第3話 サンの押しかけ交誼と非日常への誘い

 その翌日、またサンが訪れたとき、ナイツは驚きよりも不審を覚えた。

 昼前に起床して長椅子に寄りかかって本を読んでいると、扉の叩かれる音が来客の存在を告げる。

 珍しい訪問者にナイツが怪訝な表情で扉を開き、目の前に立っていたのがサンだった。


「こんにちは」

「……まだ何か用が?」


 挨拶をするのも忘れたナイツの問いかけに答えず、サンはその横を抜けて室内に入る。仕方なくナイツは扉を閉めて向き直った。


「昨日、お礼はしてもらいましたが。気が済んだのではないですか?」

「そうですけど。ただ遊びに来たというか」


 そう言うと、勝手にサンは長椅子に腰を下ろしている。

 どうもナイツにはサンの考えが理解できない。ナイツに接近しようとする意図が分からないのだ。何か目的があるのだろうか。


「いや、本当に遊びに来ただけですよ」


 彼女を怪しむ心情がその面に露出していたのか、サンが弁解するように言う。

 ナイツが息を吐く。厚顔なのに、勘は鋭いサンに機先を制されるのにも慣れつつあった。

 ナイツは厨房に入って容器を火にかける。自身と客のお茶を淹れるためだ。


マンネンロウローズマリーでいいですか」

「お願いします」


 サンは持参した鞄を漁り、あるものを取り出した。


「ナイツさん、これ見てください」


 その声にナイツが目を向けると、サンは一冊の本を掲げていた。


「何ですか」

「私、小説なら読むと言ったでしょう。今、この本を読んでいるんです。ご存知ですか、このケイ・タツミヤという作家」


 その名前を聞いてナイツが鼻で笑う。

 ケイ・タツミヤ。当代の閨秀作家では最も人気のある人物だろう。その淡白な文体と男女の恋模様を描く作風が生む雰囲気が好評をえている。

 だが、ナイツからすれば如何せん軽すぎるというものだ。


 ナイツは大股に長椅子へ歩み寄る。その勢いに思わずサンが身を硬くするほどだった。それを気に留めず、ナイツが読みかけの書物をサンの眼前に突きつける。


「あの、ナイツさん?」

「やはり通はユリ・イケナミでしょう。ケイとは違って格調高い文体のために人気は一歩劣りますが、その内容においてはケイなどユリに及びません」

「あれですよね。ケイ派とユリ派があってナイツさんはユリ派なんですね……」

「それだけではありません」

「続きますか……?」

「ユリの特筆すべきところは、彼女が師事したノリナガ・イブセの作風を受け継いでいるという点にありまして……」


 ナイツの口上を封じたのは、高い音を上げた薬缶だった。沸騰して蒸気を噴き出す薬缶を静かにさせるため、ナイツが厨房に走る。


「ふう」


 湯気を立てる容器から二つの杯にナイツは熱湯を注いだ。

 豊かな芳香を放つ杯の片方をサンに手渡し、ナイツが隣に腰かける。


「それで、さっきの話ですが……」


 説明を再開したナイツに、サンが畏怖の視線を注いだ。





 次の日、午後になってパン屋の手伝いを終えたナイツが紙袋を携えて帰ってくると、自室の前で膝を抱えて座るサンを発見した。

 同時にサンもナイツのことを見つけたようで、恨めしげに見上げてくる。


「ナイツさん、出かけているなら教えてくれればよかったのに。一時間は待ちましたよ」

「今日も来るとは、自分も教えられていなかったもので」


 さりげなくやり返し、ナイツが解錠した扉を開けてサンを先に通す。

 例によってマンネンロウ茶をサンに手渡して、ナイツは長椅子に座った。


 こうして二人が並ぶのも三日目となる。こちらの都合を無視して連日訪ねてこられるのも迷惑だし、今日こそ真意を質すべきだとナイツは考えた。


「サン、いったい何が目的でここに通っているのです」

「遊びに……です」

「本当にそうでしょうか」


 懐疑の込められたナイツの視線を浴びて、サンが顔を伏せる。やはりサンが押し掛けてくることには理由があるようだった。


「どうも、自分のことを観察しているような」

「そんな、観察だなんて……。ただ、ナイツさんのことを知ろうと思ったんです。お願いしたいことがあって」

「それなら最初に言ってくれればよかったのに」

 ナイツが無言ながらもその瞳で話の先を促す。

「あのう、それがですね……」


 普段の闊達さが消え失せてサンは言い淀んだ。

 このままでは埒が明きそうもないが、相手を急かすよりも自身が待つ方をナイツは選ぶ。


 ナイツが進んで声を発することもなく、サンも口唇を開くことがないので、その場の音声は静寂で満たされた。

 室内に降り積もる静謐の埃を払拭したのは、意を決したサンの声だった。


「ナイツさんは、〈叡智えいち〉のことを知っていますか?」

「それは……、知ってはいますが」


 話題が思わぬ方向に転じたことで、ナイツは不審よりも驚きを覚えた。サンが〈叡智〉についての知識があることへの意外さもある。


 この世界には先天的な異能を有する人間が存在する。その能力は〈叡智〉と呼称され、人々から畏敬の目を向けられていた。

〈叡智〉の発揮する効力は個々によってさまざまなものだ。人畜無害な能力から、都市を丸ごと消滅させる規模の破壊力を発現させた例も報告されている。


 常人とは違うその異質性のせいか、〈叡智〉を持つ人物には忌避の視線を向けられることが多い。また、〈叡智〉という天与の能力に恵まれたために優越感を覚え、自己に陶酔して他者を蔑む人間も皆無ではなかった。


〈叡智〉を持つ人物の犯罪は枚挙に暇がない。このような理由もあって、〈叡智〉を所有しながら社会に溶け込むことは難しかった。

 自然と、その特異な能力を悪用して裏社会に生きる人物が増える。この悪印象が、さらに〈叡智〉所有者への偏見を再生産するのだった。


「〈叡智〉が、どうかしたのですか」

「それが関係ありまして、私は〈叡智〉を持っているんです」

「……それは珍しいですね」

「言っておいた方がいいと思って。実は……」


 そのとき、サンの声音を途中で遮る電話の呼び出し音が鳴った。

 ナイツが立って備えつけの電話の受話器をとる。


「はい。自分です」


 無愛想に応答したナイツの耳朶に返されたのは、怜悧さを感じさせる女性の声音だった。


『打ち合わせをしたいのです。本社までお越しください』


 相手が名乗らなくても、その声でナイツは電話の主が誰か分かった。それがどのような用件であるかまで。


「今からですか」

『ええ。何かご都合が?』


 ナイツはサンを一瞥して応じる。


「いえ。すぐに向かいます」


 ナイツは電話を切るとサンに向き直る。この連絡があってからでは、冷たいようだがサンに関わっている暇はないのだ。


「すみませんが、急用ができました。自分は出かけますから。帰るときは鍵をかけなくても結構ですよ」


 ナイツが玄関に向かうと、それまで黙っていたサンが彼の背中に声を放つ。

「ナイツさん」

「何です」


 その続きをサンが口にする気配がないので、気持ちの急いたナイツが振り返った。思わず険しくなったナイツの目線がサンの瞳と交わる。

 サンの表情は必死さを帯びていた。


「私、あの夜のこと知っていますから」


 ナイツが当惑して目を泳がせる。


 あの夜。サンが言っているのは、ナイツが彼女を暴漢から助けた、その晩のことだろう。ナイツが夜にサン会ったのは、その日しかない。

 当夜、ナイツは初めてサンに出会ったのだ。その直前に、ナイツは依頼によって人を殺している。まさか、サンはナイツの殺し屋としての顔を知っているのか。


 そんなことはありえない……はずだ。


 ナイツはサンに知っていることをすべて吐かせたい衝動に駆られたが、呼び出しを受けた以上、ナイツはその場所に赴かねばならない。

 サンの意味深長な言葉によって、今度はナイツの方からサンに会わなければならない理由が生じたのだった。


「次の機会に、詳しく伺います」


 煩わしげに後背に声を投げると、ナイツは慌てて出ていった。

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