第4話 少女漫画家メグの自己暗殺依頼
ナイツが広い玄関を入った扉の前で指定された部屋を呼び出す。
高級な住まいだけに警備が厳重で、建物に入るには住人の許可が必要だった。ナイツが戸惑いつつ端末で相手を呼び出すと、澄んだ声音が応答して扉を開けてくれた。その声を聞いてからナイツは不自然に緊張している。
昇降機で二十階まで移動し、目標の部屋の呼び鈴を鳴らした。
胸の鼓動を抑えつけているナイツの耳に、人が動いて扉を解錠する音が届いた。
ナイツの期待を裏切ったのは、開いた玄関から現れたのが中年の男だったことだ。
「あ、あなたがナイツですか」
「そうです。あなたは?」
「まず、部屋のなかに」
色白の中年男が身を引いたので、ナイツは室内に入った。男は用心深く廊下を見渡し、尾行の有無を確かめている。
「依頼人はいらっしゃるので?」
「どうぞ、こちらに」
黒い背広姿の男が先に立ってナイツを奥の部屋に導いた。
その一室は広い造りになっており、ここが居間のようだ。家具は少なく、目を引くのは蔵書でいっぱいになった本棚だった。歓談用の机が中央に配置され、そこに人影があった。
薄手の
「あなたがナイツさんですか?」
その声こそ、ナイツが建物に入る際に聞いた女性のものだった。
「はい。自分がナイツです。依頼人というのが、あなたですか」
「ええ。メグといいます」
「漫画家の?」
「……はい」
ナイツの眼前にいるのは、まさに漫画家として知られた少女、メグであった。ナイツが感慨を禁じえないでいると、メグが中年男に顔を向ける。
「マサノブさん、ありがとうございました。ここからは私一人でお話しします」
「しかしですね、先生……」
「大丈夫です。一人にして。お願い」
男はナイツへ不気味に光る視線を投げると、不満げに薄い唇を歪ませる。だが、その内心を表面化することはせずにその部屋を出ていった。
その男が視界から消え去ると、ナイツはメグに尋ねる。
「あれは誰ですか」
「マサノブ・ハットリさんという出版社の方です。私がこの世界に入ってから、ずっとお世話になっています。……私が、殺し屋さんを紹介してほしいと頼んだときも、四方に連絡をとって必死に探してくれました」
ナイツの所見では、マサノブという人物は善意や良心よりも利益を優先しそうな雰囲気を放っている男だった。
「お話を聞かせてもらいましょうか」
「はい。お掛けになってください」
ナイツに椅子を進め、メグは湯を沸かしにかかる。落ち着かない様子で目線をさまよわせるナイツと、これも接客に慣れていないメグが不器用に陶器を扱う時間が過ぎた。
やがてナイツの前に深紅のお茶が出される。礼を言ってお茶を口に含んでみると、ナイツの乏しい味覚でもそれが上質なものであることが分かった。
「お口に合いませんか?」
その上品な芳香に驚いたナイツが思わず眉根を寄せたのを、メグは誤解したらしい。不安げに問いかけたメグにナイツは相好を崩して見せた。
「いえ。
ローゼルとイヌバラの組み合わせは定番でもあるが、単に茶葉ではなく相手を誉めたのは、ナイツには珍しいお世辞だった。
お茶を用意したのがサンであれば、こうはいかなかっただろう。
「本当ですか。嬉しいです」
メグは藍色の髪を揺らし、頭髪と同色の瞳を嬉しそうな光で彩った。どちらかといえば華奢で色白のメグは、地味だが可愛らしい顔立ちをしている。
メグは可憐という表現そのままの少女だった。
「殺し屋の人だというから、もっと怖いのかと思っていましたけれど、ナイツさんは優しそうで安心しました」
「それはどうも」
恐縮するナイツに放たれた次の一言は、それまでぬるま湯に浸かっていたような彼の精神を引き締めるに十分すぎるものだった。
「これなら怖がらずに、ちゃんと殺してもらえそうです」
繊弱なメグの容姿からは想像もできない言葉にナイツは息を呑んだ。
「私を殺してくれる人だから、一度だけ会っておきたかったんです。あまり怖そうな人だと、怖気づいたかもしれませんから。ナイツさんのような方でよかった」
「……依頼人のなかには、自分のことを見て不安になる方が多いのですが」
「そうでしょうね。ナイツさんは優しそうですから。今まで殺す相手と事前に話したことはありますか?」
「いえ、あなたが初めてです」
ナイツはこれまで手にかけてきた人物の顔を思い浮かべた。彼ら彼女らはナイツを目にし、恐怖と嫌悪の表情を向けてきた。
メグのように穏やかな『標的』と向き合うのは、ナイツにとって初めてのことだった。
「その……、仕事上の経験は何人ほどですか?」
ナイツは、メグの気を使った言い回しに笑みを誘われる。
「もう忘れてしまいました。三十人は超えていると思います」
「そんなにですか」
「嫌でも辞められないものですから」
「もう、慣れていらっしゃるのですか」
「慣れることはありませんよ」
そう返答したナイツの殺人者としての腐臭を敏感に察したのか、メグが口を噤んだ。
「もちろん、仕事はちゃんと果たします」
「お願いします。できれば、あまり怖くないようにしてほしいのですけれど」
「尽力しますが、自分はどのようにすればいいのですか」
メグは目を伏せた。
「私を殺してほしいんです」
「はい」
「私は普通に生活していますから、明日以降いつでも、どこでも私を殺して構いません」
「つまり、自分の都合がよいときに狙えばいいというのですか?」
メグは頷いた。
「いつ来るか知らされていると怖いですし。それに私生活のなかで熱狂的な読者に殺されたと思われれば、話題になりますから」
「あなたが、そうお考えに?」
「マサノブさんが、そう助言してくださって」
先ほどの中年男の容貌をナイツは思い出す。やはり、メグへの献身だけで殺し屋と連絡をとったわけではないのだ。
新進気鋭の漫画家、しかもうら若い女性が殺害されれば、その衝撃は計り知れないものとなる。一時的にせよ、メグの本の売り上げも伸びるだろう。
だが、それは零落した人物の発想であり、順風にあるメグがとる方策ではないはずだ。
「あの人は悪くないですよ。わがままを言ったのは私なんですから」
「わがまま、ですか」
メグの面に影が差す。
「……急に漫画が書けなくなったんです。書こうとしても、何も浮かんでこないの。心に穴が空いてしまったみたいで」
「そういうときもあるのではないですか」
「前作が完結したのは、半年以上も前のことなんですよ。あれから何も書けないなんて」
「だから、死ぬということも短絡に過ぎるのではないかと」
漫画家としては、ありきたりな悩みだとナイツは思う。ナイツは彼女の精神的な失調を疑ったが、メグはもっと深刻な捉え方をしているようだ。
「私は漫画家ですよ。漫画家じゃなくなったら、私なんか生きていけません」
メグの頑迷さは、若さゆえのものなのだろうか。
「焦りすぎなのではないですか。少し調子が悪いからといって、自ら死を望むというのも極端な話だと思います。それが分からないほど愚かな人には見えませんが」
独創性に欠けるナイツの説諭は、相手に何の感銘も与えなかったようだ。
底光りするメグの瞳は、毛筋ほどの揺るぎもなくナイツを見据えている。
メグが死を熱望するのは、強固な意思に支えられているからだ。感情に端を発した非合理な思考の産物とはいえ、いや、そのために一般論が介入する隙間などないのだろう。
「私は死ぬことよりも、無能な漫画家として生きることの方が怖いんです。そう生きるなら、いっそのこと印象に残る死に方で、読者の方に覚えていてもらいたい」
メグの願望を翻させるには、その確信を覆すだけの感情をぶつけるしかない。
残念ながら、ナイツにはそれほどの情熱はなかった。
「分かりました。余計なことを言ったようですね。依頼は責任を持って遂行します」
メグが目元を緩め、控えめに喜びを表現した。
「よかった。……おかわりはいりませんか?」
ナイツの容器が空になっていることに気づいてメグが尋ねる。ナイツは恐縮した素振りで陶器を差し出した。
ナイツが持つ容器に深紅のお茶が注がれる。
ローゼルとイヌバラを組み合わせたお茶はよく飲用されていた。どちらもお湯を注ぐと赤いお茶となり、見た目も洒落たものになる。
ローゼルは酸味が強く単体では飲みづらいが、イヌバラを加えることで甘味が出て飲みやすくなるのだ。
どちらもビタミンが豊富に含まれ、さらにローゼルには
茶葉が特産のムラクモ九都市同盟の住人だけあって、その程度の知識はあるナイツが紅色のお茶を口に含んだ。
「ナイツさんは、漫画は読まれますか?」
依頼に関する重々しい会話が途絶え、唐突にメグが放ったのは今更ながらの質問だった。
お茶を口元に運んでいたナイツの眼前で、白く立ち昇っていたその湯気が揺らめく。
「すみません。自分はあまり最近のものは詳しくなくて」
「気を使わないでください。私の漫画は若い子向けですから」
「今度、本屋に寄ったら買ってみます」
「本当かなあ?」
年下の女性に内心を見透かされ、ナイツは情けなかった。表情を糊塗するためにお茶を啜るナイツを見やり、メグは席を立つ。
メグは自身の本棚から一冊の本をとり出してナイツに差し出した。
「これ、私の書いた漫画です。無理して読まなくてもいいですから、ナイツさんの家に置いといてくださいませんか」
漫画家から殺し屋へとその本は手渡された。殺し屋の青年は、それほど感銘の色も見せず、その本を懐にしまった。
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