第5話 硝煙は溜息にも似て

 二時間後、遊興都市ヒカリヨにナイツが到着したとき、夕日は地平線にその身を半分ほど沈めていた。


 空は急速な勢いで濃紺に塗り潰されつつあり、すでに夜の色に染められた天頂付近には暗幕に穴を穿ったように一等星が輝いている。夕焼けを背景にして佇立する高層建築物が、ナイツには墓標のようにも見えた。

 ナイツは、タヒコが潜伏しているとされる下町へと移動する。


 鉄道の駅を出てからの広場には背広を着崩した男や、露出の多い衣服を着た女性などが多く、ユウツゲとは明らかに居住する人種が違うことが分かった。

 目抜き通りは電飾で彩られた看板が闇を払拭し、人工的な明かりに満たされていた。その光のなかを、酒に酔った者や一晩の快楽を求めるものが行き交い、欲望の坩堝となってナイツの身を押し包んだ。

 その生へと直結する活力を帯びた人々との間に見えない壁を隔てたナイツは、どこか吐き気を覚えて足早に移動する。


 人通りの少ない裏町に辿り着いて一息吐いていると、仕事用の携帯端末が着信音を上げた。端末を操作して応答したナイツの耳に怜悧な声が届く。


「タヒコの行方が判明しました。彼は、行きつけの酒場で馴染となった女に匿われているようです。その女の住居ですが……」


 連絡をよこしたトウコの言葉に従い、苦労して細く入り組んだ路地を進むと、二階建ての集団住宅があった。その一室にタヒコは隠れているようだ。

 今は女も部屋にいるので手出しせず監視に努めている。横道に潜んでいるナイツの周囲には人目もない。もし存在したとしても、その姿を気に留めるほど神経質な住人はいないような地区だった。


 足元に捨ててある酒瓶を靴で転がすナイツの瞳は、目前の建物を見つめているようでいて、その実は自身の内面に向けられているようだった。


 タヒコは賭博でできた借金を踏み倒そうとしているがために、その命を狙われたのだ。借金など素直に払うか、返せないならば初めからしなければよい。

 タヒコはただの遊び人であり、ジアの評したように虫けらのようなものだ。彼が死んで悲しむ者はいるかもしれないが、困る人間は皆無だろう。


 物思いに沈潜するナイツの意識を現実の水面に引きずり出したのは、鉄製の床を踏み鳴らす音だった。

 ナイツの瞳が焦点を結んだ先では、二階の部屋から現れた女が四方に注意を払って通りに入って行くところだった。

 女が出てきたのはタヒコが隠れているとされる部屋だ。そうなると女は彼を匿っている人物で、買い出しにでも行ったのかもしれない。


 ナイツは女性が戻ってこないことを確認して部屋に向かった。周辺を見渡すと、懐に右手を差し入れて玄関の呼び出し音を鳴らす。

 甲高い音が室内に響いたのを戸外のナイツも聞いた。すでに袖のなかに隠された右手には拳銃を握っている。


 しばし待っても、扉の内側に人の気配はしない。

 勘づかれたか?


 階段を降りて急いで建物の裏手に回ると、窓から飛び降りたらしい男が、走り去りながらナイツの方を振り返っているところだった。

 ナイツの目と、男のそれが合わさる。

 栗色の派手な髪型と緑の瞳。二十代後半ということだが、年齢の割に若く見える甘ったるい容貌の色男だった。ナイツが教えられたタヒコの人相に該当している。


 ナイツは無言でタヒコを追った。タヒコは路地に入ってナイツを迷わせようとしたのだろうが、足の速さが比較にならない。

 日頃の遊蕩が祟ってたちまち呼吸の荒くなったタヒコに追いつき、ナイツは彼の肩を掴んで引きずり倒した。


「うわ!」


 悲鳴を上げて転倒したタヒコが身を起こして視野に捉えたのは、人生の終着点を暗示するように立ちはだかる若い男だった。


「お、お前は……?」

「あなたが、タヒコ・オオスギですね。いえ、答えなくても構いません。分かりますから。自分が何者であるか、あなたには身に覚えがありませんか」

「分かっている! 借金は返すよ、嘘じゃない! ただ、今は持ち合わせがないんだ。今日は勘弁してくれよ」

「ああ、理解していませんね」

「どういうことだよ。借金のことじゃないのか?」

「借金は関係していますが、自分の目的は違います」


 複数の賭場に出入りしているだけあってタヒコも健全な一般人ではない。タヒコは賭場で殺人を犯したという噂の人物を見たこともある。

 この陰気そうな男はその殺人者と同じ雰囲気、いや、それ以上の翳の深さだ。

 タヒコは、この男の無明の面に浮かぶ、『消極的な殺意』としか言えないモノを見出した。


「おい、冗談だろ? ……まさか、あんた、俺を殺そうと思っていないよな?」


 ナイツは黙したままタヒコを見つめている。それが暗黙の肯定を意味していると知って、タヒコは尻餅を着いた姿勢で後退りした。


「俺はただ借金しただけだぜ? 何で殺されなけりゃあならないんだ⁉」

「支払いが滞っているらしいので」

「すぐは無理だけど、必ず返すって言っているじゃねえか!」

「あなたの、その態度が気に入らないようです。おかげで、自分にも仕事が回ってきてしまいました」


 タヒコの上擦った声を意に介さず、ナイツは至って冷淡に応じる。


「他に借金をしている奴はいるだろうが! 何で俺だけが殺されるんだよ。……お願いだ。あんたからも、親分に許してくれるように頼んでくれよ」

「自分は外注でして。そのような権限はありません。残念ですが」


 その一言にタヒコの希望は断たれた。現実を直視できないのか、彼の両目は急速に潤んで涙の膜を張った。

 タヒコに残された手段は、ナイツの感情に訴えかけることだけだった。


「助けてくれよお……! 頼むから。何でもしますから。金も払いますから。何とかしてください。この通りです。何とか……何とか!」


 拝むようにタヒコが手を合わせても、ナイツの顔には変化がない。その内面にどれほどの懊悩が生じていたとしても、タヒコには窺い知ることはできなかったろう。


「心を入れ換えるには遅すぎましたね」


 タヒコは愕然とする。


「……人を殺してまで金が欲しいんなら、俺がやるよ。俺の女の金だってやるからさ。見逃してくれ、頼む」


 ナイツの口辺が微妙に歪んだ。それがナイツなりの笑みなのかもしれない。


「できませんよ。そうしても無駄です。なぜなら……」


 一度言葉を切って、ナイツは先を続ける。


「自分がここで手を引いても、別な人物があなたを殺しに現れるだけです。命令に背いた自分を処理した後で」


 ナイツがタヒコを見逃してやったとしても、使い物にならない殺し屋として不要になったナイツを殺した人物が、再びタヒコを狙うだけだった。

 恐らくその人物はナイツを殺し屋に仕立て上げた本人、ジアが選ばれる。いや、彼女自ら名乗りをあげるはずだ。それがジアの流儀だ。


 ナイツがこの場でタヒコの命運を握っているように、ナイツの生命も雇い主である叔父の掌中にある。

 ナイツもタヒコも結局は他人に生命を握られているだけの存在だ。二人は同じ虫けら、片方が拳銃を持っているだけの違いしかない。


 そこまで考えたナイツは、奇妙な親近感を覚えてタヒコに語りかける。


「依頼が持ち込まれた時点で、あなたの死は確定している。それなら、死体が二つよりは一つの方がいいでしょう」


 それまで恐怖を帯びていたタヒコの面貌に憎悪の色彩が加わった。


「だったら、それはお前だ!」


 タヒコが後ろに回していた手をナイツに向ける。その手には、安物であるが一丁の拳銃が握られていた。

 ナイツは身を躱すこともせずに棒立ちのままだった。


 タヒコの握る拳銃が火を噴き、銃弾が射出される。

 弾丸が ナイツの身を食い破るには、一瞬もかからないはずだった。


 しかし、数秒が過ぎてもナイツは無傷で立っている。銃声が消えた後に、甲高い音が両者の耳朶を打った。

 その音は、ナイツに向かったはずの銃弾が石畳に落ちたものだったが、タヒコはそれを知ることはなかった。


「う、嘘だろ⁉」


 ナイツの手がタヒコに向けられる。その手が握るものにタヒコの目が焦点を合わせる間もなく、それは轟然と銃弾を吐き出した。

 ナイツの手にする拳銃から飛び出した銃弾は、的確にタヒコの眉間を撃ち抜いていた。タヒコの後頭部から血汐と灰色の飛沫が路面に降り注ぎ、その上に力無くタヒコが倒れ伏す。


 タヒコの光を喪失した目は虚空を見つめ、その意識は虚無の深淵に飲み込まれたようである。

 タヒコは死んでいた。


「自分は死にたくないですから。すみません」


 若い殺し屋は、それを死者への言い訳とした。

 標的の死亡を確認し、ナイツは踵を返す。死骸の横たわる路地を折れたとき、背後に慌ただしい足音を彼は聞いた。


「タヒコ君⁉ タヒコ君……! 嫌あぁ‼」


 銃声を聞いてタヒコを匿っていた女性が駆けつけてきたようだった。男の死を知って泣き叫ぶ女性の声だけが、ナイツの背を追ってくる。

 タヒコは虫けらだったが、少なくとも彼を失って悲しむ存在はいるらしい。


 姿のない慟哭がナイツを責め立てた。後味の悪さを覚えたナイツは足を速める。

 ナイツは大通りに出る。すでに夕日は沈み、漆黒の靄がナイツの全身をぞんざいに覆った。

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