第5話 二人の少女の景色

 ナイツが急に自宅を出て行ってから、二日が経っている。


 あの日、ナイツを見送ったサンは課題を片付けてからも、すぐには帰らなかった。部屋でナイツの帰りを待っていたが、夕方になると諦めて自宅に戻った。

 それから一日一回はナイツの家を訪れるものの、サンを出迎えてくれるナイツの姿を見出すことは無かった。

 今日もサンはナイツの部屋に赴き、玄関の取手を握ったときの空虚な感触に落胆を覚える。


「ナイツ、いますか?」


 サンは、その部屋の住人がいないときの方が遠慮がちに玄関を潜った。一間だけの室内を見渡すまでもなく、ナイツがまだ帰って来ていないことは明らかだった。


「ちぇー……」


 サンが溜息を吐いて長椅子に腰を下ろす。

 晴れた屋外の陽光が部屋に差し込み、室内を淡く照らしている。だが、その光が作り出したサンの影は大きく、深く、部屋の壁面にうずくまっていた。


 常の闊達な笑みは表情の奥に押し込められ、サンの面に浮かぶのは心細げな少女の顔だった。

 サンは長椅子の上で膝を抱え、時間を忘れたように座り込んでいる。窓から注ぎ込む陽光の角度が傾いたとき、サンは部屋の隅に物音を聞いた。

 サンが怪訝な視線を向けた先には、壁に空いた穴から彼女を見返す小柄な影があった。


「きゃあッ! また出た⁉」


 そこが安全圏だというようにサンは長椅子の上で身を硬くし、背もたれを手で掴む。ネズミはサンの狼狽を目にして自身の優位を確信したのか、壁から出て周囲を物色し始めた。


「ちょ、ちょ、ちょっと、来ないでー」


 サンは慌てて首を巡らせると、あるものを厨房キッチンに発見した。意を決したように長椅子から飛び降り、厨房に駆け込む。

 そこにあったのは、サンがナイツにお礼として贈ったお菓子の詰め合わせだった。サンはその一つを掴み、ネズミの方に向けて放り投げた。


 ネズミは自身の近くに落ちた物体がお菓子であることに気がつくと、慣れた様子でそれを咥えて穴へと戻る。

 穴に入る直前、ネズミは振り返ってサンを見やった。


「本当は、あなたのものじゃないんだからね!」


 サンの言葉を浴びせられても、ネズミは口元を歪めただけで穴へと帰っていった。


「はあー、せっかく買ってきたっつーのに」


 サンがお菓子の一つを自分の口に放り込んだ。


「あー、美味しい。自分じゃ滅多に食べられない、いいものなのになあ」


 どことなく気落ちした様子でサンは部屋を出た。


 治安が悪い地域のため、サンは足早に移動する。人通りが増えた大通りに出ると、安心したのかサンは歩調を緩めた。

 横断歩道の手前でサンは立ち止まり、何気なく背後を振り返った。数秒間、自分の後方から歩いてくる人波を眺めていると、唐突にサンの表情に怯えが広がる。


 点滅した横断歩道を走ってサンが渡り切ったとき、その人物は無理することなく横断歩道の手前で立ち止まっていた。

 信号が切り替わって車両が道路を走り抜ける。サンが再び背後を確かめると、何台もの車両が横切る道路の向こうにその人物は立っていた。

 サンは息を切らせて足早にその場から去る。


 小さくなっていくサンの背中を眺めながら、群衆のなかに佇む男は忌々しげに赤信号を睨んでいた。

 横断歩道に並んでいる人々のなかでも頭一つ抜けている長身の男。灰色の頭髪と同色の瞳は、軟弱とは対極に位置する力強さを秘めていた。

 その男は、もはやその場に留まる意味を見出せないように息を吐くと、踵を返して人垣のなかに消えていった。





 その漫画の内容は、二人の少年の成長を描いたものだった。中性的な少年達が日常と離別を経て成長していく。特徴的なのはその画風と世界観であり、少年達の日々を幻想的かつ甘美に綴っていた。


 途中まで読んだ漫画に栞を挟み込むと、ナイツはメグにもらった『明日に見る夢』を机上に置いた。

 昼時の喫茶店は混んでいて、マンネンロウ茶のみで居座るナイツを迷惑そうに睨む店員の他には、一人で読書に没頭するナイツを気にする者はいなかった。


 数日前にメグの依頼を請けてから、早速ナイツは彼女のことを監視し始めた。移動が面倒なのでムラサキに宿をとり、この二日間はムラサキを拠点にしてメグの行動を把握することにしたのだった。

 そうは言っても、当のメグ自身が警戒することがないので、ナイツが実行しようと思えば今日にでもメグを亡き者にできる。


 ナイツにとって考えるべきことはメグの数少ない要望、熱狂的な読者の凶行にみせかけること、できるだけ怖くないように彼女を殺害すること、以上の二点だった。特に後者に関して。


 現在、メグは雑誌の取材を受けている。

 ナイツがいる喫茶店の向かいの建物がその現場だった。メグの姿は確認できないが、一時間ほど前にマサノブと一緒に建物の玄関に入ったところまでは見届けている。

 ナイツがお茶のおかわりを店員に頼もうかと迷っているとき、メグとマサノブが出てきた。お茶一杯分の料金を払い、ナイツは店を出る。


「またのお越しをお待ちしております」


 その冷やかな店員の声を背に浴びながら、ナイツは尾行を再開した。

 売れっ子の漫画家というだけあってメグは多忙だった。ナイツがここ数日の間に観察していただけでも、雑誌の取材と映像媒体の出演が三回ほどあった。

 メグの本業に支障が出ているのではないかと疑ったものの、これでもメグの露出は以前に比べて減っているらしい。


「これは随分と忙しい」


 ナイツが呟いたのは、二人の後ろ姿が放送局の入口に吸い込まれていったからだ。仕方なく近くの飲食店の一席に腰を下ろし、ナイツは待つことにした。

 再び本を開いたナイツがしばらくして気づくと、店内にある映像端末にメグの姿が映っていた。それは生放送の番組で、そのためにメグ達が放送局を訪れたのだと知れた。

 映像のなかで戸惑ったように作り笑いをしているメグの顔を、ナイツは見た。

 その日は、番組の出演を終えたメグをナイツは背後から見送るだけに留めた。





『この世界には、先験的に与えられた異能を有する人間が存在する。その一部の人間が持つ力を、古来より人は〈叡智〉と呼んできた。

〈叡智〉という呼称には由来がある。人々は異能を神から分け与えられた力だと考えたのだ。


 そのような考えは地域によらず、世界各地に共通している。特にハルカゼ皇国が位置するアマカゲ大陸一円には、古典時代から〈知性単一説ちせいたんいつせつ〉が根付いていることが原因であった。


〈知性単一説〉、それは人間の意識やたましい・・・・は元々一つのものであり、その一体となった知性こそが神のようなものと考える思想のことである。

 人間が現世に生を受けるということは、その一つの意識から分離した知性が肉体に宿ることであり、人間の死は知性がまた神のもとに戻るということになる。


 その大元となる知性から一つの知性が分離する際に、神の力が一緒に個の知性に宿ったために異能を有する人間が生まれるというわけだ。

 これが〈叡智〉という呼称の由来でもあり、〈知性単一説〉とは親和性が高く、未だ〈叡智〉の原理が解明されていない現在でも信じられている説である。

 また〈叡智〉の他にも後天的に超常的な能力を手に入れた人間も少数ながら存在し、その人物のことを『聖別せいべつ』と呼ぶのも……』


 ナイツはそれまで読んでいた書物、『叡智についての概略』から目線を上げた。

 ある日、メグは休日のようで午前中は自宅から出てこなかった。午後になってメグが最寄りの図書館に向かうのを目にし、ナイツは尾行を開始している。


 何やら調べものをしているのか、数冊の書物を横に並べて内容を写しとっているメグを、ナイツは遠くの席で眺めやっている。

 ナイツも目立たないように手頃な書物を選び、メグが見える席に座っている。

 黙々と紙項ページをめくっているメグを遠目にしながら、眼下の文字列とメグに目線を往復させる時間が続く。

 その間に、若い二人組の女性がメグに握手を求める光景をナイツは目にしていた。メグは愛想よく応対していたが、どこか辟易しているようにナイツは感じる。


 用事が済むとメグはまっすぐ帰宅した。女の子らしくない休日の消化の仕方だとナイツが筋違いの憐れみをかけるほど、淡白な私生活であった。

 日が沈んでメグが外出することもないだろうとナイツは確認し、自身も三日ぶりに帰宅することにした。


 鉄道を利用してナイツがユウツゲに着いたのは、日が沈んでからだった。

 闇に染まった路面を踏みながら、ナイツはメグの心境に思いを致さずにはいられない。


 どうしてメグは死にたがるのだろうか。それがナイツには理解できなかった。殺し屋として他者を殺害することで生命を長らえられるナイツにとって、メグの心理は度しがたい。

 想像力の源泉が尽きて漫画家として一級品でなくなっても、普通の女性として生きられないものだろうか。

 ナイツはメグに死んでほしくなかった。メグを殺したくなかった。メグの私生活を知るにつれ、その思いは深まるばかりだった。


 だが、ナイツの拳銃は依頼という強制力によって弾丸を吐き出すのを待ちかねている。仕事の失敗、放棄はナイツ自身の死にも繋がるのだった。

 メグ本人は死を望んでいるし、依頼が成立しているのだから、二の足を踏んでいるのはナイツしかいない。


 ナイツが実行の決心をつけるには、まだ時間がかかりそうだった。

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