第3話 物憂い夜、揺れる命運
ナイツはユウツゲでも最大の経済地区に足を踏み入れていた。
この区画は〈天道社〉が存在するためナイツが頻繁に訪れる場所でもある。大勢の背広姿をした勤め人が忙しなく通行しており、ナイツのことを目に留める者などいない。
少し肌寒い日で、ナイツは外套を羽織っていた。
「コウジ・イマイ。四十三歳の開業医」
ナイツは脳内で今回の標的の情報を反芻した。
「ある犯罪に関する裁判の証言者となる男。恐らくはその証言を妨害するために暗殺の依頼が持ち込まれた」
前から携帯電話を見ながら歩いてくる男を避けたナイツが顔を上げる。その目線の先には、五階建ての建造物の壁に併設された『イマイ内科』と記された看板があった。
「依頼の期限はコウジが証言台に立つ二日後まで。明日は診療所の休診日だから、家族のいる彼が一人になる可能性は極めて低い。つまり、今日中にコウジを仕留める必要がある」
ナイツは溜息を吐きながら通りを渡り、コウジ・イマイの診療所が見える喫茶店に入った。何度か立ち寄った店のため、見知った女性の店員が笑顔でナイツを出迎える。
席について
コウジ・イマイの診療所が閉まるまで、まだ三時間ほどかかる。それまではこの喫茶店で時間を潰すつもりだった。
ナイツの視線は診療所を監視しつつ紙面の文章を追っていたが、その内容は理解の網目を擦り抜けて彼の心に残ることは無かった。
本の内容が詰め込まれるはずのナイツの頭には、後悔が渦巻いていたのだ。
コウジには家族がいると聞き、彼を手にかけることに逡巡を覚えたナイツは仕事を先延ばしにしてきたのだが、ついに決行しなくてはならない日を迎えた。
いつの間にか斜陽が空を赤く染め、深紅の太陽は高層建築の陰に隠れていった。
コウジ・イマイの診療所が閉まる時間だ。ナイツが目を向けていると、見覚えのある中年男が建物から姿を現した。
中肉中背をした茶髪の男で、黒い鞄を手に提げている。殺害にまで至らなかったが、これまで何度か目にした標的に紛れも無かった。
「ごちそうさまです」
精算を済ませたナイツが喫茶店を出てコウジの後を追う。
コウジは急ぎ足に道を歩いており、周囲に注意を払う様子も無い。仕事終わりの人混みに紛れるナイツにとっては容易な尾行だった。
今日は数日に一度、コウジが馴染みの店に飲みに行く日でもある。ナイツはその道筋で襲撃する機会を狙っていた。
コウジが高級そうな居酒屋に入ったのを確かめ、ナイツは怪しまれないように張り込んだ。その店は大通りから少し外れた場所に位置し、隠れた名店といった風情をしている。
人通りが少なく張り込むには格好の場所であり、道端で缶の安酒を呑むナイツを見咎める者などいなかった。
かなりの時間を経て月が中天にかかった頃合い、コウジが店から出てくるのをナイツの瞳が映す。千鳥足で歩くコウジの後方を影のようにナイツがつき従った。
コウジの帰路は把握している。細い路地に入って人影が絶えたとき、ナイツが声を発した。
「コウジ・イマイさん」
「は?」
コウジが振り返った。泥酔してはいるが、暗い夜道で声をかけられた恐怖がその面に刷かれている。
「あんたは……?」
ナイツは応じずに懐から拳銃を引き抜いた。それを目にしたコウジが露骨に怯えだす。
「な、何のつもりだ? 金か? 金が欲しいのか?」
「すみませんが、自分が頂くのは、あなたの生命です」
「何⁉ まさか……あの裁判の件か⁉」
その問いかけを黙殺して拳銃を向けるナイツへとコウジが哀願の表情を浮かべる。
「待ってくれ! 幾らで雇われたんだ? か、金ならあるんだ」
そう言って開いた鞄に手を突っ込むコウジへとナイツは首を振ってみせた。
「金銭の問題ではありません」
必要最小限の言葉で応じるナイツはコウジに歩み寄る。
「頼む、助けてくれ! 俺には妻がいるし、二人の子どもがいるんだ!」
ナイツの双眸が思わず細められる。この仕事を先延ばしにしていたのは、まさにその点が原因だったからである。
「家族を残して死ねないんだ! 大切なんだよ! あんたにはいないのか、大切な人が⁉」
大切な人。
その言葉を聞いたとき、ナイツの脳裏には家族の姿が思い浮かんだ。だが、その家族はすでに幽明境を異にしている。
暗く沈みかけたナイツの瞳に、ある人物の顔が映された。
サン。偶然、知人になった間柄だが、なぜかナイツにまとわりついてくる不可解な女性。その闊達な笑み、明朗な声音、思慮が足らないように見えて他者の心情を理解できる心。
なぜサンのことが思い浮かんだのか分からないナイツだったが、その動揺が手元に現れた。
ナイツの握る拳銃が揺らいだのを隙と見たコウジが鞄から手を出した。その手には護身用の小型拳銃が握られている。
何発もの銃声が響いてナイツの姿を音と同じ数だけ照らし出した。
不意を突かれたとはいえ、ナイツが後れをとることはない。〈叡智〉を発現して銃弾を無力化したナイツの眼前に二発の弾丸が落下する。それ以外は外れて周囲の壁面や路面を穿っていた。
コウジは拳銃を連射して目前の男が無傷であったことに錯乱したようだ。
「うわああぁぁ⁉」
「あ、待ってください!」
悲鳴を上げて走り去るコウジを慌ててナイツが追いかける。
恐怖のために視野が狭くなっていたのか、大通りに出たコウジは左右も確認せずに車道に飛び出る。車両の警笛が鳴り響いた直後、コウジの身体は車両と激突していた。
「ああ……!」
ナイツは大通りに入る前にその光景を目にし、狭い小道のなかで足を止めた。
「人が轢かれたぞ!」
「誰か救急車を!」
大通りで起こる騒ぎから目を背けるように、ナイツは踵を返して暗闇の道を辿った。
ナイツが出て行った部屋に残ったサンは、とりあえず調理の後片付けを済ませた後、いつも通り長椅子に座ってナイツの帰りを待った。
しかし、これまでの経験からすぐにナイツが帰ってくるとは思っていなかった。
サンはそこだけ綺麗になっている本棚の一角から、メグ・イマムラの『明日に見る夢』を手に取って読み始める。
いつものネズミが現れると、残しておいた『野菜とゴジローの甘辛炒め』を小皿に乗せて渡してやった。
ネズミはその匂いを嗅ぐと小皿から遠ざかり、何かを要求するようにサンを見上げる。
「シツレーしちゃう! それ絶対に美味しいんだから!」
いつものお菓子を投げつけると、ネズミはそれを咥えて穴のなかに逃げ去った。
「きー! これから、あんたには作ってやんない!」
そうやって時間を過ごしたサンだったが、夜になってその身の去就を決めかねていた。
今日は帰るか、朝まで待ち続けるか迷っていた。
サンは、ナイツに重要な話があった。その内容は自身の〈叡智〉について、そして、自分がナイツと一緒にいる理由。
ナイツはサンのことを信用し、自身が殺し屋であること、過去の話などを聞かせてくれた。そのどれもが酩酊中のことではあったが。
ナイツはサンに心を開いてくれている。サンもナイツには誠意を持って、自分の内心を伝えておきたいのだった。
だが、深夜になってもナイツは帰ってきていない。
ナイツは数日間、家を空けることも少なくない。まだ終電も残っているし、一度帰った方がよいと考えたサンは、調理後の生ゴミを詰めた袋を持って立ち上がった。
ナイツの部屋を出たサンは、ゴミの集積場所に袋を置くと、暗い夜道を一人で辿る。
標的であるサンが建物から出てきて一人で歩き始めたとき、ヌイは迷うことなくその姿を尾行し始めた。
愚かな娘である。慣れているのかもしれないが、この辺は治安のよい地域ではない。何より、サン自身が生命を狙われてもおかしくない立場にある。
神の声は、今宵あの娘に届くだろう。
ヌイはその顔に道化面を着用しているが、すでに夜が深まっていることと人通りが少ないために見咎められることはない。
そもそも異様な風体の者がいたとして、気にされるほどの地域ではないのだ。
目立つことを承知で、ヌイが道化面を着けていることには理由がある。
ヌイが信仰するカタリ教ヨム派は異端ともされる信仰である。主神は雲の上に姿を隠しており、信者が主神に触れられるのは声のみでしかない。その使徒である天使はすべて仮面を装着し、素顔を隠した姿で人々の前に現れる。
穢れた地表の人間は、天上に住まう神とその従者の顔を見ることはできないのだ。
ヌイは自身をその天使に見立てて道化面を着用し、標的に神の声を届ける。
今夜の標的、サンはさすがに細い路地には入らず大通りを歩いている。しかし、彼女を殺害するのには数秒もかからない。
サンと距離を開けて尾行していたヌイは歩調を速め、その背中に近づいていく。銃弾を確実に命中させられるほどサンの背中が大きくなったとき、ヌイが外套の懐に手を入れた。
ヌイの手が引き抜かれると、消音器付きの拳銃が握られている。その銃口がサンを照準し、ヌイの指が引き金に当てられた。
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