この先に願う事 伍

「って凛! 着替えてから行かねばなりませんよ!」


 はたと気付いた雪子にすぐ後を追い掛けられ、凛は少し恥ずかしくなった。


「……ごめんなさい」


 あは、と小さく笑いながら凛は立ち止まる。


(普通に忘れていた)


 凛は己の向こう見ずな行動を反省する。

 確かに寝巻きのまま厨に行っては、他の女中らに笑われてしまうだろう。


 実際は幼子の微笑ましい姿になごんでいる、ただそれだけなのだが。


「まったく……威勢がいいのは良いことですが。多少は落ち着きなさい」


 やんわりと諫められ、追い付いた雪子に手を引かれてもう一度部屋に戻った。


 薄浅葱の着物に濃い鼠の袴を履き、今日は少し寒いからと薄手の羽織りを着せられる。

 髪は高い位置で結い上げ、いかにもわらわと言ったふうだ。


(少し……この身体では暑いのだけれど)


 羽織りは要らないと言っても聞いてはくれない為、蒼馬の所に行ったら脱ごうと画策する。

 幼子の身体は体温が高く、先程少し走っただけなのに温かいほどなのだ。


「──凛は病み上がりなのですからね」

「え」


 凛の心の声が漏れたのかと思ったが、どうやら違うようだ。

 雪子の表情が僅かな翳りを帯び、呟くように言った声がやけに大きく部屋に響く。


「倒れたと聞いた時、亡くすのかと思ったのです。それほど貴方は……」

「母様」


 次の言葉を待つよりも早く、凛はくいと雪子の袖を引いた。

 そこから先はまだ聞いてはいけない。何故かそんな予感がした。


「……ごめんなさいね。早く厨へ行きましょう」


 一瞬だけ驚きの色が雪子の顔に広がったが、何事も無かったように微笑んだ。

 手を引かれて厨へ着くと、前掛けをした女性が顔を輝かせて駆け寄ってきた。


「ああ、良かった。もう起きて来られないかと思っておりました」


 凛の姿を見つけると、すぐさまほっとした表情を見せた女性──お種がしゃがみ込み、凛の視線に合わせてくれる。


「あまりお食事出来ないかと思って、凛様の分は粥にしてみたのですが……食欲はありますか?」


 柔らかな声で尋ねられ、知らず凛は頷く。今は固形物を受け付けられるか、自分でも怪しいのだ。


「すぐにご用意しますからね」


 にこりとお種が笑う。

 よく考えれば、凛が知る限り昔から笑顔を絶やさない人だった。


 気を張っているのか否かは分からないが、落ち込んでいるよりずっといい。


(お種さんには一度だけ叱られたっけ)


 先の戦争──世に言う戊辰ぼしん戦争が始まる前、最後の別れになるかもしれないから両親らの顔を見に帰った。


 その時はお種もおり共に凛の言葉を聞いていたのだが、話し終わるや否や『貴方は生きねばならぬ方です』と、涙ながらに言ったのだ。


 その時は泣かれると思わなかったが、今なら分かる。


(娘のように思ってくれていたとは、あの時まで知らなかったけれど)


 お種には伴侶が居るが、その間に子はいないという。

 そのため、主人であり友でもある雪子の子らを可愛がっていた、と。


(知らなかった時が長いからか、あの時はすぐに理解出来なかった)


 今ではこれから何が起こるか知っているからか、周囲の望む通りに動かねば来たる未来が変わってしまう可能性があるのだ。


 何とも言えない歯痒さとともに、焦ってはいけないという理性も少なからずあった。


(今は……少し余裕があるし、何故時を遡っているのか探らないと)


 粥を食べ終わったら蒼馬と改めて試衛館へ出向かねばならないが、その道中で何か摑めるだろうか。


 いや、それ以上に蒼馬があれよあれよと世話を焼いてくるから、のんびり空想に耽る事や周囲を見回す暇はないはずだ。


「出来ましたよ」


 瞬間、声とともにふわりと鼻腔を刺激する匂いが漂う。

 お種が小さな鍋を持ってにっこりと凛を見つめていた。


「お部屋に持って行きますので、お先に母上様とどうぞ戻ってください。滋養に効く薬を──」

「お種」


 次の言葉を紡ぐ前に、それまで黙っていた雪子がぴしゃりと遮った。


「……ああ、そうでしたね」


 そう言うと、お種はこちらに隠すように戸棚から何かを取り出し、袖に入れる。


(あ、あのとっても苦いお薬……)


 凛はそこから取り出したものが何なのか知っている。


 雪子の生家が贔屓にしている薬屋がおり、どんな病気や怪我にも効くからと常備しているのだ。


「お種が持って来てくれるようですし、部屋に戻りますよ」


 そう言うと雪子はそっと凛の手を引いた。

 今度は厨に行く時よりも僅かに力が強く、きっと凛が『飲みたくない』と抵抗するのを防ぐ為だろう。


 しかし今ではどんな薬にも耐性が付いてしまった為、凛はぎこちなく口角を上げるだけに留めた。


 部屋に着くと、凛はお種が来るまで横になる事になった。


「母は奈津と橙馬の様子を見て来ますが……一人で起きられますか」


 自分は心配なのは分かるが、このままでは幼い弟妹を置いて付きっきりになってしまう勢いだ。


 そんな事あってはならないため、凛は緩く首を振る。


「大丈夫です。何かあればお種さんに手伝ってもらうので」

「……そうですか」


 何か言い足りなさそうな雪子の後ろ姿を見送り、足音が聞こえなくなって暫く。


「確かこれくらいの時、だったかな。行商の方が変わられたのは」


 凛は寝返りを打ちつつ、小声で己の記憶をゆっくりと手繰り寄せる。

 出入りする人間は、桜羅神宮へ参拝する人間を除くとごく少ない。


 昔から仕えてくれる者達は住み込みで働いてくれている為、誰が来たのか幼心でも気付きやすかった。


 その記憶では、笠を被っていても分かるほどとても見目麗しい男が行商に来ていたように思う。


「お顔はついぞ分からなかったけれど……歌舞伎役者のようだと噂されていたような」


 笠を被っていたが時折見える双眸は鋭く、いつでも長い黒髪を鬱陶しそうにしていた男。

 そんなに邪魔なら切るか結い上げるかすればいいのに、と幼いながら思ったものだ。


「……あの方の事は千寿せんじゅあに様に聞けば分かるかな」


 千寿とは松下まつした竹之丞たけのじょう──本名を逢月あつき千寿郎せんじゅろうという──のことだ。


 家系が歌舞伎役者の為、昔から知っている仲なのだ。

 有楽の元に来る凛や蒼馬によくしてくれ、懐いていた。


 興行を齢十二で大人と同じようにこなしているから、間近で行商の者も少なからず見ているはずだ。


「あ、でも昨日は見ていなかったんだった」


 凛が倒れてしまったからというのもあるが、普段の顔ぶれが揃っているかどうかも怪しい。


 というのも、有楽ともう一人との二人体制で興行を打ったり打たなかったりしているのだ。

 少なからず今日、千寿郎が居るのかは望み薄だといえた。


「って……焦っちゃ駄目でしょう」


 無意識に焦燥感に駆られ、凛は落ち着くためにのそりと起き上がる。

 同時に障子の向こうによく知った影が見えた。


「何一人でぶつぶつ言ってるんだ」


 音もなく障子が開くと、やや眉尻を下げた兄──蒼馬が膳を持っていた。


「兄上」


 まさか蒼馬が手ずから粥を持って来てくれるとは思わず、凛は大きな瞳をぱちくりと瞬かせる。


 蒼馬は後ろ手で障子を閉め、凛の枕元に膳を置いた。

 黒塗りの器には粥がほこほこと湯気を立て、その側の湯呑みらしきものには蓋がされている。


 緩く胡座をかいた蒼馬を見つめ、凛は小さく声を出した。


「お種さんは……?」


 持ってくると言ってくれたはずだが、肝心の本人が来る気配はない。

 蒼馬が嫌な訳ではないが、どうしてなのか疑問に思った。


「掃除が終わったんで、お前の様子を見に行こうとしたんだ。そしたら厨の皆が廊下を行ったり来たりしてるのが見えたから、俺が代わりに引き受けた」


 橙馬がつい先程熱を出したようで、手の空いた者が忙しなく動いているという。


「寒さから来るただの風邪だと思うが……それよりも」


 もう大丈夫か、と聞いてくる蒼馬は心做しか元気がない。


 目の前であのような事があったから心配してくれ、昨夜もよく眠れていないのだろう。


(そうだとしたら、兄上には申し訳ないことをした)


 蒼馬にこれ以上迷惑を掛けたくなくて、凛は安心させるように微笑んだ。


「大丈夫です。沢山寝たら治りました」


 力こぶを作って言うと、蒼馬は少し笑ってくれた。


「食欲はあるって聞いたけど、無理そうなら後でもいい。一度寝るか?」

「いえ、食べます。早く試衛館に行きたいので」

「──分かった」


 蒼馬は一瞬なんとも言えない顔をしたが、すぐさま口角を上げた。


「じゃあ全部食べないとな。あそこの稽古はきついぞ」

「……はい」


 蒼馬は冗談めかした口調だが、試衛館には独自の技が無い。


 柔術や棒術、居合までなんでも有りの実戦向きな稽古を基本としている為、一口に『きつい』と言っても個々によって差があった。


 凛は入門したばかりだが、身体が本調子になれば少しずつ竹刀を使った試合をするだろう。

 それまでは見ているだけかもしれないが、試衛館は男所帯だ。


 ただでさえ幼い子供は珍しく、女子は殆どいないと言ってもいい。

 その為、周囲と変わらない稽古が基本だろう事は明白だ。


(どんなに辛くても弱音なんか吐かない。そうして私は強くなったのだから)


 黙々と粥を食べながら、凛ははっきりと決意をする。

 何も知らなかった幼い頃に比べ、今は何もかもを覚えているのだ。


 この国で起こった数々の出来事、周囲の人々との出会いと別れ。果てには愛しい者と歩んだ、長くも短くもある人生を。


 何故自分が過去に居るのか、それはまだ分からない。

 しかし、この理由は日々を過ごす内にいずれ分かる気がした。


(まず私に出来ることは、どんな事があろうと生き抜くこと)


 たとえ死の淵に立とうとも生還し、先の戦争まで生き続けなければならない。


 それが今の凛に出来る精一杯の事なのだ。


(そして戦争が終わったら、八郎さんと残りの日々を過ごせたら……なんて馬鹿な願いかな)


 凛の知るあの時の八郎でさえ、息も絶え絶えで今すぐにでも儚くなってしまいそうな状態だったのだ。


 ただ、少しくらい夢を見ても許して欲しかった。


(どちらにしろ、今はしっかり食べないと)


 ちらりと凛はすぐ横を見る。


「どうした? 何か足りないものでもあるか?」


 黙々と粥を食べている間、蒼馬は頬杖を突いてこちらをじっと見ているのだ。


 その瞳が十歳となった男子にしては大人びて見え、これでは落ち着いて食べられるものも食べられない。


(こっちを見ないで、なんて言ったら悲しむだろうな)


 凛は己の心を悟られないよう、匙を持ったままにこりと微笑んだ。


「なんでもないです。あ、でももう少し食べ……」

「よし、待ってろ」


 凛がすべてを言い終わる前に、蒼馬は被せ気味に言うと立ち上がった。


「え、兄上……? 何処に」


 手本のような笑みを向けられ、図らずも凛の背筋にぞわりと悪寒が走った。

 とてつもなく嫌な予感がする。


「ちゃんと全部食べておけよ?」


 そんな凛の頭をひと撫でし、蒼馬は部屋を出て行った。


 


「……遅いな」


 蒼馬が出て行って少しした後、凛は米粒一つ残さず粥を食べ終わった。

 凛は褥に潜り込み、ぼうっと天井を見つめる。


 そろそろ半刻は経つのではないだろうか。

 何を持ってくるか分からない為、薬はまだ飲んでいない。


「おかわりを作ってるわけではない……と思いたいけれど」


 いや、あのなら有り得る。

 そもそも凛に殊更甘く、どんな事でもしてやりたいという思いが溢れ出ているのだ。


 それに、心做しか鼻歌が幻聴となって聞こえてくる。


(そういえば兄上は機嫌が良いと歌われるんだっけ)


 時々それに合わせて真似ていたな、と凛は自分の知っている記憶を掘り起こす。

 とても上手いとは言えなかったが、蒼馬の紡ぐ伸びやかな声が凛は今でも好きだった。


(あ、焦げ臭い香りも……)


「え!?」


 不意に感じた異臭に、凛は閉じていた瞼を押し上げた。


「──ん、凛! 作って来たぞ!」


 満面の笑みで膳を持って来た蒼馬が視界に入ると同時に、ぷすぷすと何か焼け焦げた臭いが鼻先を掠める。


「わ、わぁ……」


 ひく、と凛の頬が意思に反して引き攣った。

 まさかとは思うが、予想が当たってしまったのだろうか。


「ごめんな、厨に誰もいなくて遅くなった」


 蒼馬はいそいそと膳を置き、褥に横たわる凛を起き上がらせた。


「そう、なんです、か……」


 それ即ち、蒼馬が誰の手も借りず粥を作っていたということ。

 その証拠に袖をたすき掛けし、手の甲も僅かに赤くなっている。


(兄上はそこまでして私の為に……)


 労力を掛ける事になるなら、最初から『おかわり』などと口に出さなければ良かった。


 今も昔も、自分で出来ることは可能な限りする人間だと分かっていながら、しっかりと止めなかったのは凛の落ち度だ。


 しかし凛の目の前に膳が置かれ、何も言ってないものの『早く食べてくれ』と黒曜石に似た瞳が言っていた。


(断じて。……断じて、兄上お手製の粥が食べたくない訳ではないから!)


 蓋を開けずとも焦げた臭いがするのだが、そこを突いてしまえば終わりだ。


「……頂きます」


 厚意を無碍に出来るほど凜は落ちぶれていない。

 蒼馬の視線を一身に浴び、一言断ってから恐る恐る蓋を開けた。


「あ」


 凜は小さく感嘆の声を上げる。

 お種が作ってくれ、先程完食した粥と見た目は遜色ない。


 寧ろ蒼馬が作ったのか、と失礼なことを思うほどだ。

 凜は恐らく焦げていないだろうところを、ひと匙すくう。


「どうだ?」


 もくもくと食べ、飲み込んだのを見届けると蒼馬が今か今かと身を乗り出した。


「美味しい、です」


 予想以上に、と心の中で付け加える。


「……良かった。ゆっくり食べろよ」


 見る間にほっとした表情を見せた蒼馬は、どうやら不安だったらしい。

 当たり前だ。きっとこれが、蒼馬が一人で作る最初の料理なのかもしれないから。


(あれ、じゃあこの臭いは何処から……?)


 蒼馬が凜の方を見ていない隙を突いて蓋の裏を見ても、それとなく底を匙で探っても、臭いの原因は分からない。

 何かが焦げついた悪臭がするのは確かなのだ。


「あ、兄上!」


 粥を食べながらふと蒼馬を見ると、分かりにくいながらも前髪がほんの少し焦げて縮れていた。


「髪、どうされたんですか……?」


 まさか気付くとは思わなかったのか、蒼馬は二度三度瞬いた後破顔した。


「なんで気付くんだろうな、お前は」

「や、だって」


 ずっと気になって勝手に恐怖していたのは自分だが、予想外の反応に凜は慌てる。

 しかし隠し通す気は無いらしく、蒼馬はひとしきり笑ったあとごろりと畳に横になった。


「凜でも分かるなら母上に怒られる」


 これ見よがしに溜め息を吐くと、蒼馬は天井を見上げたまま小さく呟いた。


「──でも目を離す貴方も悪いんだ」

「何か言いました?」


 蒼馬の方を気にしながらも、思っていたよりも美味い粥を食べる事に必死の凜には聞こえていない。


「……何も言ってない。少し休んだら試衛館に行くぞ」


 己でも気付かないうちに粥を口いっぱいに詰め込み、頬を膨らませている凜に蒼馬は笑いかけた。

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