第6話 逢引きのお誘いは気苦労の予感

 翌日、珍しく朝と呼べる時間帯にナイツは目を覚ました。

 そうは言っても、疲れていたせいか酒を飲んでいる途中で眠ってしまったようで、長椅子にもたれて首が痛くなって目覚めたのだ。


 とりあえずナイツは洗面所で洗顔して髭を剃る。根は几帳面な男である。

 ナイツはほとんど朝食を摂らないため、朝はお茶だけで済ます。ただ、ナイツが朝に起きていることが稀有なことでもあるのだが。


 ここ数日間、同居人に食事を与えることを忘れていたことに気づき、ナイツはいつものお菓子を床に置いた。しかし、同居人は姿を見せない。

 珍しいこともあるものだと思いながらナイツは厨房に向かう。


 薬缶に火をかけてお湯を沸かしていると、廊下を踏む足音が聞こえた。この歩き方はあの人だな、とナイツが思ったとき足音が玄関の前で止まった。

 玄関の取手が回されたが、鍵がかかっているため開かない。次の瞬間、扉に硬いものが叩きつけられる音が響いた。

 さすがに驚いたナイツが慌てて玄関を開く。


「ナイツ! いるの⁉」


 それと同時にサンが飛び込んできた。ナイツは敏捷に避け、サンの身体をやり過ごす。

 慌てて駆け込んだせいで足がもつれたサンは盛大に転んだ。

 床に這いつくばったサンの背中を見たナイツは、とりあえず扉を閉めて沸騰した薬缶の火を止めに厨房に行った。

 うつ伏せに倒れていたサンが身を震わせると、いきなり顔を上げる。


「あの、可愛い女の子が倒れているんですけど?」

アマダイダイオレンジピールが入りましたよ」


 ナイツがサンの横を通り過ぎ、長机に二つの容器を置く。サンは口を尖らせたが、お茶の芳香に誘われるように長椅子に座った。

 不機嫌そうにお茶を啜るサンの額が赤く染まっているのに気がつき、ナイツが手を伸ばす。


「ああ、赤くなっていますね。派手に転んだから。冷やした方がいい」

「これは扉にぶつかったからです。今まで鍵がかかっていませんでしたから」

「ああ……」


 扉から大きな音がしたのは、扉が開かずにサンが激突したからということか。

 サンが額に当てられたナイツの掌を意識したのか、思わず身を引いた。


「冷やさなくても大丈夫ですよ。そのうち治ります」


 ナイツは頷いてアマダイダイを口に含む。


 アマダイダイは、ダイダイオレンジの果皮を乾燥させて容れるお茶であり、柑橘系の爽やかな香りと軽い苦みが特徴である。パンに塗るジャムの材料として定番のものであった。

 その効能は胃腸の調子を整えたり、落ち込んだ精神を上向かせたりするとされている。

 柑橘系の香りが酒精に毒されたナイツの頭を冴えさせる。一息吐いたナイツは、先ほどの出来事が意味することに思い至ってサンに目を向けた。


「そう言えば、今までこの部屋に鍵がかかっていないことを知っていたということは、これまで何回か来たのですね。何か用でも?」

「用が無いのに、会いに来たらいけませんか……?」


 サンの瞳が常とは異なる不思議な輝きを帯びてナイツを見詰めた。おずおずとしたサンの仕草に、ナイツは困惑したように視線を泳がせる。


「いや、そういうわけではないですが……」

「まあ、用は有ったんですけど。えっへっへ」


 サン如きに後れをとったナイツが奥歯を噛み締めた。


「そう気を悪くしないでください。それよりも私の買い物に付き合ってほしいんですよ」

「そんなもの一人で行けばいいと思いますが」

「ナイツってば、拗ねないでくださいよ。ナイツがいないと困る買い物なんですって」


 ナイツは容器から上る湯気越しにサンを見やった。その瞳は、やや懐疑的な光を含んでいる。


「一緒に本を探してほしいんですよ」

「本?」

「いやー、なんつっても春休み前の課題が溜まっていましてね。課題に使うための本を探してほしいんですよ」


 本と聞いてナイツに迷いが生まれる。その隙を見逃さず、サンが追撃をかけた。


「ナイツ、そこに落ちているお菓子、この前私が贈ったもの。間違いありませんね?」

「そ、そうですが」

「このいたいけな少女が贈ったお菓子を、あろうことかネズミのエサにしていた。ここまで何か事実に反したことはありますか?」

「……無いですが」


 自身の劣勢を自覚するナイツの声が小さくなる。それに対し、サンは名探偵のように指先を赤くなった額に当て推理を披露する。


「そして、今もこうしてお菓子を置いているのにも関わらず、そのネズミは姿を見せない。これが何を意味するか、賢明なあなたなら理解できるでしょう?」

「自分の代わりにネズミに食事を与えていた者がいた。その人物がサン、あなただと?」


 サンはもはや口唇を開かずに首肯する。

 ナイツは掌で顔を覆った。


「ってなわけで、ナイツは私に借りがあるんですよ」

「どうやら、そのようで」


 住み着いているネズミに食事を与えたところで貸し借りが発生するのか不明だが、とにかくナイツは負い目を感じたことは間違いないようだった。


「それじゃあ、ナイツ。買い物に付き合ってくれますよね」


 その頼みを拒否する言葉が、ナイツの頭に浮かぶことは無かった。

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