【幕間】蒼馬の苦悩
試衛館にほど近くなると、見知った顔が
「──あれ」
途端、その人物とばちりと目が合う。
(うわ……なんでこうも嫌な奴に会うんだ)
後ろを小さな子供達が着いて来るのも見て取れ、蒼馬は
「ちょ、蒼馬くん。……まえ、前髪! ふ、ふふ、どうしたのそれ!」
側までやってくると、蒼馬の姿を見たらしい少年──総司は見る間にゲラゲラと声に出して笑った。
というのも、蒼馬は試衛館に行く前に凛に前髪を結い上げてもらったのだ。
丸い額が太陽に照らされており、こちらとしては
ほんの少し前髪が焦げただけで大袈裟なのだが、『兄上の御髪を結っても構いませんか?』と可愛らしい笑みと共に向けられては、そうそう断れるはずもない。
「
総司に多少の苛立ちこそすれ、いつも通り無視しようとも思ったが蒼馬はそこで歩を止める。
手を繋いでいた凛もつられて止まり、こちらを見上げるのが視界の端に映った。
「……でも、お前はきっとこんな事されないだろうな」
ほんの少しの優越感を口元に浮かべ、蒼馬は笑う。
「何それ、おでこ出すのが?」
こてりと総司が年相応らしく首を傾げた。
「言っとくけど、僕は元服前も今も前髪下ろしてるから。まぁ……君より似合うと思うよ」
ふふ、と総司も負けずに微笑んだ。
見えない火花が散ろうとした時、蒼馬はふいと視線を逸らして凛を見つめた。
「ちょっと、無視って酷くない!?」
すぐ側で総司が何事か喚いているが、蒼馬はそれを右から左に受け流す。すべてを聞いていられるほど暇ではないのだ。
見下ろしているからか、普段は紫紺の強い凛の丸く大きな瞳は少し黒く陰っている。
幼子らしからぬ困惑した顔色も相俟って、そこで己は冷静さを欠こうとしていたのだと気付いた。
(あ、また俺は)
どうしてか蒼馬は凛が絡むと利口になれないようで、時として熱くなる事があった。
それを自覚してからは、ある程度制御するように心掛けているが、何故か今日はぎりぎりのところを踏みとどまっている。
理由は分かっている。
全ては己が招いた事なのだ。
(総司に会ったのは勿論だけど、やっぱりあの人……土方さんを呼びに行ったのは失敗したかもしれないな)
というのも、神宮寺家が昔から贔屓にしている薬屋が土方の生家のものだったのだ。
時々屋敷に来る人間が誰で、どんな名なのか知っていた為、すぐに話を付けられた。
しかしそれ以降が悪かった、と何度己を責めたか分からない。
「大丈夫だから、そんな顔をするな」
安心させるように蒼馬は凛の丸い頭をそっと撫でた。
凛は気付いていないのかもしれないが、蒼馬に撫でられるとほんの少しだけはにかむのだ。
それを見るのが楽しみで、ついつい怒られるほど撫でてしまう。
「……はい」
ふいとすぐに顔を伏せてしまったが、そんな動作も愛おしい。
「いや、これどう見ても笑ってるでしょ」
蒼馬のすぐ横から何かをブツブツと呟く声は、この際無視だ。
いちいち構っていてはそれこそ思う壺なのだが──
「何を笑ってるって?」
聞き捨てならない言葉に、蒼馬の額に青筋が浮かぶ。
「ちょっと、いきなりこっち見ないでよ。ただでさえ今の君は」
「それ以上言ったら殴るぞ」
ぐる、と意図せず喉が鳴る。
「いいのかな〜? 凛ちゃんも、後ろに小さい子達も居るけど」
さも楽しげに総司が笑い、箒をゆらゆらと片手で
余裕のある笑みを壊してやりたい、と蒼馬が拳を握り締めた時、この場に似つかわしくない間延びした声が響いた。
「なんだぁ、騒がしいな」
低くよく通る声は、誰もが知っているものだ。
蒼馬の振り向いた先には、着流し姿の初老の男が腕を組み、こちらに歩いてくるところだった。
「周助先生」
それと同時に蒼馬の手を離し、凛は周助の元に走っていく。
「お、凛も来たのか。もう身体は大事ないか?」
凛に気付いたらしい周助は目線を合わせるように
「はい。我が家が贔屓にしている方のお薬で元気になりました!」
その場で二度三度と跳ね、文字通り元気いっぱいに返事をする。
ぽわぽわと凛の周囲に花が飛び交う幻覚が見え、蒼馬は知らず口角が上がる。
(可愛い……って、違う! しっかりしろ、俺)
強く首を振って己の考えを打ち消す。まだ病み上がりだというのに、元気だとはとても思えない。
(手を握ってないとふらついてたのに、そんなに動いたらまた倒れるだろ)
試衛館までの道中はずっと手を繋いでいたが、時折止まる仕草を見せていた。
こちらが『休むか』と問うても『大丈夫』の一点張りで、蒼馬としては気が気じゃないほどだった。
(やっぱり、今日は大人しくさせておくべきだったか)
いや、蒼馬が言ったとて頑として首を縦に振らないだろう。
これで中々頑固な節のある凛は、いっそ尊敬に
「ねぇ、蒼馬兄ちゃんは行かないの?」
不意に着物の裾を引っ張られる感覚に、蒼馬はその主を見下ろした。
総司がよく遊んでいる子供らのうちの
少し前方には周助を先頭に、凛や総司、その他の子供達がわいわいと話しながら歩いている。
どうやら蒼馬はそのまま上の空になっていたらしく──きっと周助や凛辺りが声を掛けてくれたのかもしれないが──、心配した女子が残ってくれたらしい。
「行くよ。──お
「うん!」
お春は凛に負けず劣らず、大きな声で返事をした。
思い思いに談笑しながら周助らと試衛館に着くと、既に稽古を終えたらしい男達で玄関や庭がいっぱいだった。
それもそのはず、昼八ツをゆうに過ぎているのだ。
昼稽古が終わると水浴びをしたり、甘味を食べに行ったりと夕飯までの暇を潰すのが試衛館での常だった。
「おや、帰ったんですか大先生」
手拭いを肩に掛け、少し息を乱している男がひょこりと姿を現した。
どうやら稽古が終わった後らしく、玉のような汗が額や首筋に浮かんでいる。
「近藤さん!」
その男の顔が見えた途端、総司は一目散に男──勝太に飛び付く。
「……っと。庭掃きありがとう、総司。疲れたろう」
渾身の力で向かって来られただろうに、勝太は総司を難なく受け止めると、わしわしと頭を撫でる。
(なんだか猫みたいだ)
普段は気に入った人間に意地悪をしたり
まぁそれも当たり前か、と蒼馬は思う。
勝太は総司にとって恩人のようなもので、怒られまいとしているのか努めて大人しい。
反対に周助には反抗こそすれ、子供の我儘のような小さなものでしかなかった。
蒼馬も詳しい事は知らないが、総司が試衛館で寝起きしている理由は何となく察せる。
「向こうに饅頭があるから、子供達と食べておいで」
向こう、とは試衛館の奥にある広間のことだ。
主に茶や甘味、握り飯などの軽食が欲しいものはそこに集い、めいめいに休憩している。
「はい! 甘味好きな子は僕に着いてきて」
総司は満面の笑みで、子供らを先導するようにぱたぱたと玄関を出ようとする。
「若先生、だろ」
「っ!」
しかし敷居を跨ごうとすると同時に、総司は長身の男に真正面からぶつかった。
「あと余所見するなよ、危ねぇな」
さも不機嫌そうな声音で男が低く唸るように言う。
(土方さん)
土方は庭にある井戸で水を浴びていたのか、着物の合わせが緩くくつろげられ、手には手拭いを持っていた。
蒼馬はじっと土方を見つめた。
艶を含んだ黒髪を低い位置で一つに結い上げ、男にしては白い肌がどこか妖しさを思わせる。
常から眉間に皺が寄っているが、それを抜きにしたら完璧な美丈夫なのに、とぼんやりと思った。
(役者になればすぐ売れるのに、なんだって薬売りなんかしてるんだろうな)
土方家は薬屋を
雪子の生家が昔から贔屓にしている為、その延長で土方は時々薬を届けにやってくる。
笠を被っていても分かる眼光の鋭さや長い手足を抜きにしても、土方は歌舞伎役者に向いていることだろう。
「うげ、なんで今日も居るんですか」
ぶつかった相手が土方だと分かると、総司はみるみる嫌そうな顔になった。
「俺が居ちゃ悪いのか」
土方はその態度にますます眉間に皺を寄せ、総司を軽く睨み付ける。
「べーつーにー? 貴方が居ようがいまいがどうでもいいですし」
ふいとそっぽを向き、総司は玄関を出ようとする。
「あ、丁度いいし手合わせします? また前みたいに負かしてやりますよ」
しかし何を思ったか、意地の悪い笑みを浮かべ総司は土方を見上げた。
「お前……」
「まぁまぁ、トシ。総司もあまりちょっかいを出すな」
何か言いたそうな土方と総司の間に割って入るように、勝太がやんわりと言った。
「……ごめんなさい」
そう強い声ではなかったものの、総司は目に見えて項垂れる。
勝太はそんな総司の頭をひと撫でし、戸口のほど近くに立っていた凛に声を掛けた。
「見たところ元気そうで良かった。今日は見るだけになってしまうんだが……体調は大丈夫か?」
気遣わしげに問い掛ける勝太の表情は、どこか申し訳なさそうだ。
それもそのはず、勝太は凛が倒れた時にすぐさま抱き上げ、試衛館への道中を走ってきてくれた。
幼い子供の命が一瞬でも消え掛けた為、凛が目を覚ますまでずっと心配してくれていたのだ。
凛はちらりと蒼馬を見上げようとしたが、こちらを見ることなく勝太に微笑んだ。
「はい。沢山寝たら元気になりました」
にこにこと花開くように笑う凛は、蒼馬としても安堵の念を覚える。
(なんだ……?)
ただ、何かを言おうとして止めたように見えてならなかった。
「よし、じゃあ一度休憩したら凛くんに手合わせを見せてやってくれ。一組、そうだな……」
「っ、俺が!」
「僕が」
勝太が誰を名指ししようか言うよりも前に、蒼馬が素早く手を上げた。
同時に総司も控えめながら手を上げ、互いに目を瞬かせる。
「……失敗した」
よりにもよって、と蒼馬は堪えきれずに呟く。
「いや、こっちの台詞なんだけど」
すかさず総司も反論するように、べぇと小さく舌を出して悪態をついた。
かと思えば勝太に向き直り、普段よりも幾分か甘えた声を出す。
「僕の相手、土方さんがいいです」
「なんで俺なんだよ」
名指しされた土方は、さも『蒼馬でいいだろう』と言いたそうな口振りだ。
「えー、あれから成長してるか確認するだけですよ?」
こてりと首を傾げ、総司は幼子のように笑う。
「あ、もしかして僕に負けるのが怖いんですかー?」
しかし
「……あ?」
「いや、蒼馬とやってくれ」
今にも土方が声を荒らげそうなところに、周助の低く静かな声が割って入った。
「え、なんで──」
「蒼馬もそれでいいか?」
周助は総司の言葉に被せるように蒼馬に問い掛ける。
どうやら総司の願い、もとい我儘を聞く気はさらさら無いらしい。
「俺、は別に」
周助から名指しされた少しの驚きと、総司と手合わせ出来るという高揚感に蒼馬は図らずも声が上擦る。
「そこは断るところでしょ……」
すかさず総司が吐き捨てるが、語尾にはいつもの覇気が無い。そんな総司を見るのは新鮮で、蒼馬は少し気分が良くなった。
(お前に負けてばかりいられるか)
総司とは入門してから何度となく手合わせをしたが、ただの一度も買った試しはない。
元より剣術を始めたばかりだった蒼馬と、長く試衛館で過ごして剣の腕を磨いてきた総司とでは、その技術や腕力一つ取っても雲泥の差があった。
ただ、最後の手合わせをしてから月日が経っている。
その間、蒼馬は自身から見てもめきめきと上達したと自負している。
流石に周助や勝太には敵わないが、食客らを打ち負かす程度には剣に磨きが掛かったはずだ。
(それに凛も居るんだ。格好悪いところなんか見せられたもんじゃない)
己の勧めで半ば無理矢理、天然理心流に入門させたのだ。
ここで負けては兄としての威厳と、ほんの少しの矜恃が折れるのは想像に難くない。
(あの剣技を見破れさえすれば……俺は勝てる)
総司の剣筋には癖がある。
一度の踏み込みで三本繰り出される『三段突き』は、並の大人であっても見破れる者は数少ない。
しかし、目視出来ないほどの速さで繰り出されるそれは、大上段の構えをした時がもっとも隙だらけなのだ。
竹刀を打ち込まれるよりも早く蒼馬が反応し、それが無理であったら一度逃げ、もう一度同じことを繰り返せば勝算は十二分にあった。
「──兄上、どうぞ」
「っ」
目の前に突然差し出された白い饅頭に、蒼馬は目を瞠った。
「あ、いりませんか……?」
その声の主を見れば、凛が困ったように両手で饅頭を持っていた。
「いや、貰うよ。凛は食べたか?」
「兄上にあげようと思って持ってきたんです」
だからいりません、と凛は緩く首を振った。
周囲を見渡すと子供らはさも嬉しそうに饅頭を頬張り、大人達はそれぞれ茶を飲んでいた。
どうやらこれが最後の饅頭らしく、この後手合わせする蒼馬を気遣ってくれたらしい。
「じゃあ半分こしよう。その方が俺も食べられ……」
蒼馬は凛の手から饅頭を取り、半分に分ける。
「食欲無かったら無理しなくていいからな」
蒼馬は凛の気遣いを有難く思いつつ、念の為にと釘を刺す。
先程からどこかおかしい様子の凛が、もう一度倒れるような事があってはそれこそ本末転倒だ。
幸い、土方が傍に居てくれる為最悪の自体にならない事を祈るしかないのだが。
「……頂きます」
凛は小さく手を合わせ、蒼馬が分けた少し大きい方の饅頭にかぶりつく。
それを見てから蒼馬も饅頭を頬張った。
今まで食べたことがないほど甘く、美味いものだった。
四半刻ほど休憩した後、茶菓子を喫していた全員で稽古場に足を向けると、既に庭先や稽古場の端に大人から子供までの老若男女が集まっていた。
試衛館の近所に住む人間らも手合わせを見に来たらしく、わいわいと騒がしい。
丁度視界の端には凛の姿は勿論だが右手には勝太、その左手には周助の姿も見て取れ、凛は周助と何事か話しているらしかった。
声が聞こえずともその姿を見るだけで、段々と蒼馬の四肢に力が
(……落ち着け)
蒼馬はゆっくりと深呼吸をし、真正面の相手を見つめる。
「あー……なんで君となんだろ」
未だぶつぶつと愚痴を吐いている総司は、とてもではないがやる気が見られない。
ただ、その言動に反して強いというのが周知の事実の為、油断ならないというのが蒼馬の懸念だった。
(何を繰り出すか観察すればいい。見破って、下段を仕掛けて……俺が勝つ)
総司と手合わせしろと言われてから、短い間で何度も勝つ事を思い浮かべた。
総司の癖を、呼吸を、間を思い返して。
(大丈夫だ。凛も見てくれてる)
蒼馬は一度、凛の方に視線を向けた。
凛も丁度こちらを見ていたらしく、唇が『頑張れ』と動いたのが分かった。
理解した途端、知らず強張っていた肩の力が抜けていく。
蒼馬はそれに微笑みだけを返し、前を見据える。
「両者、一歩前へ」
井上の審判のもと、蒼馬と総司は一定の距離を空けて竹刀を構えた。
それまで蒼馬は額を晒していたが今は
視界が開けているのは有難いが、髪を結い上げるのは本気でやる、という蒼馬なりの決意表明でもあった。
「準備はいいかい、二人とも」
「僕はいつでも」
「……はい!」
総司は気だるげな声で、蒼馬はゆっくりとけれど確かな声音を出す。
「──始め」
井上の低くはっきりとした声が稽古場に響き、手合わせが始まった。
「ま、仕方ないから手加減してあげるよ」
にこりと総司は微笑み、『君のためだからね』と小さく呟く。
その言葉に乗ってはいけない、と頭では分かっている。
言葉で挑発し、相手が乗り込んできた時に技を繰り出す事くらい。
しかし蒼馬は敢えて応じた。
竹刀を平晴眼に構えている今、総司の半身はがら空きなのだ。
蒼馬は軸足に力を込め、床を強く蹴り上げる。
が、総司の懐に入るよりも早く、視界に入っていた竹刀が瞬く間に消えた。
「……っ」
反応が早い、と蒼馬は思った。
こちらが少し強気になれば総司はそれ以上の速さで迎え撃つ事は予想していたが、とても剣技を避ける事は出来ない。
その境地に達するには、やはり蒼馬は鍛錬が足りなかった。
僅かに諦念を抱きつつ一度瞬きをした刹那、肩口に竹刀が当たる感覚があった。
その数瞬後、鈍い痛みが肩に走る。
(は……?)
蒼馬は何が起こったのか理解出来なかった。
総司と手合わせをするのは久しぶりだが、蒼馬が思っていた以上に強くなっているのだ。
それでも何とか食らいつこうと、脳は懸命に司令を出す。
しかし蒼馬の身体は言うことを聞かない玩具のように、まんじりとも動かない。否、動けない。
たった一撃、肩に打ち込まれただけでここまでの威力があるとは予想し得なかった。
からん、と竹刀が蒼馬の手から滑り落ちる。
「──い、一本!」
竹刀の落ちた音で我に返ったらしい井上の声で、それまでしんと静まり返っていた稽古場の空気が二重に震えた。
文字通り瞬殺だった為か、蒼馬の状態で無理をさせるべきではないと悟ったのか──両方というのも有り得るが──、総司以外の誰もが息を呑んでいた。
ただ数人、総司の実力を身をもって知っている者達はこそこそと囁き合っていた。
「おい、ありゃあまずいだろ」
「手加減してやれよ……」
「あの鷹城屋のお師匠さんに怒鳴り込まれちゃあ、大事だぞ」
右に左に聞き流しながら、蒼馬は思う。
(ああ……)
やはり己の力量では到底敵わないのだ。
こればかりは努力とか才能とかという生易しいものではなく、総司だから為せるのだと痛感する。
蒼馬はその場に膝を突き、床の木目を見つめるしか出来なかった。
(俺がどんなに稽古を積んで強くなっても、彼奴は……総司はずっと先に行っている)
追い付こうにも追い付けない、追い付いたとしても遥か高見に居る、というなんとも言えない歯痒さに蒼馬はぎゅっと瞼を閉じた。
自身は剣を持つのに向いていない、とも痛切する。
そこらの大人と引けを取らないとはいえ、総司と実力を比べると天と地の差があるのだ。
圧倒的な強者が目の前に居ては超える事は出来ない。
研鑽を積めば或いは、と言うが蒼馬は歌舞伎役者として生きていく道が既にあった。
(ここらが辞め時かもな)
はぁ、と深く息を吐くと心や身体に巣食う何もかもが浄化される気がした。
「……あに、うえ」
不意に袂を引かれ、蒼馬は緩く視線を向ける。
見れば至近距離に凛がおり、光によって黒くも見える紫紺の瞳が、今にも泣き出してしまいそうなほど潤んでいた。
「大丈夫、ですか……?」
俺よりも凛の方が、と問いたいがこれは無粋だろうか。
けれど可愛い妹からの心配は、それまで暗く澱んでいた蒼馬の心を奮起させた。
「ああ……」
声になっているのかは分からないが、ただ短く言うだけで精一杯だった。
「──それくらい蒼馬くんならへっちゃらでしょ」
やけに間延びした声に、ぴくりと頬が引き攣るのが分かった。
(俺の何を知って言ってるんだ)
声の主である総司は気怠そうに竹刀を床に突き、いつの間にか凛の後ろに立っていた。
さっと周囲を見回せば蒼馬ら三人以外の姿はなく、それぞれの声や足音が稽古場に虚しく反響するだけだ。
(皆、いないのか……)
手合わせが終われば両者を称えるのが常だが、観衆が誰も残っていないとなるとそういう事なのだ。
或いは蒼馬と総司に気を遣ってくれ、皆が皆思い思いの場所に戻ったのだと推察する。
「毎日毎日、こわぁいお師匠さんに稽古付けてもらってるのに。これくらいで立てなくてどうするの」
殆ど嫌味とも取れる言葉と声に、蒼馬は奥歯を噛み締める。
反論したいが、身体を動かすことは疎か口を動かすことも億劫だった。
実際、有楽との稽古はそれは想像を絶するものだ。
何度逃げ出したいと思ったかは数え切れない。
加えていやに的を射ている言葉に、今は黙って総司の言葉に耳を傾けるしか出来なかった。
「僕が直々に稽古付けてあげてもいいけどさ、蒼馬くんは
ふふ、と総司はおかしそうに、けれどどこか同情したような眼差しを蒼馬に向ける。
「あ、言っとくけどさっきの手合わせ。あれ、本気じゃないからね」
今思い出したというように総司が付け足す。
「手加減、した……のか」
ようようの
よもや、開始早々の『手加減してあげる』が本当になるとは思わなかった。
いや、そうだとしても蒼馬は勝てなかったのだから何も言えないのだが。
「──っ!」
竹刀が当たった肩を意識した途端、ズキリと鋭い痛みが走った。
「……じゃあ聞くけど。本気で僕とやり合いたかった?」
声が低くなったかと思えば、総司は何を思ったか蒼馬の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「当たり前、だろ」
ズキズキと痛む肩を抑え、蒼馬は目の前にある総司の顔を
新緑のような瞳には、少しの疑問と純粋な興味が見え隠れしていた。
(でも)
本当に勝てるとは思っていなかったが、それでもいい勝負になると霞のような希望を抱いていたのだ。
結果は瞬殺も瞬殺だったが、それ以上に悔しいという感情がまた蒼馬の心にふつふつと湧き上がる。
兄弟子らと総司の手合わせは何度も見てきたが、目にも止まらぬ速さはそのままに、いざ自分が受けるとなると当たり前だが勝手が違う。
こちらの反応を上回る速度は、どんなに鍛錬しようが総司の域には到達し切れないだろう。
(折角凛が見てくれていたのに、このざまじゃあ何も言えない)
凛は不思議そうに蒼馬と総司のやり取りを見ているが、それだけだ。
まだ幼い頭では理解出来ないというのもあるが、何か真剣な話をしている──少なくとも凛にはそう見えているはずだ。
「はぁ……君、死にたいの?」
深い溜め息の後、総司はさも面倒臭そうに言った。
「僕が言うのもなんだけど、手加減無しでってなるとめちゃくちゃ痛いよ? あの土方さんでも寝込んだくらいだしさ」
総司はそっぽを向くと、か細い声で呟いた。
「君だって致命傷になるのは嫌でしょ」
(土方さんでも……?)
蒼馬は土方と剣を交えた事は無いが、やはり総司には敵わないらしい。
そういう意味では同類で、けれど蒼馬とは違うと明確に思った。
(多分だが、あの人はあの人なりに鍛錬してるんだろうな)
蒼馬と同じく試衛館に来るのは決まっていない。いや、寧ろ神出鬼没と言った方が正しいだろうか。
試衛館に来る時も常に薬箱を肩に掛け、似つかわしくない木刀を持っているのだ。
加えて少し泥や塵に汚れているから、得意先の屋敷を行ったり来たりしている傍ら、どこかで鍛錬を積んでいるのは明白だった。
蒼馬はちらちらと間近から視線を感じ、思考を切り替える。
総司なりに気遣ってくれたらしく、蒼馬が黙っている間も「ねぇ何か言ってよ」「やっぱ言わなけりゃ良かった」などと照れ隠しの言葉を次々に喚いていた。
心做しか耳の縁も赤くなっており、蒼馬は図らずも口角が上がる。
「ちょ、なに笑ってるのさ!」
それに
「……いや、すまん」
笑っている自覚があるからか、一度指摘されてしまえば後は堪える事が出来ない。
蒼馬はひとしきり肩を揺らして小さく笑うと、一度息を吐いた。
この身体の
「まぁ」
短く言葉を発し、蒼馬は立ち上がろうとする。
「兄上」
思ったよりも身体に負荷を掛けていたらしく、蒼馬はよろけつつあったところを凛に支えられた。
普段通り真っ直ぐに立つ事は出来ないが、なるべく凛に体重を掛けないよう意識する。
そして総司をじっと見つめた。
新緑の瞳は、不思議そうにこちらを見ている。
それに下方からも視線を感じ、そちらは見ずにそっと頭を撫でた。
「俺は本気でお前とやり合いたいけど、今のままじゃ到底無理だ」
敵わない、と言外に言葉にすると総司にはそれだけで伝わったらしい。
「でも強くならないと僕には勝てないよ?」
しかし総司は根本的な言葉を口にした。
確かに己も強くならねばならない。
が、それとこれとはまた別の話なのだ。
「そうだな。……でも俺じゃあ敵わないってのが今日でよく分かった」
言い終わると蒼馬は凛に視線を向けた。
こてりと首を傾げ、こちらを見返す瞳にはもう涙の膜は無い。
小さな身体で支えてくれている手は、足は、ほんの少し震えがあった。
(これからは)
蒼馬をただただ心配してくれる、丸く大きな紫紺の瞳。
その中に己の姿が映り、勇気を貰えた気がした。
「お前に勝つのは凛に任せようと思う」
「え」
「はぁ!?」
三人しかいない稽古場に、総司と凛の声が高く響いた。
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