第6話 いつもの夜、酒場である少女について

 その若い青年の名はナイツという。

 琥珀色の液体で満たされた酒杯を両手で包み込むように握り、黒い髪と黒い瞳をした彼が夜も更けた酒場の椅子に座っているのには理由がある。

 ナイツの隣には連れ合いの女性がいた。


 ジア。

 黄金色の巻き毛を背中に長く垂らし、焦げ茶色の瞳を有する美女だった。目元に漂う色香は、淫靡というまでの芳香を匂わせている。酔いがその面を緩ませていることが、さらにジアの印象を際立たせている。


 ナイツに殺し屋としての技能を教えたのはこのジアであり、ナイツにとっては一番気心のしれた存在でもあった。

 ヌイとの戦いを終え、サンを家まで送り届けた翌日の夜、ナイツはジアと酒場に赴いていた。


「あんた、飲み足りなそうな顔をしているねえ。ほら、もっと飲みなよ。ちょっとお兄さん、こいつのお代わりをお願い」


 ジアが店員に催促するのをナイツは押し留める。


「先生、もういいですから」

「いいや、あんたはまだ酔っていないね」

「自分ではなく、先生が酔っていらっしゃるので」

「私はまだ平気だよ。それより私と酒を飲むのが嫌だっての?」

「そんなことはありませんよ」

「じゃあ、それ、もう一献」


 店員に注いでもらった酒杯をジアは掲げる。芋を蒸留した焼酎が彼女の好みだった。


「もう一杯だけですよ」

「はい、乾杯」


 二人の酒杯が打ちつけられ、浮かべられた氷が揺れて軽やかな音が鳴った。

 一息で酒の半分を喉に流し込んだジアが、瞳を酒精に曇らせて言い放つ。


「ナイツ。最近、あんたのところに出入りしている娘がいるみたいだね」

「あ、いや、別に。ただの知人ですから」


 困惑しているナイツに遠慮することなくジアは彼の私生活を穿鑿する。


「そーお? 頻繁に会っているみたいじゃない」

「それは向こうから訪ねてくるので。自分から呼んだことは一度もないですよ」

「まったく、自慢するっての?」

「そういうわけでは……」


 言い淀むと、ジアが肩をナイツのそれに押しつける。


「ま、深い関係ではないってのは本当だろうね。あの娘、まだ女じゃないみたいだし」

「先生、どういうつもりですか」


 会話が思わぬ方向に逸れ、ナイツが憤りを込めた視線をジアに向けるが、意外にも真剣なジアの表情と出くわした。


「それは私が言いたいことだよ。あんた、あの娘が何者か分かっているの」

「は、いや。何者かって……」


 今にしてナイツは、サンの素性について一つも知るところがないことに思い至った。

 それはナイツが仕事を終えて帰る途中のことだった。暴漢に絡まれていたサンをナイツが助けたことで奇妙な交友が始まったのだ。

 ナイツはその出来事を忘れ去っていたが、サンから積極的に接触を図ってきたことで、その関係は現在進行系となっていた。


 ジアは酒で口唇を湿らせてから言葉を紡ぐ。


「あの娘の名前は、サン・トウゴウ。ユウツゲじゃ有名な資産家が愛人に生ませた娘だよ」

「どうしてそのようなことをご存知なのです?」

「知り合いから聞いてね。いわくつきの娘だって」


 ジアは、サンについての説明を続ける。

 その資産家が五十歳を過ぎて愛人との間に生まれた女の子がサンだという。老齢に差しかかって授かった娘だったため、同居できなかったものの父親はサンを溺愛していた。

 サンが大学進学のために、ユウツゲの高級住宅街からこの地区に引っ越してきたのが数か月前だった。


 問題は、遺産相続の点でサンを邪魔に思う正妻とその実子たちである。サンに対する父親の偏愛が、正妻の子らに危機感を抱かせたのだ。

 もっとも、サンが生まれたときには実子たちは成人しており、その愛情の注がれ方に差異が出るのは当然だった。そのことに気づかずにサンへと憎悪を向けたのは、やはり正妻の子らが思考を歪ませていたのかもしれない。


「サンの父親は一年ほど前から衰弱していてね。母親は愛人だから権力もないし、サンを庇護する存在がいないんだよねえ」

「それはつまり?」

「資産家の嫡子のボンクラどもが、これを好機にして性急な手段によってサンを排除することもありえるだろうさ」


 ジアにしては迂遠な口振りだったが、その意図はナイツにも伝わる。

 サンは嫡子から生命を狙われているのだ。先夜、ヌイが襲撃してきた理由が図らずも判明したことになる。

 ヌイとの一件については、ナイツはジアに話していない。


「先生、その知人の方というのは?」


 ジアの周囲で事情通といえば、同じ業界の人物だろう。そこまで話が広がっているならば、事態は切迫しているのだろうか。


「それは言えないけどね。ま、あの娘と会うのだったら、あんたも注意しなよ」


 ジアが酒を飲み乾す。

 空になった酒杯に氷が打ちつけられる音が、今度はナイツの聴覚を不快に突き刺した。

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