殺し屋ナイツの受難
小柄宗
第一章 殺し屋、来る
第1話 殺し屋、女学生との邂逅
「自分は、殺し屋です」
拳銃を突きつけると、その相手が慌てふためいて腰を抜かす。どうやら先ほど彼が発した言葉を聞いていないようなので、律儀に彼は再び名乗っていた。
銃を構える彼の髪と瞳は深更の夜闇よりも黒い。中肉中背の群衆に混じれば目立たない体格で、その二十代前半と思しい容姿はそれなりに整っている。
「ま、待て! 落ち着け!」
恰幅のよい中年男が路面に尻餅を着いて、彼を制するように片手を挙げている。
落ち着くべきなのはお前だろう、と彼は思ったが、それも無理な相談だった。もはや余計なことは口にせず、彼は中年男との距離を詰めている。
この中年男が彼の標的だった。
金貸しを生業にしている人物で、その過酷な取り立てによって首を吊った零細企業の経営者は少なくない。決して良心的とは評せない男だった。
「金なら幾らでも払うぞ! 助けてくれ!」
二人が向き合っているのは狭い路地裏だが、表通りの照明の余波が二人を淡く照らしている。そのため互いの表情も、彼の握る拳銃の不吉な輝きも明瞭に認められた。
彼は中年男の惨めに歪んだ顔を見ながら、愛人の家に通うために護衛を先に帰したことを悔いているだろうかと思った。
それを調べた上で待ち伏せていたのだから、仕方がないのだが。
「頼む! 金ならやるから……」
「金は、別の人からもらうことになっています」
「お願いだ! 俺には妻と子どもがいるんだ……!」
この男のせいで、どれだけの子どもが親を失ったのか。ふと皮肉な気分になった彼は、冷然とした月光よりは親切な声音で教えてやる。
「この依頼は、あなたの奥様から請けたのです。今頃は、あの若い男を新しい父親として子どもに紹介しているでしょう」
中年男の双眸が見開かれた。
彼が引き金にかけた指に力を加える。それは本当にちょっとした力だったのに、乾いた銃声が張り詰めた夜気を破るには充分だった。
彼は頭から血を流して倒れる男が死んでいることを確認する。その手元の銃口が溜息のように細長い硝煙を吐き出していた。
彼は足早にその場を離れる。
金貸しをしていたあの中年男に恨みを抱く人物は数多い。だが、男の死を最も望んだ者は怨恨ではなく、遺産と若い男への執念を胸に抱いていた存在だったのだ。
彼は人の代わりに恨みを晴らす、などという正義の代弁者ではない。欲望に突き動かされた人物の単なる走狗だった。
この世界の醜さについて、彼は今日も確信を深めていた。だが、彼はこの世界で生命を全うすることに執着している。
彼は、殺し屋だった。
今夜の仕事を終えて帰宅の途に就いていた彼の足を止めさせたのは、高い女性の声だった。
石畳を踏んで立ち止まった彼の耳朶に、若い女性の声と男のそれが重なって届く。広い通りを歩く彼が視線を向けたのは、月明かりも差さない横丁だった。
その悲鳴を無視することもできず、彼の爪先は横道へ逸れた。
細い路地を進んで間もなく、彼の視野にもつれ合う三つの人影が映る。一人は女性で、その華奢な身体を挟む残りの影は男だった。
「あ、お願いします。助けて下さい!」
どうやら男に絡まれているらしい女性が彼に向けて呼びかける。その声で、男達も彼の存在に気づいたようだった。
「お兄ちゃん。悪いけどよ、少し立て込んでるんだよ。あっちに行ってくれねえか」
大柄な方の男が威圧するように彼に迫る。
彼は脅しをかけてきた男の腹部に膝を突き込む。呻いて路面に両膝を着いた男の側頭部に肘鉄を送ると、そいつは弾け飛んで地に伏した。
「な⁉」
彼は格闘に自信がなかったものの、訓練をしていない素人を相手にして負けることはなかった。
相棒を沈められて驚く男に放った拳が見事にその頬を捉え、もう一人も壁面に背中を打ちつけると、呆気なく失神した。
「わあ! ありがとうございます!」
「あ、別に、お礼を言われるほどではないので」
彼が去ろうとすると、その女性が行く手を塞ぐ。見たところ十代後半の女性で、少女と女性の中間とでも言うべき雰囲気だった。
黒い豊かな頭髪と黒瞳を有する女性が直線的な視線を向けてくる。それを正面から受け止められない彼は困ったように目を泳がせた。
「駄目ですよ。ちゃんとお礼をしないと、私の気が済みません」
「自分は通りがかっただけですから……」
「お名前を教えてください! そうじゃないと帰せません」
彼女に絡んでいた男達よりも厄介だと思いつつ、彼は話題を転じようと試みる。
「まったく。若い女性が出歩く時間帯ではないですよ」
「だって、今夜中に課題を仕上げる必要があったんです。不可抗力ですよ」
女性は遥か彼方を指差して胸を張った。彼女の示す方角には飲食店が位置している。それは終日営業の店であり、確かに深夜でも利用することができる。
「なるほど。これからは気をつけてください。それじゃ」
「あ、はい、どうも。……じゃなくって、ちょっと待ってください!」
踵を返した彼の袖を女性は慌てて掴んだ。
さすがに彼も苛立ちをその瞳に刷いた。仕事の直後で心が荒んでいたせいもある。
だが、彼女は臆せずに彼を見返していた。
彼女の熱意に、ついに彼は降参する。
しばし、躊躇うように口元を
「ナイツ。……自分のことを知っている人は、みんなそう呼びます」
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