第5話 争闘の一夜、沈黙と神音の廃墟

 階段を上っている間に装弾を済ませたとき、なぜか耳鳴りが軽減していることにナイツは気がついた。

 二階に上がったサンは立ち止まって首を巡らしている。


「ナイツ、ここは隠れるところがないですよ!」

「上に!」


 ナイツはサンの背中を支えて上階に走った。

 窓から差し込む月明りを頼りに見回すと、三階は事務所に使われていたらしい。幾つか事務机が残されており、複写コピー機なども据えられていて身を隠す場所には事欠かない。


「そこの机が並んでいるところに隠れましょう」

「は、はい」


 ナイツは階段から見て一番奥に位置する机にサンを連れていく。

 二人は並んで腰を下ろして小休止した。ナイツには先ほどの耳鳴りの疼痛が残っており、荒い息を吐いている。


「ナイツ、大丈夫?」

「気にすることはありません。何も銃で撃たれたわけではないですから」


 自身を気遣ってくれるサンを安心させようと、ナイツは笑みを浮かべてみせた。そのとき、ナイツはあることに気づいた。


 サンの肩が震えている。

 当然だろう。理由は分からないが、いきなり自身の命を狙う者が現れたのだ。

 もし照明が点いていれば、サンの顔が蒼白になっていることも認められたに違いない。


 ナイツはサンを勇気づけたいと思ったが、どのような言葉をかければよいか見当がつかない。

 咄嗟にナイツはサンの肩に手を回して抱き寄せていた。

 サンの肩に触れた掌から震えが伝わってくる。ナイツがサンにちゃんと触れたのは、これが初めてかもしれない。


 細くて小さな肩だった。いつもの闊達なサンの姿からは想像のできない、弱々しく、儚げな印象にナイツは胸が詰まる。

 しかし、その温もりは不思議なほど強くナイツの掌に伝わってきた。それがかけがえのない感触に思われて、いっときナイツは安堵を覚えた。

 いつの間にかサンの震えも治まっている。


「……ナイツ、ありがとう」

「……いえ」


 見つめ合った二人は、薄明かりのなかでお互いに微笑んでいた。


 ふと、束の間の安らぎを破る不吉な足音が二人の耳朶を打つ。

 ナイツ達を追いかけてきたヌイが三階に上がってきたのだ。それと同時に、再び耳鳴りがナイツを襲う。


 キィ——————ン!


 脳を揺さぶる甲高い音が頭のなかで駆け巡り、思わずナイツは呻き声を上げた。

 心配そうに見つめてくるサンの顔の輪郭が二重に見えたが、ナイツは平気だというように頷いて立ち上がった。


「ヌイ、なぜ自分達が隠れている場所が分かったのです」

「何度も言わせるな。神のお導きによって、私にはお前たちの居場所が分かる」

「自分にも分かることがあります」

「ほう?」


 ヌイはナイツの射線から身を外して立ち止まった。


「あなたが聞いているのは神の声ではない。自身の〈叡智〉の異能によるものだ」

「……そうだ。神から授かったこの力、〈静謐なる神音ペトラルカ〉を破れるものか」


 その言葉の語尾が虚空に消えるよりも早くヌイが駆け出す。窓から差し込む月光が唯一の光源であり、薄暗い室内でもヌイは淀みなく移動した。

 ナイツも反応したが、激しい耳鳴りの影響で動きに遅滞が生じる。二連射した弾丸はヌイを捉えられずに壁を穿っただけだった。


 さらにナイツはヌイを見失った。三半規管に負荷がかかり過ぎたのか、前後左右も判別できずに周囲を見回す。

 その場に立ち尽くしているナイツに向けて数発の銃弾が飛来した。ナイツの横に位置する壁に幾つもの穴が開き、一発はナイツの腕を掠めた・・・・・・・・・


「しまった……!」


 傷を負って動転したナイツは、身近にあった複写機の陰に飛び込む。

 ナイツは複写機に背を預け、息を静めながら思考を巡らせた。

 この耳鳴りがある以上、卓越した殺し屋であるヌイを退けることは不可能だ。耳鳴りの原因はヌイの〈叡智〉であるが、どのような能力であるのか。

静謐なる神音ペトラルカ〉の発現している効果が判明すれば、対処のしようもある。


「ナイツ、今度は複写機の横に隠れたのか。隠れてばかりでは守れないぞ。そこの机の後ろにいるサンをな」

「この暗闇のなかで、よくも分かるもので。その神の声とやらは」

「そうだ。この声がある限り、私には視覚は必要ない」


 ナイツは苦痛に顔を歪めながらも、必死に思惟を紡ぐ。

 これまでのヌイの言動、ナイツの耳鳴り、すぐ傍にいたサンには耳鳴りが聞こえなかったこと。それらを思い返し、ナイツはヌイの〈叡智〉の正体を看破した。


「あなたの信じる教義には、饒舌は罪だという考えは無いようですね」

「無いが、それがどうしたというのだ」

「もし、そのような教義があったとしたら、自分はあなたに勝てなかった」


 ナイツは自身の〈叡智〉である、〈夜の沈黙ナイツ〉を発現した。





「まるで、すでに私に勝ったと言いたげだな。ナイツ。だが……、何だ?」


 それまで余裕のあったヌイの声音に怪訝の糸が絡まった。今まで捕捉できていたナイツの気配が、急に霧消したのだ。

 ヌイは〈叡智〉の『波長』を変えてみたが、ナイツの居場所を特定することができなくなっていた。


「ヌイ、あなたの〈叡智〉の効力は、常人には聞こえない音域の波長を聴き取り、また発することができるものだ。いわゆる超音波を操っているというわけです」


 暗闇の帳に閉ざされた室内のどこかからナイツの声が聞こえる。ヌイは注意深く四方を見渡しながら銃を構えた。


「常人には不可聴域の音波を発し、反射した音波を強化した聴力で聞き取ることで、視界が効かなくても他者の位置を正確に読み取ることができる。闇のなかで狩りをするコウモリと同じ理屈ですね」


 窓から差す月光のなかで立ち上った埃が、きらきらと舞い上がっているのをヌイが視野の隅で捉えた。すかさず三発の銃弾を見舞ったが手応えは無い。


「超音波は指向性を持たせて照射できるため、自分には耳鳴りが聞こえたのに、隣にいたサンには影響が無かった。しかも、あなたが操る超音波は対象の居場所を特定できるだけでなく、三半規管に甚大な損傷を及ぼして相手の動きを阻害する」

「ナイツ! いったい何をした!」


 ヌイが声を荒らげる。


「自分の〈叡智〉であなたの〈静謐なる神音ペトラルカ)〉を殺し・・ました。仕掛けが分かれば、能力を無力化するのは造作もないことです」

「これが〈夜の沈黙ナイツ〉か……!」

「〈叡智〉を失った途端、これほど不甲斐なくなるとは拍子抜けですね。あなたは強力な能力に頼り過ぎです。……自分が言えた義理ではないですが」


 ヌイは背後に足音を聞いた。

 即座に振り返ると同時に拳銃を向けたが、ヌイが発砲するよりも早く衝撃と激痛が身体を突き抜ける。

 右肩から鮮血を噴出させてヌイが倒れ伏した。

 ヌイの手を離れた拳銃が床を転がったとき、戦いの趨勢が決したのを両者は理解した。





「これまでのようですね。なぜ、あなたがサンを狙うのですか?」

「それを言うわけにはいかない。早く私を殺すのだな」

「これからは、神の声を直接聞くことになるようです」


 ナイツが銃口の延長線上にヌイの胸を捉える。引き金にかけた指に力を加える寸前、上擦った制止の声がかけられた。


「ま、待ってください!」


 机の陰から飛び出したサンが大声を上げていた。


「その人を殺さないでください」

「サン? しかし……。理由は分からないですが、ヌイはあなたを狙ったのですよ」

「そうですけど、結果的に傷つけられはしませんでしたし」

「ここで見逃せば、再びあなたを狙うかもしれません」

「……そのときは、またそのときに考えます。とにかく、お願いです。ナイツ、殺さないで」


 サンから必死の声音でお願いされ、ナイツは顔を困惑に歪めた。


「あなたの気が知れません。どうして、そのようなことを?」

「私のせいでナイツに人を殺してほしくないんです」


 ナイツは押し黙った。懊悩を押し切ったナイツがヌイに渋面を向ける。


「あなたを殺す理由は無くなりました。ただ、一つだけ誓ってください」

「……何だ」

「もう二度とサンを狙わないことです」


 ヌイは、生命を狙われた相手の助命を嘆願するサンを凝視する。道化面を着用しているためその表情は窺えないが、驚愕していることは間違いないだろう。

 道化面の下からくぐもった声が放たれる。


「私は、これまで神にしか誓いをしたことはなかった」


 その声音は、様々な感情が入り混じった名状しがたい響きを帯びている。だが、次にヌイが口にした一言には、紛うこと無き誠意が宿っていた。


「今夜ばかりは、お前に誓おう。もう二度と、私はサンの生命を脅かすことはしない」

「……分かりました。ここから立ち去ってください」


 ヌイは緩慢に身を起こすと、右肩の傷口を押さえながら歩み去る。特段、恐れる様子も見せずに静かに歩く背中には、誓いを交わした者への信頼があるようでもあった。

 神の敬虔な信者が去った後、ナイツはサンに近寄った。


「恐らく、ヌイはあなたのことを諦めるでしょう。あの人の行動原理が神である以上、あの誓いを破ることはしないはず」

「はい。ありがとうございました。……あの、ナイツ、怪我はありませんか?」


 ナイツは左腕の銃創を隠すようにしたが、目敏くサンが傷口を発見する。


「撃たれたんですね……。ごめんなさい、私のために」

「いえ、掠っただけですから」


 サンは悄然としてナイツに近づくと、手巾ハンカチを取り出してナイツの傷口に巻き始めた。


「本当にごめんなさい。やっぱり、こんなことよくなかったんだ」

「サン、何を言って……?」

「ナイツには、ちゃんと私のことを話していませんでしたよね。もっと、早く言わなくてはいけなかったのに」


 常とは異なるサンの神妙な態度にナイツは困惑する。


「話は後で聞きましょう。とにかく、今夜は自分が送っていきますから」

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