第4話 殺し屋の独白、暗殺のデッサン
自分が不安で寂しい昼と夜を過ごし、本人が言ったよりも一日早い四日目の昼に先生が現れたとき、何だか自分は安堵しました。
「元気そうだね。少年」
先生に声をかけられて、自分は思わず笑顔を浮かべました。
この人里から隔離された廃墟の夜は驚くほど暗く、その暗黒に自分の精神は押し潰れそうだったのです。一度だけ、銃口をこめかみに押しつけたこともあります。
その姿勢のまま指先が凍りついたように動かなくなって、自分は拳銃を投げ捨てて泣きながら夜を明かしたのでした。
これから自分がどうなるのか分からず、ただ怖かった。
隠れ処のなかに入ると、突然、先生が自分の腹部を蹴り上げました。
「痛い!」
「お、ちゃんとやったようだね。感心」
先生が本気で蹴っていれば、痛いどころでなく悶絶していたでしょう。
先生の爪先が腹に当たっただけで激痛が走ったのは、慣れない運動で筋肉痛を起こしていたからです。そのことを察してくれたようで、先生は相好を崩しました。
「見込みがあるね。これなら予定よりも厳しくしても大丈夫そうだわ」
「どういうことですか」
「あんたが自分で身を守れるように訓練するんだよ。やっておいて損はないさ」
先生が持ち合わせる善意と誠意が寡少なことは自分も気づいていたので、この言葉は偽りではないかと直感しました。
実際、その後に先生は平気で自身の台詞を裏切りました。
「実践では射撃と格闘、それに野外活動の知識も覚えてもらおうか。細かいことはその場で決めていこうね」
意見を述べる権利もなかったので、そうして自分は訓練を開始したのです。
まず先生を相手に体術の特訓をさせられました。変わっているのは、拳銃を手にしたまま殴りかかってこいと言われたことです。
先生が言うには、拳銃を手にすることもなく追い詰められたら死ぬしかない。学ぶべきは拳銃を握ったまま如何に敵を退けるかだと。
先生が隠れ処にいられる時間も限られているので、過程を省略したという背景もあったのでしょう。
拳銃を握ったとき底面に当たる銃床という部分で殴打しろと教わり、幾度も立ち向かったのですが、とても先生には敵いませんでした。
笑いながら自分の一撃を避け、軽く拳を打ちつける先生はかなり手加減してくれていたようです。
射撃の訓練は空き缶を標的にして始めました。
目前の缶で狙いを外すことがなくなったら、少しずつ距離を遠くしていくという方法です。これに関して自分は意外と筋がいいと先生に誉められました。
先生が不在で一人のときは進んで特訓していました。それだけ乗り気だったのです。
その生活が一カ月ほど続いて自分も慣れてきた頃、思い切って先生に頼んでみました。
「へえ。暇潰しねえ。まあ、余裕が生まれるってのはいいことさ」
自分の住居となった廃墟の一室を先生は開きました。
そこは以前に先生が触れなかった部屋で、自分も踏み入ることはありませんでした。施錠されておらず、無抵抗に開かれた扉の奥には予想外のものが収められていました。
「驚いた? これでも読書家なんだよ、私。勝手に読みな」
部屋中に配置された本棚には蔵書が詰め込まれていました。その全てを読み終えるには、かなりの年月を要するでしょう。少なくとも、一年では難しそうです。充分に余暇を過ごす手段となりそうでした。
それまで読書の習慣が無かった自分に、生涯唯一の趣味ができたのはそのためです。
半年も経つと、先生との会話も増えてきました。ある夜などは先生が泊まっていかれると言い出しました。
は? いや、何もありませんでしたよ。本当に。
先生は地下の食糧庫に保管されていた酒を持ち出してきて飲み始めました。
いつもは自分が使っている寝台は今夜だけ先生のものとなります。先生が寝台に腰かけ、床に座る自分が相手をさせられました。
そのときの自分は酒の味を知っていましたが、あまり飲み慣れていなかったので先生につき合うのは大変だった覚えがあります。
先生は芋の焼酎が好みなのですが、このときは
「あんたもいける口だねえ。もう一杯飲みな」
自分は断ったのですが、先生が無視して琥珀色の液体を自分の酒杯に注ぎました。
「もう半年になるけれど、あんたはよくやっているね。これなら予定よりも早くここから出してやってもいいよ」
「それじゃあ、あと半年以内には出られるんですね」
「いや、実はあのとき一年と言ったのは、少なく見積もってだったのよ。あんたが不甲斐無ければ二年でも三年でも訓練を続けさせるつもりだった。この調子なら、確かに一年で訓練は終わりになるね」
「そうだったんですか」
自分が驚かなかったのは、予想外の出来事に対してあまりにも耐性がついていたからかもしれません。
「素質だから仕方がないけど、格闘が二流止まりになってしまうのは諦めな。一流の敵と接近戦をするはめになったら、おとなしく死ぬんだね」
「はあ。覚悟しておきます」
「射撃に関してあんたは一級品なんだが、甘く採点しても超一流とは評せない。あんたよりも上の技術を有する奴は、私が知る限りでも枚挙に暇がないね」
自分は酒杯を呷りました。酒が喉を焼いて胃の腑に落ちた後も、焦げついたような熱さが胸の辺りに燻っています。
自分の様子を見た先生が、からかうような声を放ちました。
「怒らないでよ。怖いから」
「怒りませんよ。ただ、自分が訓練している意味はあるのかと」
「この訓練の目的は戦いに強くなるためじゃないの。ま、それはまたいつか教えてあげるよ。ほら、おかわり」
嫌がる自分の杯に酒を注ぎ足そうと酒瓶を持った先生の手が揺れました。慌てて自分が落ちかけた酒瓶を握り、先生の上体が沈みかけたのを片手で支えます。
「先生、もう寝た方がいいですよ」
「嫌だ。もっと飲むよ」
「はいはい」
駄々っ子と化した先生を寝台に押しつけ、自分は部屋を出ました。
……だから、本当ですって。布一枚で武器庫に寝たら風邪を引いたんですよ。それに加えて宿酔いにもなって、寝込んだのを覚えています。
「貧弱だねえ」
昼まで寝ていた先生がその言葉だけを残して去る後ろ姿を、自分は恨めしい目で見送っていましたよ。
この他にも訓練中の話題は事欠きませんが、今回はこれまでにしおきましょう。
一年後、自分は訓練を終えることができました。
殺し屋としての人生の幕開けです。家族を失ったときも悲しかったですが、あのときも辛かった。
思い出すことも嫌ですが、だからと言って忘れることもできません。このことを口外するのは、今日だけでしょう。
……はあ。サンがお茶を淹れてくれるのですか。それでは、お願いしましょうか。
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