第3話 悲嘆の訪れるとき

 空には細い月と星が浮いており、地上を朧な白さで染めているが、その室内は夜の闇よりも濃い漆黒がわだかまっている。

 その闇を追い払うには心許ない粗末な裸電球が放つ丸い光が、三人の人物を暗幕のなかに映し出している。


「結局、ヌイは失敗か。とんだ看板倒れじゃないかね?」


 そう言った男の銀色の長髪が薄暗い室内では眩しい。細身の長身を折り曲げるようにし、卓上に乗り出しているのはリュウゾウ・オカ。暗い青の瞳を有する、〈少女の血を呑む凶刃〉と呼ばれる連続少女殺人犯である。


「でも、そのおかげでイビの出番が回ってきたのだから感謝してるよ」


 酒精を帯びた声の持ち主は、イビ・ソ・パルルクトスという名の女性。砂色の頭髪と水色の瞳を有しており、〈砂礫の妖豹〉とも称される殺し屋である。

 イビの水色の瞳は、今も酒瓶のなかの琥珀色の液体に注がれていた。


「二人とも油断するな。ヌイが凡百の相手に後れをとることはありえない。ナイツは、それなりの腕前を有する敵だということだ」


 闇に調和する低声が放たれる。

 適度に伸びた灰色の頭髪と瞳を有し、リュウゾウとは異なり均整の取れた長身の男である。その堂々たる体格を椅子の背もたれに預けるのはカンジ・ムトウ。

 今宵、ある酒場でナイツとジアが話題に挙げた殺し屋だった。


「それにヌイは有益な情報をもたらしたのも事実だ。もう彼女の役割は終わったと考えていいだろう」


 カンジの言葉に異論を唱える声は上がらない。


「ヌイによれば、ナイツは隠喩型の強力な〈叡智〉を所有している。その〈夜の沈黙ナイツ〉によって銃弾を無力化していたそうだ」

「銃が効かないっていうこと? 厄介な相手じゃない」


 イビはそう言うと、酒瓶に直接口をつけて中身を呷った。その言葉ほど脅威を感じている様子は無い。

 カンジも同様に、その声音には寸毫の怯えも含まれていない。


「その通り、厄介な能力ではある。だが、それを事前に知っておけるということが、ヌイの功績だ。どれだけ強力な〈叡智〉であろうと、知識があれば渡り合うことはできる」

「そう言うが、小生はナイツなんかと争う気は無いな」


 カンジの言葉に続けたのはリュウゾウである。女性にしか興味のない男の発言であったが、カンジは鷹揚に頷いた。


「リュウゾウの言うことにも一理ある。我々の目的はサンであって、ナイツではないからな。ナイツとは交渉の余地がある」

「交渉? 取引でもしようというのかね」


 カンジは顎を引いて、リュウゾウの言葉に同意を示す。


「わざわざ敵対するほどのことも無い。仮にナイツがサンの護衛であっても、俺たちが相手と知って歯向かうほど愚かでもないだろう」


 イビとリュウゾウはその言葉の意味を理解した。


「小生は男の相手はごめんだね」

「脅しをかけるならイビが行くよ? 間違って殺しちゃうかもしれないけどさ」

「いや、俺が行く」


 好奇心を帯びた二対の瞳がカンジに注がれる。カンジのナイツへの関心が高いことを二人も感じ取っているのだ。


「交渉がてら、ナイツを直接見てみたいというのもあるからな」


 イビとリュウゾウの目には、背もたれに身体を預けるカンジが闇と一体化したように暗く映っていた。





 混沌と享楽の時間は、空が乳白色に染まることで終わりを告げていた。

 昼間には秩序の仮面を被った人間が、その仮面を外して心置きなく演じた狂態を一夜の間眺めた月は、地上の眺めに飽きたように色褪せている。

 東の空は茜色に塗られているが、太陽はまだ地平にその姿を隠していた。


 夜でも朝でも無い時間、ナイツは帰路を歩んでいる。

 珍しくジアが酔い潰れなかったため、朝方まで飲み明かしたナイツはジアと別れると酒場から帰宅の途に就いている。


 ナイツの自宅がある裏通りに入ったとき、人通りは途絶えていた。

 だが、ナイツが歩む横手の路地から人影が現れる。


「ナイツ、だな?」


 その声を聞いたナイツが驚いて飛び退いた。酔っていたとはいえ、男に声をかけられるまでその存在を察知できなかったのだ。


「……あなたは?」

「カンジ・ムトウという名前だ」

「カンジ……」

「話がしたい。そこに小さな公園があったな。場所を移そう」


 昨夜、ジアから話を聞かされたカンジが出向いてきたことにナイツは驚きながらも、その言葉に従った。


 少しの時間を経て二人は公園に場所を移していた。

 公園と言ってもそれは名ばかりの広場であり、数本の樹木が植わっているのと長椅子が配置されているだけだ。


「話というのは?」


 公園の端にある長椅子の前に佇むナイツが問いかける。

 カンジは長椅子に腰かけており、敵意は無いと言外に語っているようでもある。


「お前も分かっているだろう。サンのことだ」

「……」

「サンの護衛から手を引いてほしい。こちらは大事になるのを望んでいないからな」

「護衛……? 自分がサンのですか?」

「とぼけるな。そうでなければヌイと戦うことなどしないだろう」

「あれは行きがかりで戦ったまでのことです。自分はサンの護衛ではありません」


 カンジはナイツの言葉を見定めるように双眸を細めている。


「まあ、それでもいいだろう。お前の言葉通りならば、お前にサンを守る必要は無いということだな。今後、俺たちの邪魔をしないでもらおうか」

「……」

「どうした。不服でもあるのか?」

「いえ、サンは自分にとって知らない相手ではありませんし、サンの危険を素知らぬふりはできません」

「ほう。自身の生命をかけてまでもか?」

「それは……」


 ナイツの目線が思わず下がった瞬間、その胸に軽い衝撃が加わる。ナイツが怪訝を帯びた瞳で見下ろすと、足元に小石が転がっていた。

 ナイツが両の瞳の焦点をカンジに戻す。小石はカンジが投じたものに違いない。


「何のつもりです」

「お前の〈叡智〉は飛来物を無力化できる能力らしいが、弱点もあるようだな。今、それを見つけたところだ」


 ナイツが押し黙るとカンジは立ち上がった。警戒したナイツが四肢に緊張を走らせる。


「いいか、ナイツ。……俺は頼んでいるのではない。命じているのだ。サンから手を引け、さもなくば……」


 カンジが朝の空気をかき乱しつつ踏み込んできた。カンジの巨躯を迎え撃つナイツは、至近距離だが拳銃を抜こうと懐に手を入れる。

 ナイツが銃を抜くよりも早くカンジが肉薄し、その腕を押さえた。

 同時にナイツの腹部に鋭い痛みが走る。

 カンジが小型の刃物をナイツの腹に浅く突き立てたのだ。表皮を刃先が抉る程度だったが、その痛みがナイツの視野を明滅させた。


「ナイツ、俺の〈叡智〉を教えてやろう」

「〈叡智〉……⁉」

「俺の〈癒えない空白レヴィナス〉を発現させて生じた傷は、二度と癒えることは無い。お前の腹の傷からは、一生その赤い血が流れ続けることになる」


 ナイツが目を瞠った。


「浅手だからな。日常生活には支障無いだろう。だが、俺はこの刃物をもう少し深く刺すこともできる」

「……」

「また沈黙か。煮え切らない奴だな。……ふん、まあ、よかろう」


 カンジが身を引き、ナイツの鮮血に濡れた刃物を懐にしまった。


「これは警告と同時に忠告でもある。お前を殺すことは容易だが、無用な殺しをしたくはないし、お前のような小物に煩わされたくないのでな」


 カンジが口辺を歪めて笑みを作った。

 ナイツは腹部の傷を押さえたまま突っ立っている。酔いの覚めたその顔は血の気が引いていて、完全に位負けしていた。


「俺の話は終わりだ。何も言いたいことが無いようなら、とっとと去ってもらおうか」


 ナイツは口を開いたが、そこから言葉が出ることはなく、足早にその場を立ち去った。

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