この先に願う事 肆

 褥に入ってどれほど経っただろう。凛はゆっくりと目を開く。


 辺りは薄暗く、まだ夜は明けきっていない。

 しかし、これはすぐに夢だと気付く。

 正確にはなんら変わらない自室の褥の中だが、周囲に視線を巡らすと家具装飾が僅かに違っていた。


 まさかと思い、じっと自分の手の平を見下ろすも幼子の小さな手でしかない。


(此処、は……)


 部屋は月明かりでぼんやりと明るく、起き上がった凛の影が柔らかな丸みを帯びて揺らめく。


 すん、と小さく鼻を啜る。

 どこか甘く爽やかなこの香りは、凛がよく知るものだ。


(この匂い……)


 どくりと心臓が跳ね、僅かに体温が上がる気配がする。

 自分一人で寝ていたはずが、その隣りにはつい先程まで誰かが居たようだ。


 そう小さくはない褥の半分側に触れると、微かに温もりが残っている。

 尚士ではないことは確実として、かといって蒼馬でもない。雪子は弟妹と眠るから、やはり此処に居るのは凛一人だ。


 家具の位置から『そう』予想付けるなど本来ならば有り得ない事だが、当たっていた時どんな反応をしたらいいのだろう。


 すると、凛の感情に呼応するように不意に部屋が暗くなった。


「──凛」

「っ!」


 一瞬月が雲に隠れたのかと思ったが、違った。

 目を向けた先には男が立っており、その所為で暗くなったのだと気付く。


 ほのかに甘く愛おしそうに名を呼ぶ人間は、一人しかいない。

 からりと障子が開き、姿を表した男は言うべくもない。


(八郎さん……!)


 先程よりも心音が早く鼓動を刻み、痛い程耳に入る。

 どうやら寝る前だったのか、肩まである髪は結紐で縛らずに背に垂らされていた。


 そう長くはないながらも、うなじに沿って流れる焦げ茶はどこか扇情的な色香を漂わせる。


「困ったな……此処にもなんて」


 緩やかに紡がれた言葉の意味がなんなのか、一瞬理解出来なかった。

 それは久しぶりに聞いたからでも、懐かしく思った訳でもない。


 凛の胸に宿ったのは違和感と、これから来るであろう『現実』の恐怖。


(そう、だ)


 つい数刻前も凛は気絶し、その時夢を見た。

 自分が何故か勘定方に怒っている一場面だったが、本来ならば有り得ないものなのだ。


(これはきっと、私が何か行動を起こせば先の事が変わるという暗示……そう思わなければ、有り得ない事だから)


 もしも少しでも早く何事か行動を起こし、凛が一度経験した事とは別の未来が待っていたとしたら。


 仮定としてはあまりにも曖昧で考えたくもない事だが、その予想が合っているという確証はどこにも無いのだ。


「……何処に行ったんだ、君は」


 男──八郎が褥にゆっくりと腰を下ろす。

 座った場所は丁度凛の目と鼻の先で、視線こそ合っていないものの触れられる距離に愛しい男が居た。


 額に手を当てて嘆息するさまに加え、その顔色は目に見えるほど憔悴しょうすいしきっている。


 きっとこの数日、碌に寝てもいないのだろう。小さな行燈あんどんの元でも、うっすらと目の下に隈があるのが窺える。


「──はち」


 凛は反射的に八郎へ手を伸ばし掛け、すんでのところで止めた。

 例え夢の中とはいえ、まだ幼いままの自分がこの時の人間にどうこうすれば、それこそ何かが変わってしまう可能性があった。


 仮に触れられなくても今この時、凛が見ている事実が現実になる事も想像に難くないのだ。


(……私は)


 八郎に伸ばした手をきゅっと握り締める。

 どう足掻こうと今は暫定的な未来を見ているだけしか出来ない、そんな自分が何よりも不甲斐なかった。


伊庭いば!」


 不意に障子がガタリと音を立てて開く。

 月明かりに薄ぼんやりと映る、少し大柄ななりをした男には覚えがあった。


「……本山もとやま、か」


 八郎は突然の訪問者に一瞥もくれることなく、小さく呟いた。


「何の用だ」


 普段は柔らかく目尻を下げている瞳が、今ばかりはぎろりと他者を寄せ付けない眼光を放っている。

 口調もぶっきらぼうで、それほど八郎が普段以上に苛立っているのが分かった。


「──見つかったんだ」

「は?」


 ゆっくりと八郎が本山の方を振り向いた。

 こちらを見てくれて安堵したのか、本山は部屋に入らず縁側に座して囁く。


「凛さんが、さっき」


 本山はそれきり言葉を発したのみで、その場にしんと痛いほどの静寂が落ちた。

 風が木の葉に擦れ、ザワザワとした音を奏でるのも相俟って、いやに耳に響いた。


「凛、が……?」


 ようよう絞り出された八郎の声は、どこか震えている。

 何かを恐れていたような、そんな声音だった。

 それだけで凛は察した。いや、十二分に察せてしまった。


(私の身に何かがあった……?)


 本山や八郎の口振りから凛は何がしかがあって失踪し、行方知れずになった。


 怪我をしているのか否かは分からないが、何日も姿を見せなかった為か衰弱している事は確かだろうというのが伺えた。


 加えて、本山は己の目で凛の姿を見ていないということも。


(本山さんは嘘が吐ける人じゃない。それに、少し言い方は悪いけれど……一人で危険の中を渡り歩けるほど強くもない)


 本山とは八郎と出会った数年後に知り合ったが、その時ですらあまり気が強い方ではなく、寧ろ小心者だった。


 この時の本山がどうかは分からないが、そう変わりないようで少し安堵の念を覚えた。


(だからこうして八郎さんに報告して、一緒に行くんだ。何処かにいる……私の元へ)


 夜更けとも早朝とも言えない時間帯に八郎が部屋へ戻り、そう間を空けず本山が訪ねてきたという事は、つい先頃まで共に行動していたのだろう。


 これで此処は八郎が京へ滞在している間に借り受けた小さな屋敷で、八郎と共に眠る寝所だと凛は確信した。

 そもそも部屋に置かれている見覚えのあるものは、じっと目を凝らせば凛が生家から持ってきた数少ない調度だ。


 これでは夢かと一瞬疑うな、と凛はこんな時なのに小さく自嘲する。


「っ」


 ──不意に景色が変わり、凛は小さく肩をすくめる。

 いきなりの事にくらりと目眩が起こりかけるも、二度三度と瞬いて意識を保たせた。


 どうやら此処は何処かの屋敷で、凛はその板の間に立っていた。


「凛!」


 鋭く飛んだ自身を呼ぶ声に、凛は声の主の方を探す。


「……え」


 振り向いた先は細く障子が開き、柔らかな灯りがれていた。

 その褥の上に、自分が横たわっている。


 周囲には八郎や本山に限らず他にも人間が居るらしく、何事かを話しているようだが当の凛には聞こえていない。


 部屋では八郎が何かと声を荒らげ、それを本山が止めているのが見て取れた。


 しかし、複数の人が居るであろう部屋には、八郎の怒声と本山の諫める声が雑音となって耳に届くだけだ。

 障子に耳を近付ければすぐに聞こえる距離であるのに、凛には何も理解出来なかった。


(目を閉じればいい、そしたらもう……)


 知らずのうちに喘鳴を繰り返す。

 今度こそくらくらと目眩がし、立っているのもやっとというほどだ。


(あ、でも……私が倒れたら皆が気付いてしまう)


 今の自身が見えているのか定かではないのに、凛は『すみません』と呟くと、ふっと意識を手放した。



 ◆ ◆ ◆

 


「──い、りん。凛、起きなさい」

「っ」


 ゆさゆさと誰かに揺すり起こされる気配に、凛は薄らと瞳を開けた。


「朝ですよ、凛」


 視界に入ってきたのは、きっちりと身なりを整えた母──雪子だった。

 口元に笑みを浮かべ、褥の傍に座していた。


「おはようございます」

「か、あさま」


 凛は未だ夢現ゆめうつつのまま、もそもそと唇を開く。

 どうやら既に朝を迎えていたらしく、障子の向こうにある太陽がいつもより眩しく感じた。


「……おはよう、ございます」


 のろのろと褥から起き上がり、小さく頭を下げる。

 そんな凛の目の端に、湯気の立ち上ったたらいがあった。


「今朝は寒かったので湯を持って来ました。さあ、顔を洗ってしまいなさい」


 言いながら雪子は盥を指し示す。


「けれど、起こしに来るまで寝ているのも珍しいですね。……母としてはそれでも構いませんが」


 凛が顔を洗っている間、やや苦笑しながら雪子が言った。

 雪子としては、子供たちを自ら起こしに来たいのだろう。しかし、凛の記憶の中では幼い頃ですら早起きだった為、雪子の言っている事も分かる。


 ただ、その時の凛が早起きする理由は近所の子らと遊びたいがためだった。

 我ながらお転婆だったなと思うが、今となっては可愛いものだ。


「あ、あの。……今は何刻ですか」

「昼四つだけれど。どうしましたか」


 顔を洗い終えた凛に手拭いを渡しながら、雪子が小首を傾げる。


(もうそんな時間に)


 太陽の出方からもう少し早い刻限だと思っていたが、蒼馬は既に試衛館に行ってしまっただろうか。もしくは有楽の屋敷へ戻ってしまったか。


「ああ、蒼馬ならまだ居ますよ」


 凛の心を読んだかのように雪子がにこりと微笑む。


「まだ寝ていると言ったら、寝かせておいてやってくれと。今は境内の掃除をしているはずです」


 なんでも、有楽の元へも戻らずやる事も無いなら何か手伝え、と尚士が言ったらしい。

 普段ならば尚士の頼みは何をするにも面倒くさがる蒼馬は、嬉々として屋敷だけに留まらず、拝殿内の掃除もしているという。


「あ、じゃあ今から兄上の……」

「少し遅いですが朝餉を摂りましょうか」

「え」


 所に行きます、と言うよりも早く雪子に制された。

 切れ長な瞳が『このまま行かせてなるものか』と言っている。


「だ、大丈夫です! お腹は空いていないので……!」


 跳ね起きるようにして立ち上がると、くらりと目眩に襲われた。

 くずおれそうになったところを、雪子に背中を支えられたことで持ち堪える。


「今日は試衛館に行くのでしょう? そしたら体力を付けないと。ただ、昨日の今日に倒れたばかりですから……本当は行って欲しくありませんが」


 寂しげな声音に申し訳なく思いつつ、こればかりは自分の所為なので何も言えない。

 そもそも全ては凛の行動が悪いのだ。


 だから昨日も気絶し、夜が更けて朝になってからも少し疲労が残っている。

 今でこそ楽になったとはいえ、はっきりとは言えない何かが背後から来るような心地があった。


 長く部屋に居てはいけない、と密かに脳が警鐘を鳴らしているのだ。


「えっと、じゃあくりやに行ってきます」


 これ以上心配を掛けたくなくて、凛は殊更元気な声を出した。


「母も着いて行きましょうか?」

「大丈夫です。おたねさんに手伝ってもらうので」


 このままでは自分に付きっきりになってしまいそうな雪子に、やんわりと屋敷に仕える女中の名を出す。


「そうですか……」


 お種は雪子を幼い頃から知る女性だった。

 生家から逃げるようにして嫁いだも同然の雪子を案じ、お種もそれとなくいとまを出していたのだという。


 そうした理由もあってか、雪子とお種は凛が知る限り本当の姉妹のように仲が良い。

 凛が京へ上るまでの間では、だが。


(この時のお種さんともお話したいし)


 凛個人としてはあくまで『大事な嫡女』として接された為、あまりお種本人と交流は無い。


 もっとも、凛がしっかりとお種と話すようになるのは、先の戦争が近くなってからだが。


(でも未来が変わってしまったら、その時は)


 八郎に会えるかもしれない。

 あの夢の続きを見られるかもしれない。

 それに、試したい事もあるのだ。


(これから大きく関わることになる人と、そうでない人と今関わってしまえばどうなるか……気になるもの)


 このまま大人しくしているよりも、行動を起こす方がずっといい。

 上京してから以後、この姿勢を貫いてきた。


 ──すべては後悔しない為に、と。

「行ってきます!」


 今更一度やると決めた事を変えられるほど、凛はあまり人が出来ていない。


「本当にあの子は……。仕方ないですね」


 パタパタと部屋を飛び出していった愛娘の背中を、呆れた口調とは裏腹に雪子は柔らかな微笑みを浮かべて見守る。


 直に日が高く昇り、少し暑くなるだろう。

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