖田さんは兄上のことを考えて、怒ってくれている)


 ちらりと蒼馬の方を見ると、一瞬視線が合ったもののすぐに逸らされる。


 思いがけず格好悪い姿を見せてしまい、自責の念に駆られているというのも蒼馬ならば十分に有り得た。


(私が『見たくない』と言って入れば、近藤さんも止めてくれたのかな)


 いや、そもそも勝太に体調の有無を聞かれ、不自然に蒼馬の方を見上げようとしたのがそもそもの発端だ。


 試衛館に着く道中ずっと手を握ってくれたが、その力はいつもよりも強かった。

 まるで逃がさないと言っているかのように。


(手合わせは私を元気付ける為に、というのは分かっているけれど……それにしても、兄上は肝心なところで言葉が足りなさ過ぎる)


 蒼馬は普段から必要以上に、下手すれば雪子よりも世話を焼いてくれるのだ。


 しかし、蒼馬なりに思う事があったのは事実だというのも理解出来るから皮肉なものだった。


(……二人とも素直じゃないから、こういうことになるわけで)


 こればかりは個人の性格のため、凛がとやかく言うべきではない。

 が、近いうちに互いを認め合う日が来るかもしれないのだ。


(兄上と沖田さんが仲良く……は無理でも、手を取り合うまで私が『居るかどうか』は分からないけれど)


 最大の懸念は、凛が今を生きている途中で『現実』に戻る事。


 夢を見て何も無ければ未来が変わる事は無い、という願いとも取れる予想は果たして合っているのだろうか。


 そして、凛は無事に現実に戻れるのか、という事も懸念のうちの一つだった。


「はぁ……君、死にたいの?」


 流石に看過できない言葉に、凛の頬がぴくりと動く。


「僕が言うのもなんだけど、手加減無しでってなるとめちゃくちゃ痛いよ? あの土方さんでも寝込んだくらいだしさ」


 総司はそっぽを向くと、か細い声で呟いた。


「君だって致命傷になるのは嫌でしょ」


 その時、丁度総司と視線が交わった。

 新緑の瞳には、ただただ蒼馬を案じる微かな色が見え隠れしていた。


(沖田さん、貴方は……)


 本当に不器用な人、と凛は内心で苦笑する。

 思えば、総司が完全に心を開いていたのは数少ない昔馴染みの人間──筆頭は勝太だが──と、上京して一年後に出会った少女だけだった。


 名を千夏という娘は、浪士組が新選組となって少しした後にやってきた。

 身内を探して上京してきた千夏を新選組の屯所に住まわせる傍ら、家事や炊事をこなしつつ特に総司がよく声を掛けていたように思う。


(千夏ちゃんにも……会えるかな)


 きっと十年と経たず会えるだろうが、今の凛には目先の事を考えるしか出来ないのが、もどかしくもあった。


「ちょ、なに笑ってるのさ!」

「っ」


 不意に総司が反論するように声を荒らげ、凛はそれまでの思考をがらりと切り替える。


「……いや、すまん」


 くつくつと喉を震わせ、蒼馬が小さく笑っている。

 その傍では総司が耳を赤くさせ、何事かを怒っていた。


(ど、どうしたんだろう……?)


 凛はそれまで何を言っていたのか耳に入っていなかった為、おろおろと慌てる。


「まぁ」


 ひとまず傍に寄ろうとしたところで蒼馬は短く言葉を発し、立ち上がろうとする。


「兄上」


 蒼馬が立とうとして床に置いた着いた手を素早く摑み、凛は自身の肩に蒼馬の腕を回して支えた。


 蒼馬と凛とでは身長差があるからか、しっかりと立つことは出来ないが、それでも転ぶよりは遥かにましだろう。


 総司の草木を思わせる新緑の瞳は、蒼馬を不思議そうに見ている。

 深い夜を思わせる黒曜石のような瞳もまた、じっと総司を見つめていた。


 今総司が何を思い、蒼馬が何を言おうとしているのかは理解し得ない。

 しかし今はただ、見上げた蒼馬が先程のような澱みきった顔色をしていないのが何よりも嬉しい。


 そう思っていると、ぽんと頭を撫でられた。

 何をされるにも蒼馬を支えている凛に拒否権は無い為、今だけは素直に頭を撫でられるだけだ。


「俺は本気でお前とやり合いたいけど、今のままじゃ到底無理だ」


 蒼馬が言葉を紡ぐ度、広い稽古場をゆっくりと反響していく。


「でも強くならないと僕には勝てないよ?」


 しかし総司はまた嫌味のような口調になり、凛はそれをほぼ至近距離で受けているため気が気ではない。


 ただ、強くなれというのは一理ある。

 いずれ刀の時代は終わりを告げるが、それは十年以上後の事で、それ以上に江戸という長い時代が終焉を迎える。


 無論、凛はその場に立ち合っていない為、いつ終わるのか明確には分からないのだが。

 ただ、幼い頃から必要な鍛錬を積み、知識を付ける事もまた今の男子らに出来る一つの事だった。


「そうだな」


 蒼馬は総司の言葉を噛み砕くように肯定する。

 きっと蒼馬にも、己が何をすべきか分かっているのだろう。


「……でも俺じゃあ敵わないってのが今日でよく分かった」


 蒼馬は凛に視線を向けた。


(兄上……?)


 なんだろう、と小首を傾げつつも凛も負けず蒼馬を見返す。

 ふっと柔らかく双眸が細まったかと思うと、蒼馬はやや機嫌良さそうな声で言った。


「お前に勝つのは凛に任せようと思う」

「え」

「はぁ!?」


 凛は勿論、総司も素っ頓狂な声を上げる。

 稽古場には三人以外に人の影はないからか高く響き、痛いほど反響した。


「どういうこと!? 凛ちゃんに任せる、ってやり合えって言ってる? それで君は満足なの?」


 総司が矢継ぎ早に思ったことを投げ掛ける。


「それで凛ちゃんが怪我しても、僕はぜっっっったいに知らないよ!?」


 必死に総司が言い募るが、蒼馬は蒼馬で華麗に無視している。


「お前はきっと総司に勝てる」


 こちらをじっと見下ろし、優しい声音で蒼馬が言う。


(私が沖田さんに勝つ……?)


 有り得ない。

 凛が人並みに竹刀を持ち、打ち合いをするようになった頃には総司は勝太すら足元にも及ばないほどになっていた。


 それに京に居る間、暇潰しにと棒切れを持って手合わせをしたが、終ぞ総司には勝てなかったのだ。


「……そんな気がするんだ」


 凛の不安を悟ったのか、ふっと蒼馬は微笑んだ。

 敢えて曖昧に濁されたが、声音から本気で言っているのだと分かった。


「いや、本人目の前にして勝つとか負けるとか無いから!」


 総司は半ば呆れた声で蒼馬に言う。


「というか僕は目の前にいるんだけど? ねぇ見えてる? ねぇ、蒼馬くん。ねぇねぇ──」

「五月蝿い」


 ぴしゃりと言葉を遮られ、流石の総司も閉口する。


(あ、いつもの兄上に戻られた……?)


 こんな事で実感したくはなかったが、これは少しばかり総司が可哀想になる。


「こんな奴の言うことなんか気にしなくていい」


 あまりにも酷い言葉だな、と思うがこれが総司に対する蒼馬なりのせめてもの礼なのだ。

 二人とも口では互いをけなしたり揶揄ったりしているが、それ以上に認め合っている。


 凛の知る総司と蒼馬は真逆で、ずっと仲が良かったが別の未来もあったのだと思わせられた。


 凛、と蒼馬は静かに名を呼ぶ。

 そろりと凛は蒼馬を見上げ、よく似ているがまったく違う瞳が絡み合った。


「大丈夫だ。──言ったろ、お前は誰よりも強くなるって」


 な、と頭を撫でる手はこれ以上ないほど優しい。


 試衛館に入門する前から何度となく聞いた言葉は、強く凛の心に刻まれている。


(兄上がそう言うのなら)


 乗ってみよう、と思う。

 どちらにしろ、凛は先に起こる戦争まで生き抜かなければならないのだ。


 それならば、誰よりも強くなっていくのも悪くない。

 どちらにしろ『鬼姫』と呼ばれる未来は変えられない為、その名に少し早く相応しくなるだけだった。


「頑張り、ます」


 凛が紡ぎ出した小さな、本当に小さな声は稽古場に響くことなくすぐに消えた。

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