第7話 去り行く、安らぎの後ろ姿
朝方までジアにつき合わされたナイツが自宅の玄関をくぐった。
一人で飲むときは際限なく飲むが、ジアと一緒だと酔った恩師の介抱や迷惑をかけた店に謝る役目があるため、今朝のナイツは余裕のある足取りだった。
窓辺に差し込んだ朝日が無垢に白いだけ、それ以外の暗がりはより陰鬱さを増したように映る。その部屋の主が寝台に腰かけ、長椅子に目を向けた。
そこには招いてもいない客人の姿がある。小柄な五体を長椅子に預けているのは若い女性であった。どうやら眠っているらしい。
光沢のある黒髪が肩までを覆い、閉じられた目蓋の奥には、すべての色素を溶け合わせて生まれたように深淵な黒い瞳を秘めている。底知れない深みを持つその瞳と幼い顔立ちが好対照をなし、彼女の容貌を印象的なものにしている。
女子大学生のサン。それがナイツの知る彼女の素性だった。
今は、ジアの情報によってより多くのことをナイツは知っている。
無意識にもナイツの視線を感じたのか、サンが小さな声を口唇から漏らして身を起こした。
夢の名残を引きずるように虚ろな眼差しで四方を見渡し、それがナイツに辿り着くと、サンは慌てて身だしなみを整える。
「か、帰っていたんですか? ナイツ」
「ええ」
ナイツとサンが顔を合わせたのは、ヌイに襲われた夜以来だった。
何者かに銃撃を受けて破損した窓も、すでに修理して新品となっている。
「お邪魔しています」
「その言葉、初めて聞いたように思いますね」
「すみません」
しおらしく頭を下げるサンを見て、ナイツは戸惑った。普段の闊達さを剥落させたサンの気重な態度は、ナイツに馴染みにくいものだった。
「実は、ナイツに言いたいことがあって。今までは言う機会が無かったものですから」
「ああ。そうでしたね」
「この前、ナイツには過去のことを教えてもらいましたし。私も自分のことを話さなければいけないと思ったんです」
「はあ」
自身の過去を話した当時は酩酊していたために記憶の薄いナイツは反応も淡い。熱意に欠けるナイツには拘泥せず、サンは滔々と語った。
まず、サンは自身の出生について触れた。本人の説明だけあって詳細な描写もあったが、ナイツが昨夜ジアに聞いた内容と変わらない。
その次にサンが言い放ったことも、ナイツには既知のものだった。
「私には〈叡智〉があるんです。この前、言いましたよね」
「……そうでしたね」
ナイツとサンが出会い、一方的にサンが押しかけてきた頃だった。サンは自身が〈叡智〉持ちであることを明かしたのだが、そのときナイツに仕事が入ったために会話を中断したままになっていた。
その後にサンが発した言葉こそ、ナイツの酔いを醒まさせるに足るものだった。
「私の〈叡智〉は〈
「他人の心を……?」
「そうです。〈叡智〉を発現させて相手を見ると、その人の考えていることが分かるんです」
それを聞いて、これまでサンに対して抱いていた疑問をナイツは氷解させる。ナイツはかつて聞いたサンの言葉を思い返した。
『ナイツさん、そのお店のパンが好物なんですね。食べるのを凄く楽しみにしているみたい』
『今、『うるせえなあ』って思っていましたよね』
『でしょでしょ⁉ 今、『美味え』って思いましたよね! 分かるんですから!』
サンが言動の端々に見せるあの勘の良さ、または直感力だと思われたのは、彼女がナイツの心理を読みとって行動していたからだということになる。
無断で内面を覗かれていたと知り、ナイツの心中の水面が不穏に波立った。誰しも自身の胸中を盗み見られれば、平静ではいられないだろう。
「ごめんなさい。怒っていますよね?」
「それも心を読んだのですか」
「今は違いますよ」
意地の悪いナイツの物言いに悄然としてサンが答える。年下の女性に放つにしては声音の圭角が鋭すぎたと自省し、ナイツは感情を抑制するのに苦労しながら問いかけた。
「なぜ、そのことを告白する気になったのです」
「ナイツには謝らないと。この〈叡智〉があったおかげで、初めて会ったときにナイツが殺し屋だと分かったの。本当は優しくて殺し屋をしているのが嫌なんだけど、理由があって止められないということも。だから、あなたに近づいたんです」
「自分が、殺し屋だから?」
「私、お
サンが断言したのは、〈叡智〉を使って相手の内心を見たからだろう。
「あの夜、ナイツに助けてもらったとき、咄嗟に思ったんです。もし怖いことがあったら、この人に守ってもらおうって。それで強引でもナイツに気に入られようとしていたんです」
自身の利己的な考えを恥じるようにサンがその言葉を吐き出した。
サンが面を伏せているのは、ナイツがどのような視線を自身に注いでいるか直視する勇気がなかったからだろうか。
「そう……ですか」
サンの告白でナイツは納得した。
二人の交友の当初、その厚顔ぶりに戸惑ったナイツだったが、サンは彼に取り入るために行動していたのだ。
ナイツが困惑しつつも嫌悪を感じなかったのは、その心理を〈叡智〉によって見透かしたサンが仕向けたのだ。
ナイツは事の次第を理解した。だが、許容できるはずもない。
「これまで自分に見せていたあなたの姿、あれは演技だったのですか」
ナイツにとって、サンは初めて殺し屋という仮面を外して語らえる存在だった。
ジアやレンヤなどとは異なり、彼がただのナイツとなって触れ合えるのはサンだけだったかもしれない。
ジア以外に知らないナイツの過去を教えるほど気を許していただけに、その関係をサンが意図して作り上げたと判明し、ナイツの心情は大きく揺れている。
「ち、違います! 確かに最初は目的があって親しくなろうとしたけど、ナイツのことを知るほど元気づけたくなって、今はそれ自体が目的となったというか……」
「残念です。利用しようとしているなら、いっそのこと打ち明けないでいてくれる方がよかった。自分も気持ちよく、あなたを守ったことでしょう」
「そんな言い方……しないでください」
ナイツがサンから目を離し、窓外にその行く先を落ち着ける。
この部屋の重々しい澱のような空気と異なり、ガラス一枚を隔てた世界は温かく穏やかな光に包まれてクソ忌々しい。
「許してなんて言えませんよね。この前、私のせいで危ない目に遭わせてしまいましたし」
物音がしてナイツが振り向くと、そこには後ろ姿があった。
もしかしたら、それ以上の意味を有するかもしれない、サンの後ろ姿。
「ごめんなさい。もう会いに来ません。さようなら」
悲哀に濡れた声を背中越しに言い残し、サンの背中が遠ざかった。
ナイツはそうできたのに、サンを追うことをせず、ただその細い背中が玄関を出ていくのを見送っていた。
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