第6話 哀と憂の泥濘で

 自宅に戻ったナイツを暗闇が出迎えた。


 壁面の端末を押して照明を点けると、曲がりくねった室内がナイツの視野に映じる。もちろん歪曲しているのは世界ではなく、ナイツの感覚の方だった。

 酒精に染まった息を吐き、肩を壁にぶつけながらナイツは寝台に向かう。その途中で急激に体内から込み上げる違和感があり、ナイツはよろめいて流しに目指す進路を変えた。


 間に合った。


 ナイツは流しで嘔吐する。しばらく吐き続けて胃の中身が無くなっても、まだ吐き気は治まらなかった。

 唾液と鼻水と涙を垂れ流した顔でナイツは嗚咽を漏らす。


 ジアの言った通り、ナイツは仕事で殺人を犯した晩は一人で酒を飲むのが習慣だった。酔いによって、その罪悪感を紛らわせるために。

 ナイツは金をもらって人を殺す身に甘んじているが、ナイツは殺人の度に恐怖と慙愧を深く胸に刻み、その後に得た生の実感も常に罪悪感と同居せざるをえない。


 ジアは、自分のこの醜態を知っているのだろうか。

 ナイツが自嘲の片鱗を顔に浮かべると、再び胸を突く衝動があった。吐こうとしても胃の内容物がなくなったため、呻き声を漏らすだけだ。


「あの……、大丈夫ですか?」


 その声に驚いたナイツが声のした方向に素早く拳銃を向けたのは、皮肉にも繊細な精神とは乖離した殺し屋の本能だった。


「わ! 待って! 私です、私!」


 ナイツの反応に動揺した女の声が暗がりから放たれる。


 照明は入口と厨房に点灯しているだけで、居間はその余波によって薄明りとなっている。いつの間にか長椅子に人影が存在していた。

 ナイツが不覚をとったのは泥酔していたからだけでなく、それまでその人物は長椅子に横たわっていたために気づけなかったのだ。

 赤らんだ目を細めてナイツが闇を凝視し、その名前を呼んだ。


「サンですか?」

「そうですよ。ナイツさん。そ、それを下ろしてください」


 ナイツは気まずそうに拳銃を懐にしまった。見られてはいけないものを見られてしまったのだが、そこまで酒に毒された思考は届かない。


「なぜ、ここに」

「ナイツさんが帰ってくるのを待っていたんですけど、なかなかお帰りにならなくて。そうしていたら暗くなっちゃって、私も帰るに帰れなくなって。ここら辺て、けっこう治安が悪いんですね。すぐ下で喧嘩があったんですよ。そんなの見たら、一人で帰れないじゃないですか」


 そういうわけでナイツの帰宅を待っていたのだが、知らないうちに眠っていたとサンは説明した。

 サンが寝台で休んでいなかったのは、他人の寝台を勝手に使うまでは図太くなかったということもあるが、その横にある人の形をした染みが怖かったというのが理由の大半だろう。


「すいません。怒って……ますよね?」


 サンが窺うような視線を注ぐも、ナイツは虚脱したような表情をしていてサンの説明をどこまで理解しているのか読み取れない。


「今夜だけ泊めてくれませんか? 私、ここでいいですから」


 長椅子を指差すサンを見やり、ナイツが口を開く。


「自分は……」


 その先を言うことができず、ナイツは流しに顔を突っ込んだ。喉を震わせて咳き込むナイツにサンが慌てて寄り添う。


「大丈夫ですか? 飲み過ぎですよ。ナイツさん」


 声をかけて背中を擦ってくれるサンを視界の隅に捉えたとき、不意にナイツの胸中にある思いが去来する。


 タヒコには、その死を悲しんでくれる存在がいた。自分にもそんな人はいるだろうか。


 叔父は、手駒の一つを失って眉をひそめるだろう。それだけだ。トウコは論外。

 ナイツにとっては気心の知れた殺し屋の教師であるジア、彼女は不肖の弟子が死ねば惜しんでくれるかもしれない。


「ああ、死んじゃったの」


 そう言って苦笑で済ますジアの姿を、以前からナイツは予期していた。


 これでは虫けらのタヒコの方がナイツよりも上等だったではないか。タヒコの死を悼む女性の悲しみ、ナイツの精神を切り裂くあの嘆き、あれが真実だ。

 自分自身しか惜しむことのない生命のため、ナイツはタヒコを殺して惨めなこの存在を現世に晒している。


 自虐と沈痛が螺旋模様を描いてナイツの心を翳らせた。


「ナイツさん。そんなに落ち込まないでください」

「はあ?」

「本当は優しい人なんですから。無理はしないでください」


 この女は自分の何を知っていやがるんだ、そう思ってもナイツは抗えなかった。

 仕事に向かう前、サンが言った「私、あの夜のことを知っていますから」という意味ありげな台詞のことを、このときナイツは失念していた。


 ナイツのことを心配してくれるのは知り合って間もない、このサンだけのようだった。

 その背中に当てられた掌の温もりと、酔って鈍くなった理性が、ナイツの鬱積した心情を決壊させる。


 その双眸から溢れた涙が俯いたナイツの頬を滴り落ち、流しの冷やかな鉄製の表面に透明な花を幾つも咲かせた。


「ナイツさん?」

「自分は、さっき人を殺した。これまでも殺し続けてきました。それでも……」


 ナイツは泣きながら言った。


「自分は死ぬのが怖い。どうか、許してください」


 その懺悔はサンに向けられたものではなかったろう。

 だが、サンはナイツの背を撫でて説いた。


「仕方がないですよ。死ぬのが怖くない人なんていません。とにかく、今はゆっくり休んでください」


 ナイツは、その言葉で一時にせよ心の安息を取り戻したようだった。

 しばらく項垂れるナイツの背中をサンが撫でる時間が続く。


 彼は、殺し屋だった。

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