第2話 女学生、サンのお礼に戸惑うナイツ

 この都市、ユウツゲは大河によって縦断され、そこから幾つもの運河が広がっている。交通手段として利用される水路に船が行き交う景色は、ユウツゲにあって珍しくない。


 河川の多さは都市の景観を優美にしているが、その代価として湿度が高く、数日に一度は朝に霧が発生した。

 この日も午前中は薄い霧が立ち込め、勤め人の背広をうっすらと湿らせていた。ようやく昼を過ぎてから日差しが眩しくなり、濡れた石畳に温かい光が降り注いでいる。


 人通りのなか、瞳に無明を宿す青年が存在した。紺色のズボンと白い襯衣シャツを着用し、中肉中背で二十代前半の男性である。

 夜の色素を凝縮したような黒髪と暗黒の瞳を有している。その容姿は端正ではあるが、暗い表情がその魅力を損なっていた。


 先夜、貸金業の男を殺害した青年、ナイツは穏やかな街の光景を他人事のように眺めつつ、通りを歩いていた。

 陽光の下にあってより暗さを増したようにも思える瞳を宙に投げるナイツは、その両手で紙袋を抱えている。

 手伝いに通っているパン屋の主人から譲られたパンだった。これがナイツの遅い昼食となる。


 ナイツが自宅のある裏通りに入ると、そこで右往左往している小柄な人影を見出した。

 その姿に覚えがあったナイツは急いで道を変えようとしたが、それよりも先に向こうの人物が彼を見つける。


「あ、やっと会えた! どこにいたんですか、もう」


 約束してもいないのに勝手なこと言って近寄ってきたのは、数日前に出会った女性だった。

 外見は十代後半ほどで、女性と少女の中間といった雰囲気を帯びている。幼さを残す顔立ちながら、すべての色彩を溶け合わせたような深淵の黒瞳が、どこか妖しく煌めいていた。


 ホットパンツに薄緑色のセーターの組み合わせが、活動的な印象を与える。肩までの流麗な黒髪を揺らし、女性は微笑んだ。

 別れ際、しつこく尋ねるので名前の他に大まかな自宅の住所もナイツは教えたものの、本当に探し出そうとするとは考えもしなかった。


「えと、ナイツさんですよね」

「ええ。それにしても、わざわざ自分を訪ねてくるとは……。えー……」


 女性の名前も教えられたはずだった。興味もないので聞き流してしまい、思い出すのに時間がかかる。


「サンさんでしたね」

「あの、サンで結構ですから」

「はあ、それでは、ええ、サン、どうしたのですか」

「この前のお礼ですよ。お礼!」


 そう言ってサンはナイツの眼前に持参した小包を突きつける。


「自分は、そういうのは必要ないと、以前に言ったはずですが」

「私の気持ちの問題です」

「それは有難迷惑な理由で」


 手を払い除けたナイツが鋭い視線を放つと、サンはナイツの持つ紙袋に意識をとられているようだった。


「それパンが入っているんですね。美味しそうだなあ」


 中身を見てもいないのに分かるとは嗅覚の利く女だ。そうナイツが思うと、サンは次の言葉でさらにナイツを驚かせる。


「ナイツさん、そのお店のパンが好物なんですね。食べるのを凄く楽しみにしているみたい」


 教えたこともないのに、そう指摘するサンを驚愕の眼差しでナイツは見返す。

 ナイツの様子に気づいたサンが、言い訳するような口調になった。


「あ、そうかなと思っただけですよ」

「そうですか?」

「いいなあ。ナイツさんを探すのに手間取って、お昼ごはんを食べてないんですよ」


 言外の要求を受け、ナイツはサンの鉄面皮に恐れ入った。面倒だが、先方の気が済むのならそうさせてやろうとナイツは思う。

 この場で押し問答をするだけ無駄なことは、サンとの短いつきあいだけでも分かった。


「自分の家が近いので、よろしければ寄っていかれますか」

「いいんですか?」

「ええ」


 ナイツが先に立って案内すると、サンはすぐさまその背に続いた。

 暴漢に襲われていたのを助けはしたが、そうだからといって自分のことを信用し過ぎだ。どうも警戒心に甘いところがあると、ナイツはサンのことを見定める。


 知人でも気が滅入るのに、よく知らない人物、それも女性を自宅に招くのは心底イヤであるが、後顧の憂いを断つには我慢するしかない。

 ナイツはサンを導きつつ、短い溜息を吐いた。





「言い忘れていましたが、汚いですよ」


 ナイツはそう言って自室の扉を開けた。

 裏街に位置する塗装の剥げが目立つ集団住宅の一室。それがナイツの自宅だった。

 その室内は広くなく、入るとすぐに簡素な厨房と居間があり、右手の扉の奥には形だけの浴場に便器が備えてある。


 その部屋には最低限の設備だけがあり、住む者に対する配慮までは用意されていなかった。

 ナイツの部屋は他のそれよりも群を抜いて老朽化している。壁紙は各所で破れて壁面が露出し、床との境には穴が空いていた。

 この部屋だけが古びているのは、ナイツより前の住人が二人続けて変死しており、気味悪がられてろくに管理もされていないからだった。

 どうでもいいことだが、寝台の横に人の形に見える黒い染みがある。


「お邪魔します」


 ナイツが身体を開いて先にサンが玄関をくぐる。

 室内には寝台と木卓テーブル、古びた革張りの長椅子がある。壁際に本棚が置かれ、そこに収まり切らない書物が床に積まれていた。

 家具が少ないために雑然とした感じはしないが、少し埃っぽい。


 ナイツが紙袋を卓上に置いて席を進めると、サンは会釈して長椅子の端に座った。サンの持参した小包も卓上に置かれる。

 ナイツは厨房に入ってサンに問いかけた。


「お茶は何がいいですか? マンネンロウローズマリーローゼルハイビスカスカミツレカモミールアマダイダイオレンジピールと……」

「何でも揃っているんですね。それじゃあ、マンネンロウをください」


 ナイツ達が居住するユウツゲが属する都市国家群同盟、通称〈ムラクモ九都市同盟〉の主要生産物が茶葉であるため、市民が飲用するのも外国に多い珈琲コーヒーではなくお茶が主流だ。

 茶葉一大生産都市であるシラクサから輸出する茶葉は大陸中に流通し、同盟の貴重な資金源ともなっているほどだった。


 ナイツが湯を沸かしている間、時間を持て余したサンが本の山に向けていた目線をナイツに転じて口を開いた。


「本を読むのが好きなんですね」

「それだけが自分の趣味なもので」

「私も小説くらいなら読むんですけど」

「それは意外な」


 マンネンロウ茶で満たされた杯をサンに差し出し、ナイツはサンの隣に腰かけた。長椅子が一脚しかないので自然とそうなる。その距離は不自然に開いていたとはいえ。

 礼を言ってマンネンロウ茶に口をつけた後、サンが小包を差し出す。


「そうだ。これ、この前のお礼です。どうぞ」


 ナイツが包装を解くと、その中身は焼菓子クッキーの詰め合わせだった。どうも男の好みじゃないなと思い、ナイツが身を引く。


「もう、遠慮なさらないでください」

「まあ、この後で頂きますから」


 お礼の品物を渡したことで肩の荷が下りたのか、今度はサンが物欲しげな表情でナイツの前の紙袋を見やる。

 ナイツが無言で紙袋を押しやると、サンが笑みを浮かべて紙袋を受け取った。

 紙袋を開いてサンがパンを齧るさまを見やってナイツが言う。


「それ美味しいですか?」

「とっても」


 サンの笑顔を目にしてナイツは渋い表情を作る。

 サンを嫌おうにも、ナイツと読書という趣味が同じだったり、味覚の好みが似ていたりと、サンに悪い印象を抱きづらい。

 ナイツは降参したようにその背を長椅子に預けた。


「よければ、幾らでも召し上がってください」

「わあ、頂きます」

 二つ目のパンを手にしたサンを見つめ、ナイツは非難の言葉を飲み込んだ。

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