第2話 雨中のやすらかなひととき

 ムラクモ九都市同盟の歴史は七百年前まで遡る。


 都市国家ポリスとは、その名の通り一つの国家として独立している都市のことである。王国や皇国と同様に対外的には国家として扱われている。

 都市国家の歴史は古く、標準歴以前から存続しており、歴史上では二千百年前から存在している。大陸東部から北部にかけて三百以上存在したとされる都市国家は、標準歴一八七八年の現在に至ってムラクモ九都市同盟のみになっている。


 標準歴百九年に成立したハルカゼ皇国が勢力を伸長し、都市国家群の密集する大陸東部に侵攻を開始したことで、都市国家群との戦争が始まった。

 都市国家群は同盟を組んでハルカゼ皇国に対抗したが、都市ごとの連携が取れていない隙を突かれて次々と陥落、都市国家が五十以下に減らされる大敗を喫して皇国の属州となった。


 それから都市国家群は長らくハルカゼ皇国の属州として、その庇護下で緩やかに文明を発展させていった。

 しかし、四百年前に南方の覇者となったアークナル十二王国協同体が大陸中部に侵攻を開始、ハルカゼ皇国との戦端が開かれたことで都市国家群も戦力として動員された。


 二十年間に渡る戦争の果てに国力が著しく低下した両国は、共倒れになることを避けて和平を結んだ。和平の条件の一つにハルカゼ皇国の属州を解放する条項があった。

 皇国の戦力を削ぐための条件により都市国家群は皇国から解き放たれたが、すでにその数は九都市にまで数を減じていた。


 残存した都市国家はユウツゲを盟主に、軍国都市カエン、学術都市ムラサキなどが〈ムラクモ九都市同盟〉となって結束を固めることになる。

 それから三百年以上を経たそれぞれの都市国家は独自の発展を遂げている。都市と言っても長い歴史の間に人口が増え、幾度も拡張したその領土は本都市の他に副都市を複数有し、山地や河川を内包することで規模は小国と変わりない。


 そうした歴史を持つユウツゲの裏街に、ある若い殺し屋は住んでいるのだった。






 ナイツの趣味は読書だった。

 その日の空は灰色の雲が立ち込めており、昼下がりからは細かな雨滴が地表を濡らし始めていた。

 裏街の寂れた集団住宅の四階の角部屋がナイツの住処だった。家賃が安い分、室内は狭くて薄汚れた造りをしている。


 長椅子にだらしない姿勢で寄りかかったナイツは、人生の余暇を過ごすに重きを置く、読書に耽っている。

 ナイツの面にかかる頭髪は夜闇を沈着させたように黒く、書物に落とされた瞳は夜そのもののように暗かった。その横顔は、穏やかというにはやや表情の色彩が薄い。

 ナイツの印象を表すと、ようは陰鬱という一言で事足りそうである。良心的につけ加えれば、十人並み以上の器量にも関わらず、といったところだろう。


 今日は仕事の休みだったナイツは朝にマンネロウローズマリー茶を、昼からは手伝いをしているパン屋の主人にもらったパンを口にしながら読書に没頭していた。

 停滞したような時間の流れを示すのは、ただ窓外の雨粒の動きだけだった。


 ナイツにとっての至福のひとときは、突如として鉄製の床を踏み鳴らす音で破られる。その足音が自室の前で止まり、ナイツは訝るように目を上げた。


「ナイツー! いますよね!」


 若い女性の声が扉を通して響き渡り、その部屋の主である青年、ナイツは息を潜める。

 文学を愛好するナイツにとって不本意かもしれないが、その散文的な表現が許されるならば、ナイツは居留守を決め込んだ。


 素知らぬふりをして書物に目線を落とすナイツの耳朶を、扉を叩く音が打った。

 十数秒後、訪問者は手が痛くなったのか静かになるも、しばしの休憩を経て再び戸が乱打される。その騒音にナイツは慄いて首を竦めた。

 仕方なくナイツは立ち上がって扉を開ける。


「もう。出てくるのが遅いんじゃないですか? あー、手が痛いですよ」


 そう言ったのは、十代後半の女性だった。

 ナイツと同色をしているが、それよりも遥かに光沢のある黒髪が肩までを覆っている。幼さを残す顔立ちと、全ての色彩を溶け合わせて練り上げられたような深淵な黒瞳が不釣り合いで、その容貌をより印象的にしていた。


 ナイツにとっては唯一とも言える女性の友人である、女子大学生のサンだった。

 ある夜、暴漢に襲われていたサンをナイツが助け、その因縁で奇妙な交友を保っている。


「それは、すみませんね」


 居留守を使ったのは事実なので、非難は甘んじて受けねばならない。ナイツが謝意を示すとサンは簡単に機嫌を直す。

 サンが傘を玄関に置き、ナイツの横を通って室内に入った。


「わざわざ雨の日に来なくてもいいのでは」

「大事な用があるんですよ。今日、ナイツは暇ですよね」


 休日なのだから、暇と言われれば認めるしかない。だが、えてして他人にそう言われると癪に障るものだった。


「その用事なんですけど、実はですね……」


 言いかけたサンの目に、床に転がる小さな欠片が映る。


「あれ? これ、私がこの前ナイツに上げたお菓子じゃないですか」


 サンが屈んでお菓子を手にしようとした。そのとき壁に空く小さな穴から影が飛び出し、サンよりも早くそのお菓子を掴んだ。


「きゃあ! ネズミ!」


 跳び上がって長椅子に着地したサンが叫びを上げる。


「ネズミが出ましたよ! ナイツ、何とかして!」

「はあ」


 どちらかというとサンの驚倒振りに気後れしているナイツがネズミに向け、手を振って去るように仕草で促した。

 薄汚れた灰色のネズミは、ぶっきらぼうなナイツの所作を睨み上げ、ついで長椅子の上から怯えた視線を注ぐサンを嘲るように尻尾を揺らすと、穴のなかに帰って行った。


「ああ、びっくりした」


 それはこちらの台詞だと思ったが、ナイツは黙っていた。その一言を不用意に発すれば、ナイツを責め立てる言葉が機関銃の弾丸のように襲ってくるだろう。

 知性はとにかく勘だけは鋭いサンがその不埒な考えを見通したのか、ナイツに向き直る。その瞳には、先ほどの驚きが怒りに変換されて込められていた。


「今、『うるせえなあ』って思っていましたよね」

「いや……」

「しょうがないじゃないですか。いきなりネズミが出たんですから」

「はい」

「だいたい、あんなところにお菓子を落としているからネズミが……」


 ナイツが目線を泳がせたことで、サンの胸中に不穏な思いが生まれる。自身の発言内容を鑑みて、ある発想に辿り着いた。


「あー、違う! お菓子をネズミのエサにしてたんだ! 私があげたやつ!」

「甘いのが苦手で」

「ひどいー……」


 サンに上目づかいに咎めるような目を向けられ、さしものナイツもたじろいだ。

 この話題の流れを逸らすため、ナイツは自身も気が進まぬまま、さっきサンが口にしかけた事柄について尋ねる。


「すいません。ところで、用事は何だったのですか」

「あ、そうそう、忘れていました。……これです」


 あっさりと感情を塗り替えたサンが、忙しなく持参した鞄から束になった紙をとり出した。

 ナイツが卓上に置かれたそれを見やって疑問符を頭上に浮かべる。その紙片は原稿用紙で、すべて白紙だった。


「これは?」

「大学の授業で課題を提出しなければいけないんですよ。明日までに」

「だから、この雨のなかを来たわけですか」


 ナイツが溜息を吐くと、サンが勢い込んで言い募る。


「きっとナイツなら頼りになると思ったんですよ」

「勝手に頼りにされても困りますが」

「まあ、そう言わずに。んでもって課題なんですけど、『正教の分布と経済の発展について』らしくて」

「そんな面倒なものを、よくも前日まで放っておいたもので」


 ナイツが嘆息しつつもお茶を淹れるために湯を沸かしている。容器を火にかけ、本棚と床に本が積まれた一角に足を運んだ。

 迷惑そうにしているナイツだが、書物に関するとその面に妙な熱気を浮かべるのだった。


「ええと、この本とこれと、これですか」


 三冊の本を差し出して、それぞれの項数ページを指定する。ナイツの指示に、慌ててサンが本をめくっていた。


「その辺りを写して繋げれば、及第点はとれるでしょう。文脈は気をつけてください」

「頼りにしたかいがありましたよ、もー!」


 喜色を浮かべて課題にとり組むサンをナイツが横目にしていると、部屋に備えつけの電話がけたたましく鳴った。

 気を使ったつもりなのか、サンが急いで電話を取りに向かう。


「いや、ちょっと!」


 ナイツの制止も間に合わず、サンは受話器を手に取った。


「はい! ナイツの家です」

「サン! 勝手に……」

「はい、ナイツはいますけど。え、私ですか、サンと申しまして、ナイツとは尋常ならざる関係と言いますか……。あ、なるほど、分かりました。伝えておきます。失礼します」


 にこやかに電話を切ったサンへとナイツが詰め寄る。


「いつ誰がどこからどのような用件でかけてきました?」

「たった今、ジアさんという人が……」

「よりにもよって!」

「どっかから昨夜のお礼に食事をご馳走したいと電話してきました。私のことを知って遠慮したみたいですけど」

「それは助かりましたけど……!」

「あと、『ナイツも女を家に連れ込むなんて、なかなかやるじゃん』と言っていました」

「あー、クソ、面倒なことを! ……すみません、取り乱しました」


 気分を落ち着かせるため、ナイツが部屋のなかをウロウロする。サンは気にすることなく、原稿用紙の空白を埋める作業に没頭していた。

 ようやく冷静さを取り戻したナイツが長椅子に腰を落ち着けてお茶を啜っていると、再び電話が鳴った。


 サンが顔を上げたときには、すでにナイツは無駄に水際立った動きで受話器を手にしている。


「はい。自分です」


 サンが眺めている先で、ナイツは相手に返答しながら律儀に会釈していた。一度、意外なほど険しい光をナイツの双眸が帯びたのにサンは気づいた。

 受話器を戻して重い呼気を肺から押し出したナイツを、サンは筆を走らせながらそれとなく視野に収めている


「サン」

「はいッ?」

「悪いですが、ちょっと急用ができました。自分は出ていきますから、暗くならないうちに帰るように。本は持って行ってもいいですから」


 以前と同じような言葉を残してナイツは出ていく。

 その後ろ姿に拒絶を感じ、サンはナイツに声をかけることができなかった。

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