第7話 たまにはすべてを忘れて甘く
外に出たナイツとサンは温かな陽だまりのなかを歩いている。
今日も早朝に霧が出たらしく路面が薄く濡れていたが、陽射しに照らされて乾き始めていた。
二人はユウツゲでも有名な書店街に赴いている。大きな店は無いが、小振りの個人経営の書店が立ち並んでいた。
「へえー、すっごいですね! こんなところ初めて来ました」
「ユウツゲ最大の書店街、通称〈サンゴ礁通り〉です。大学生の身でここを知らないのも問題だと思いますが」
「あはは、耳が痛いです」
サンは物珍しいのか辺りを見回している。
「あ、あそこに入りましょうよ!」
袖を引っ張られたナイツが、サンの指先を視線で追った。
その先にあるのは喫茶店だったので、脱力したようにナイツの上半身が揺らぐ。
「本を買いに来たのでは?」
「だって、もうお昼ですよ。腹ごしらえくらいしましょうよ。このままじゃあ、私のお腹の音で本屋さんが驚いてしまいますってば」
サンに手を引かれるまま、ナイツは喫茶店に入った。
古びた店内にいるのは、店主らしき中年の男性と二十代前半ほどの女性だった。
「こんにちはー、二人なんですけど」
女性の店員に案内された席に二人は腰かけた。
「ナイツは何にします? 私はオムライスがいいなあ」
「自分はマンネロウ茶とサンドイッチで」
店員が去ると、サンは喜びを隠しきれない表情でナイツに語りかける。
「ナイツとこうしているのも初めてですね。どうです、楽しいですか?」
「ええ、まあ」
「はっきりしないなあ。私は結構楽しいですけどね」
客がナイツ達しかいないせいか、注文した料理はすぐに運ばれてきた。
サンはその若さゆえ、健啖ぶりを発揮して料理を素早く胃の腑に収めていく。ナイツも見ていて気持ちのいいほどだった。
「随分、お腹が減っていたようですね」
「え? 最近、ちょっと食欲が無かったんですけど、今日は安心していられますから」
「安心?」
「あ、いや、あはは」
サンは誤魔化すように食事を続ける。ナイツはお茶を啜りながらその様子を眺めていた。
食事の後に小休止を取った二人は喫茶店を出ると、改めて書店を物色し始める。
「ナイツ、おすすめのお店はどこですか?」
「どこでもいい本は手に入りますが、今日は大きめの書店に行きましょう。あそこなら何でも手に入る」
そう言ったナイツがサンを案内したのは、比較的大きい書店だった。珍しい古書よりも一般的な書物を取り揃えている店だ。
「何か、どこでもありそうな本屋さんですね。わざわざここまで来た意味があるんですか? ま、いいですけど」
「どうせ、サンの課題なんてたかが知れていますからね。ここでも十分でしょう」
サンが唇を尖らせたが、黙ってナイツの背に続いた。
「どのような本を探しているのです」
「えーと、近世の正教の布教と受容のされ方の変化についてと、あとハルカゼ皇国とアークナル十二王国協同体の戦前の政治について、〈叡智〉の所有者が戦争に及ぼした影響についての本もあったら嬉しいなあ」
「結構ちゃんと勉強しているのですね」
サンに注がれるナイツの視線に敬意が宿った。それに目敏く気づいたサンが後頭部に手をやって照れている。
「それでしたら四階の歴史書専用の区画にありますよ。それだけ欲しい本がはっきりしていたら、自分で探せるでしょう。……自分は適当に店内を回りますから」
「えー、一緒に探してくれないんですか?」
サンの文句を背にしてナイツは一人で階段へと姿を消した。
「ちぇー、ナイツってば優しいのか、冷たいのか分からないな」
そう言ってからサンは目的の本を探し始める。ナイツの言った通り、それほどの時間はかからなかった。
四冊の本を抱えたサンはナイツの姿を求めて店内をさまよったが、その姿を見出すことは無かった。店内を歩き回ったサンは小首を傾げる。
「おっかしいなー。残っているのは漫画と児童書の区画だけなんだけど」
そして、ナイツの姿を少女漫画専用の区画で見つけたとき、サンは驚きよりも好奇心の方が勝ったようだった。
薄笑いを浮かべたサンがナイツに声をかける。
「ナイツ、何を探しているんですか?」
「あ……」
サンの接近に気付かなかったのか、ナイツは露骨にうろたえる。
「へえー、ナイツがメグを読むなんて思いもしませんでした。このヒト、私と同じく
らいの年頃ですよね。やっぱ若い方がいいんだ?」
「若いからではなく、メグだからいいんです。いや、それよりもサンに頼みがあるのですが」
「何ですか?」
「あの、この本を買ってほしいのです。もちろん、お金は自分が払います」
「つまりは私がこの本の精算をするってことですね。でも、なぜですか?」
ナイツが目を逸らしたが、その先に回り込んだサンがその黒い瞳を覗き込む。
「ふふ、恥ずかしいなんて感情、ナイツにもあるんですね。いいですよ。私が買ってきます」
サンは笑いながら、ナイツの手から数冊の漫画を受け取って精算所に向かった。
二人が数冊の本の入った紙袋を抱えて街を歩いていると、西の空が赤く染まり始めていた。本を探すのに思ったよりも時間を使ってしまったらしい。
夕暮れが近くなったことに気づき、ナイツがサンを見やった。
「家の近くまで送っていきましょうか。サンがよければ、ですが」
相変わらず、首を巡らして周辺を眺めているサンがナイツを見返す。
「え⁉ いいんですか? できれば、お願いしたいな」
ナイツは頷くとサンに並んで歩き出す。都市内を走る鉄道の駅を目指した。
サンの自宅の最寄り駅は、鉄道を利用して数十分の場所だった。その駅を降りた先は、ユウツゲ有数の高級住宅が立ち並ぶ地域である。
「サン、このようなところに住んでいるのですか?」
今度はナイツが好奇の視線を周囲に向ける番だった。仕事で赴いたことはあるが、今まで私用では訪れる機会が無かった。
「えへへ。まあ、自分のお金じゃないから威張れませんけど」
サンは照れ隠しのように笑うと、ある高層住宅の前で足を止めた。
「ここが私の家です。寄っていきます? お茶くらい出しますし、何なら明日の朝食までだって、いいですよ」
「……結構です」
「残念だなあ。それじゃあ、ナイツ、ありがとうございました。今日は久々に楽しかったです」
ナイツは頷いて踵を返す。
「自分もです」
「え? 何か言いました?」
小声の言葉はサンに届かず、虚空に消えていた。
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