第2話 穏やかな昼、殺し屋の部屋より
その日、ナイツは珍しく朝から起きており、二日酔いの気配も見せなかった。
室内を雑巾で水拭きし、最近増えた少女漫画を収納する場所を確保する。
ナイツが朝から能動的に働くのは珍しい。要は、日課ではなく気紛れであった。
作業が一段落したナイツが長椅子に座り込んで時計を確認する。
腹ごしらえでもしようかと思い、冷蔵庫を覗いたが何も無かった。手伝いに行っているパン屋からもらったパンも切れている。
仕方なくお茶で空腹を誤魔化そうと考えたナイツが湯を沸かしていると、部屋の前から騒々しい足音が響いた。
まさか、あの人物が来たのかと怪訝な面持ちになったナイツの耳朶を、鉄製の扉を叩く音が震わせた。
「ナイツ! いますよね、分かっているんですから」
居留守を使うのも無駄だと学習したナイツは素直に扉を開けた。
「ナイツ、お久しぶりです」
「そうですね。三日ぶりくらいですかね」
「お台所借りますねー」
サンはそう言うと紙袋を抱えて厨房に入った。
ナイツは窓を一瞥する。そこには紙が貼られている。三日前の夜に狙撃された破損を隠すためのものだ。
「サン、なぜ来たのです。この前、あのようなことがあったばかりなのに」
「今はまだ昼間ですよ。心配することありませんって」
「いたずらに、あなたを危険な目に遭わせるわけには……」
「まあ、その話は後でいいじゃないですか。今日は、先日のお礼に料理を作りに来たんですよ」
料理、と聞いてナイツの喉が鳴った。
「私に任せて、ナイツはそこに座っといてください」
ナイツは言われるがまま長椅子に腰かけた。本を読みながらサンが調理する様子を盗み見る。
サンは紙袋に詰めた食材を取り出すと、調理を始めたようだった。
ナイツの部屋には最低限の調理器具は揃っているが、その使用頻度は今朝の掃除と同じ程度のものである。
「この包丁、錆びがありますよ? ま、これくらいならいいか」
ナイツの位置からはサンの手元は見えないが、どうやら手際よく作業しているらしい。
安心したナイツが本に視線を向けた。しばしの時間が過ぎた後、突如として硬いものを断ち切る音が響いてナイツの肩が跳ね上がる。
「サン、今の音は?」
腰を浮かせかけるナイツにサンが声をかける。
「ご心配なく。ゴジローを切っただけですから」
「ゴ、ゴジロー?」
聞いたことのない食材の名前に怪訝な表情になったナイツが立ち上がりかけると、サンが包丁を握った手を掲げて制止する。
「あ、そこにいてください。見たら食欲を無くしますよ」
「な、なぜ包丁に青い液体が……?」
ナイツの言葉を韜晦するようにサンが愛想笑いを浮かべる。
「はっはっは! まあまあ、気軽に待っていてください」
とにかく、包丁を持っている相手に逆らうほど豪胆ではないナイツは黙ってサンの言葉に従った。
硬いものを断ち切る音が鳴り響くたび、ナイツの肩が跳ね上がる。
ナイツにとって恐怖の時間が過ぎる。次第に食欲をそそる香りが広がってくると、関心が別の意味で料理に惹かれ始めた。
ほどなくして、湯気を上げた皿がナイツの前に運ばれてくる。
「お、おお……?」
ナイツの前に置かれた皿には、異様なものが盛られている。黒いタレが絡んだ野菜と原型が分からない肉片が混じり合った、それは前衛的な美術品にも似た理解を超えるシロモノだった。
「……これは?」
「野菜とゴジローの甘辛炒めです。初めて作った割には、いいできですよ」
「材料は?」
「野菜とゴジロー」
つまり野菜以外の肉片がゴジローである。
「さ、どうぞ召し上がっちゃってください!」
ゴジローが何か知りたいが、それを知るのも恐ろしいナイツはサンの笑顔を見やった。
ナイツも男である。自分のために作られた料理と、女性の笑顔を無下に退けるわけにはいかなかった。
覚悟を決めたナイツは匙で料理を掬い、少しためらった後に自身の口腔へそれを押し込む。
「う……⁉」
ナイツの動きが止まる。信じられないというように目前の物体を見下ろした。
「でしょでしょ⁉ 今、『美味え』って思いましたよね! 分かるんですから!」
少し悔しそうな表情をしたが、ナイツは料理を口に運び続ける。皿の上が空になるまで、それほどの時間を要さなかった。
「……ごちそうさまです」
「いえいえ、何の何の」
サンが誇らしげに胸を張った。
夢中で食事を平らげ、一息ついたナイツが時計を見るとすでに家を出る予定の時間を過ぎていた。慌ててナイツが立ち上がる。
「すみません! この後に用事があるので自分は出かけます。そのままでいいですから」
「あ、ちょっと! 私もお話があるんですけど!」
「また後日に!」
サンは呆然と青年の背中を見送った。
その少女は生まれつき身体が弱かった。
雪国に生まれた彼女はその寒さで体力を奪われることを防ぐため、外出することができなかった。一年の大半が雪に閉ざされた村で過ごす彼女にとって、世界とは自分の家の限られた空間のみであった。
いつも彼女は二階の自室から外で遊ぶ同年代の子どもたちを眺めていた。雪のなかで駆け回る他の子どもと自分の間にある壁は、この窓だけではないのだと少女は感じていたに違いない。
両親の必死の看護は続いていたが、彼女が十歳になったばかりの頃にその生命力は尽きようとしていた。
ただの風邪が悪化し、失われた彼女の体力が戻らずに生死の境をさまよった。
ついに医者が首を横に振り、彼女の両親が泣き崩れた翌日、彼女は一人で外に出た。
生まれて初めて外出した彼女の肌を突き刺すような寒気が包む。高熱に浮かされた頭で少女は、これが聞いたことのある『寒さ』かと思った。
どうせ死ぬのならば、一度でよいから外の世界を体験してみたかった。
彼女にとってすべてが新鮮な光景だった。
肌を包む寒さというものは、自分の肉体と世界が接触していることを伝えてくれる。積もった雪を踏む足の感触。自分の口から洩れる息が白く染まること。空から降る雪の冷たさ。
今まで生きてきて、これほど彼女が自らの肉体と世界を密接に感じることはなかった。わずかの間だったが、少女は満たされていた。
だが、彼女の体力に限界が訪れる。彼女は自身に忍び寄る死神の気配を感じ、手近な建物に入った。
広い室内には何人もが腰かけられる座椅子が配置され、その中央が通路になっている。通路の奥には、美しい像や彩色された
少女は知らなかったが、そこは教会と呼ばれる場所であった。
その美しさに少女は目を奪われ、無意識に奥へと歩いて行く。
見上げる彼女の両側に佇立する像は片手に剣を持ち、仮面を被っていた。正面の玻璃には雲と太陽が極彩色で描かれている。
今から、私はあの場所に行くんだ。
一筋の涙を流した少女はそのまま意識を失った。
倒れている少女を発見したのは、その教会の牧師である。自宅に運び込まれた少女は数日の昏睡状態を経て、意識を取り戻した。
周囲を驚愕させたのは、眠りから覚めた少女の肉体が完全な健康体であったことである。
初めての外出による肉体への刺激か、教会で目にした感動のためか、それとも神の加護かは分からない。
だが、当然ながら彼女は神の熱烈な信者となった。
神の声を届ける使途として、そして自身の異能に気がつき、その少女は十数年後に殺し屋となっていた。
かつて神の声を聞いた女性、ヌイ・ケラステミーアは薄暗い室内で椅子に座っていた。
ヌイはその手に持つ写真を卓上に放る。その写真には、黒髪の活発そうな少女、サンの姿が映っていた。
室内の
紅茶色の長髪を後頭で結わえ、その先を項に垂らしている。その顔は、白い下地に頬の部分には星を装飾した道化面を装着していて判別できない。
「神よ。次にあなたの声を聞くのは彼女のようです」
曇った声が薄暗い室内に溶けていった。
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