こぼれ話・人魚姫の忘れ物

「あれ?しずくのやつスマホも財布も置いてってるじゃん」


朝の忙しい時間。

部活の朝練で先に家を出たしずくの席に財布とスマホが取り残されていることに気付いた。


「あ、ホントだね。取りに戻って来てないってことは定期は持ってるのかな?」

「多分そうだな。で、気付かないまま学校にたどり着いちまったと」

「お届けしないといけませんね」

「僕が先に行って渡しとく。つうわけで僕はこのまま出るからまた後でな」


今から出れば丁度朝練が終わるぐらいのタイミングになるだろう。


「は~い、いってらっしゃ~い」


水泳部が練習を行う室内プールは部外者が近付くことは推奨されていない。

数年前に水着の盗撮写真が出回ったせいでかなり厳しく取り締まられるようになったのだ。

なので一部のチャレンジャーな大馬鹿野郎を除けば一般生徒のほとんどは室内プールに近付くことはない。


「ええと、入り口は……こっちか」


少々建物の構造に迷いながら入口にたどり着く。


「へぇ~、中はこうなってんのか」


はじめて見た室内プールの内部についキョロキョロと見回してしまう。

随分と設備が整い学校というよりスポーツジムのようなプールには部員たちがバシャバシャと水を掻き分ける音が響いている。


「君?プール内は水泳部の練習中は接近禁止だよ?覗きや盗撮目的なら教員に突き出すけど?」


いつの間にか近づいてきていた女性に話しかけられた。

どうやら不審者と思われたらしい。

水着姿で肩にタオルを掛けたその女性は確か水泳部の副キャプテンをやっている人だ。

名前は確か――――。


「水沢先輩……ですよね?二年の四季めぐるです。『義妹』の忘れ物を届けにきたんですけど」

「おぉ~!もしかして君がしずくのにぃに君?」


そんな呼び名が定着してるのか……まあ間違いじゃないんだが。


「そうですそうです。あとどれぐらいで終わりますかね?邪魔ならどっかで時間潰してきますけど」

「もうすぐ終わるから中で待ってればいいよ。ベンチもあるから。しかし……普通だね」


上から下までじっくり観察しながらそんなことを言われてしまった。


「普通で悪かったですね」

「や、ごめんねー。しずくに聞いても恰好いいとかカワイイとかしか言わないからさ。君、愛されてるねぇ」

「勘弁してください」


照れる僕をニシシと意地悪く笑った水沢先輩は部員への指示出しに戻っていった。

どうやらキャプテンでありながら仕切りとか全くできないしずくに代わって部を取りまとめているらしい。


「それじゃあラスト一本行こうかっ!!」

「「「ハイッ!!」」」

「「「ウッス!!」」」


室内に女子部員の歯切れ良い返事と男子部員の野太い声が交差する。

指示を出し終えた先輩はベンチに移動した僕のもとへと戻ってきた。


「しかし、君がしずくのお兄ちゃんになってよかったよ。最近のしずくは随分いい方向に変わったんだぜ?」

「そうですかね?まあ以前よりよく喋るようにはなったと思いますけどね」

「何かねー、今までは泳げさえすればなんでもいいって感じだったんだけどね。

最近は後輩の指導も熱心だし、この前なんて急にさ『みんなとリレーで勝ちたいんだけどどうすればいい?』とか聞いてきてね。

こんなこと初めてだったからあたしゃビックリしちまったよ」


僕たちの視線の先ではスタート台に立ったしずくが今まさに水面に飛び込んだところだ。

それはただの飛び込みなのに他の人とは全く違う特別なもののようにさえ見え、あるべき場所へ還る歓びに満ち溢れているように感じられた。

なるほど『人魚姫』なんてあだ名されるのも納得の美しさだ。

泳ぎ終えたしずくはプールから上がると僕を見つけたようでこちらにペタペタと歩いてくる。


「にぃに……どうしたの?」

「忘れ物届けに来た」

「あ……ありがと。私の泳いでる姿どうだった?」

「綺麗だったぞ」

「えへ……うれしい」

「コラコラー!!あたしを無視していちゃつくなー!!」


水沢先輩に突っ込まれてしまった。


「ん……ごめんなさい……まどかもラスイチ行ってきて」

「許す。んじゃあ行ってくるからあとヨロシクー」


タオルを脱ぎ捨ててパタパタと行ってしまった。


「何か面白い人だな」

「うん……大事な仲間」


はにかむように照れくさそうに僕にだけ囁くようにしずくはそう言った。


「お待たせ」

「お疲れさん」


練習が終わり着替えた部員たちが教室に向かうのを見送りながら僕はしずくが出てくるのを待っていた。


「リレー頑張ってるんだって?」

「うん。タイムも順位も泳ぐことのオマケ。でも……インターハイはリレーでみんなと勝ちたい」


部員たちの背中を見つめるしずくの瞳には強い決意と勝利への渇望が浮かんでいた。


「にぃにと暮らし始めてから毎日楽しくて……気持ちに余裕が出来たらこれまでみんなにたくさん助けられてきたんだってわかった。

まどかにはいっぱい迷惑かけてきたし、他の子たちもダメダメな私に優しくしてくれてた。

だから……みんなに何か返したい。私は泳ぐことしかできないから……せめて勝利を」


いつものあどけない表情とは違う、容姿によく似合う大人っぽい表情でしずくはそう決意表明した。

水沢先輩の言う通りしずくはいい方向に変わったのだろう。

この変化が僕たちがもたらしたものだとするならばとてもうれしい。


「頑張れよ」

「ん、頑張る」

「僕らも応援行くからな」

「来て。格好いい所見せる」


授業に遅れちゃう、と僕の手を引くしずくに少しだけ抵抗しながらゆっくりと歩き出した。

遅刻したっていいからもう少しだけ二人でこうしていたい気分だった。

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