第44話 水島2佐を語る者 ⅰ

 九段警部は、ぼんやりと小島警部補を見ていた。彼女はゴールデンウイークの旅行計画の作成に力を入れているようだ。事件調書の代わりにニューヘブンの観光パンフレットをめくっている。そんな遠くに行く金もなければ時間もないだろうに……。


 あくまでもそこは、憧れの南国、天国に近い島のひとつに過ぎない。それでも、夢があるのはいいことだ。あれこれ頭を使うようになった人類に、厳しい現実から目をそらしてくれる希望は必要だ。それによって、人の道から外れそうになっても踏みとどまることができることがある、と九段は思っている。


 電話が鳴った。小島が受話器をとる。


「警部、自衛隊の吾妻さんから電話です」


 小島がウインクを投げてくる。子供だと思っていたが、女の色気を感じて頬が熱くなった。


「な、なんだと?」


 動揺したのは色気に敗けたわけではない。電話をかけてきたのが意外な人物だったからだ、と自分に言い訳した。


『もしもし、九段警部ですね。航海から戻りましたので……』


 相手は吾妻勇気と名乗った。海上自衛隊の呉基地で会えなかった相手だ。航海から戻ったら、電話をもらうことになっていたのだが、総理の暗殺事件の捜査を終えるのにあわせて水島の事件も捜査が打ち切られ、忘れてしまっていたのだ。


 女性だったのか。……名前から男性だと思い込んでいたのが裏切られた。その声に妙な色気を感じ、九段の頬は更に熱を帯びた。


 捜査が終わった以上、吾妻勇気から話を聞いても何も変わらない。が、九段は真実を知りたかった。


 しかし、総理暗殺事件の捜査が終わったことを彼女はニュースで知っているだろう。何よりも、彼女が警察と接触するのを自衛隊が嫌うはずだ。アポイントを取るのは難しいだろうと思った。


 ところが彼女は、防衛省の会議で東京に来ていると告げ、意外にも、呉に帰る前に九段に会いたいと言った。新丸ビルの下で落ち合う約束をして席を立った。


「吾妻さん、女だったんですね。警部もやるなー」


 小島が勝手についてくる。


「俺も知らなかったよ」


「きっと、母ゴリラみたいな人ですよ」


 運転席に座った小島が笑った。


 九段は、思わずゴリラに制服を着せた姿を想像し、ブルブルと首を振った。


「どうして会ってくれるんですかね?」


「俺が二枚目だったと聞いたのだろう」


「雌ゴリラと雄ゴリラですか?」


「誰がゴリラだ……」俺はライオンだ、とはとても言えない。


 新丸ビル前……、九段の前に現れた吾妻という自衛隊員は、想像していたよりも細身の美女だった。船に乗っているというのに、やたらと痩せていて顔色が青白い。自衛隊の制服ではなく薄いグレーのスーツ姿だったのも意外だった。


「驚かれたようですね。女でも国を守る準備はしているのですよ。小さな船で日本の周囲をまわっています」


 勇気は律儀そうな微笑をつくり、わずかな時間しか取れなくて申し訳ないと謝った。


 実はゴリラを想像していた、と応えられるはずがない。九段は、水島三吾の事件を捜査しているとだけ告げ、ビルの外に待たせていた車に誘った。公園や飲食店よりも車の密室の方が腹を割った話しができる。


 九段と勇気は後部座席に並んで座った。


「吾妻さんって、あの艦長さんですね」


 小島が大きな声を上げた。


「なんだ、突然?」


「警部、知らないんですか? 時々マスコミで紹介される人ですよ。美しすぎる艦長です」


 小島の声に、勇気が恥ずかしそうにうなずいた。


「わかった。さっさと出せ」


 九段が叱ると、小島は口を尖らせながらマニュアルモードで車を走らせた。人目を避けるために皇居を一周してから品川駅に向かう予定だ。


「小さな船というと、なんという名の船なのですか?」


 九段は挨拶代わりのつもりで艦名を尋ねた。


「普段なら話しても問題ないのですが、今は微妙な時期でお答えできません。特殊な船なのです。察してください」


 勇気は表情を変えず、ただ頭を下げた。


「訊いてはいけないと知らなかったものですから。自衛隊には〝特殊〟が多いのですね。水島さんも特殊部隊だった」


 九段は、彼女も特殊部隊に所属しているのだろうと想像した。


「秘密主義にすぎますか?」


 勇気が苦笑いを浮かべる。


「いえ、自衛隊ほどではありませんが、警察にも秘密は多い。違いはありません」


 九段は懐からメールを取り出した。


「早速ですが、あなたが水島さんに送ったメールにある、あの夜の30分間とはどういうことでしょうか?」


 勇気が乗るリニア新幹線の発車時刻まで時間があまりない。九段は回りくどい説明を避けて率直に訊いた。


「詳細は話せませんが、私と水島さんは同じ任務に就いていました。深夜の外洋です。そこでトラブルがあり、私は水島さんを船に拾い上げるのに30分ほど遅れたのです。その30分間、水島さんが1人で夜の海に浮かび、何を思い、何を感じていたのかと思うと胸が痛みます」


 勇気の話は、九段を納得させるものではなかった。


「その海がどこかは知りませんが、30分ほど漂流するだけのことで、訓練を積んだ特殊部隊員の性格が変わってしまうようなことがあるでしょうか? 水島さんは帰宅してから、突撃と寝言で叫んで目覚めることがあったと聞いています。他に、もっと重要な、たとえば軍事的な事件が絡んでいたのではないでしょうか?」


 九段の質問に対して、彼女が目を細めた。


「突撃、……ですか……」


 勇気は前方を真っすぐ見つめていた。九段の質問の意図を考えているのだろう。九段は言い方を変えた。


「軍事的な問題でなければ政治的な問題、……どうでしょう?」


「何故、政治的問題だと思われるのですか? 我々は自衛官です。政治的問題とは遠いところにいるのですが」


「自衛隊が単なる機関だとしても、それをコントロールしているのは政治家です。自衛隊のトップは内閣総理大臣。総理の意思が、自衛隊という組織の運営に反映しないということは、私には考えられない。水島さんは総理が狙撃された時、同じ場所で撃たれた。それが何よりの証拠だと考えています」


 勇気の顔が苦痛に歪んだ。


「そうですか。そう言う意味ならば、自衛隊の行動は全てにおいて政治的ということになります」


「その政治的意志によって、それまでは普通の市民と同じ生活をしていた水島さんが、そうはできなくなった。頭を丸め、仕事を辞め、神仏に祈りをささげながら山中を彷徨った。挙句の果てに、何者かに撃ち殺された」


「水島さんの死は、流れ弾によるものだと聞いていますが?」


 勇気は驚きを隠さなかった。


「公式には流れ弾ということになっています。警察にも秘密が多い」


 九段が見つめると、彼女がたじろいだ。


 攻め時だ。九段は直感した。


「何者かが明白な意図を持って萩本総理と水島さんを狙撃した。そう私は考えています。それならば、2人には共通点があるはずなのですが、全くその痕跡が見つからない。それを吾妻さん……。あなたの口から語ってもらえないでしょうか? 


「犬死……」


 勇気の顔がゆがんだ。視線を逸らし、眼を閉じた。


 決断に苦しんでいるのだろう。九段は待った。


 1分ほどで彼女が目を開けた。瞳に強い光があった。


「国の平和と安全を守ることと、いち個人の尊厳を守ること。どちらが大切なのでしょうか?」


 それは予想外の反撃だった。九段は気持ちを引き締めた。


「私には、二つのものが比較できるものとは思えません。どちらも大切なのです。だからその判断は感情的であって、政治的なのです」


「私が真実を語れば、水島さんは救われるのかもしれない。しかし、その時は日本の名誉が損なわれてしまう。申し訳ないが、私は自衛官なのです。水島さんも、それは理解してくれるはずです」


「日本の名誉が関わる問題というのですか……」


 九段は戸惑った。あの30分間に、そんな意味があるのだろうか?……開かない口をこじ開けるわけにはいかない。話を変えることにした。


「それでは、せめて水島さんの人となりでも教えてもらえないでしょうか?」


「そういうことなら……」


 勇気が背筋を伸ばして語り始めた。


「水島さんと一緒に働いたのは、延べにして三カ月程度という短い期間です。しかし、小さな船の中での生活です。わずかな期間でも人間性はよく見えます。……仕事のできる人は、とかくできない者を下に見てしまいます。出来ない理由がわからない。……水島さんはそうではありませんでした。特殊部隊員としての能力は、おそらく日本一ではないかと思います。その実力があっても、水島さんは尊大になることも、部下をいじめることもなかった。……口数が少なく真面目で気骨があり、思いやりのある人でした。心底他人を気遣い、部下にも優しい。しかし、自分には厳しく、何事にも率先して当っていました。……私は、水島さんが部下を育てる姿に敬服していました。……昨年、ある難しい任務が我々に与えられた……」


 そこで勇気が目を閉じた。


「何があったのです?」


 彼女は目を開けると、一点を見つめて口を開いた。


「水島さんは、部下を守るためにひとりで難しい仕事を引き受けたのです。そして私の船に乗ることになった。それが水島2佐と組んだ、たった一度の実戦です。そこで齟齬そごが生じた」


 言葉を切った彼女が唇をかんだ。


 九段は、太平洋をすべる船を想像した。難しい任務なのだ。それは真っ暗な夜の海に違いない。水島は潜水士だった。イメージは海の底に潜る。


 潜る。……潜水艦か?


 勇気の横顔に目をやった。目尻に薄らと涙が滲んでいる。その肩が小さく震えていた。……水島が覚えた苦悩は、彼女のものでもあったのだろう。その苦悩に、じわりと襲われているのを九段は感じた。


 勇気の唇が動いた。その口調は厳しいものだった。


「……完璧な作戦などありません。何らかのトラブルは付きもの。その対処で実力がわかります。水島2佐はそのトラブルを見事に乗り切った。しかし……、いざとなれば国家は個人を見捨てるものと痛感し、信用できなくなって退官した。そのメールは私がそう思って送ったものです……」


 そこで彼女は唇を結び、ふーっと長い息を吐いた。


「……しかし、水島さんが総理の参加した式典で亡くなったと知り、私は誤っていたと気づきました。水島さんは自衛隊を拒絶したのではなく、自衛隊が戦うことの意味を総理から聞きたくて式典に行ったと思うのです。……警部の話を聞いて確信しました。水島さんは私が理解していたよりも、ずっと視野の広い人でした。自分が捨てられたことを恨んだり悲しんだりしたのではなく、日本の行く末を案じ、総理と対等な地位を得るために隊を辞めたのだとわかりました」


 勇気が少しばかり緊張を解いて口元をゆるめた。


「戦う意味……、総理と対等な地位……、ですか?」


「隊にいる限り、総理は最高指揮官です。指揮官の命令に疑問を持つことは勿論、意見することも許されません」


「そう言うものですか……」


「警察の組織はどうかわかりませんが……」


「警視庁でも同じですよ」


 小島が身をひねり、口をはさんだ。


「小島……」話の流れを断つな!……九段は奥歯を嚙んだ。そんな気持ちを知ってか知らずか、小島は話し続けた。それは悪意があるように見えた。


「……でも、例外はあります。九段警部は好き勝手しています。総監の言うことも聞かないし、副総監には嫌味を言うんです」


「それは羨ましい」


 勇気が強張っていた表情を崩した。


「だからこうして、決着のついた事件まで根掘り葉掘り調べているんです」


 小島の言葉に勇気が目を細めた。


「終わっているのですか?」


 警視庁が自衛隊の内情を調査しているのではないか、と疑っているようだった。


 一度は開きかけた固い殻の中に吾妻は閉じこもろうとしている。……九段は人の背負った業というものを眼の前に突き付けられたような気がした。馬鹿野郎、と胸の内で小島に言った。


「いや、……命令違反をしているつもりはないのです。先日、水島さんの息子さんに、父親がどんな人だったか教えてほしいと頼まれましてね。私は答えられなかった。水島さんが殺害された事件を捜査しているのに、水島さんのことを何も知らないことに気づいたのです。……自分は仕事ができるつもりでいたのですが、水島さんと違って傲慢でした。被害者のいることをすっかり忘れて、加害者ばかり探していた。吾妻さんに話を伺うのは、せめて水島さんがどんな生き方をしたのか、水島さんのご家族に伝えてあげたいと思ったからです。しかし、話を聞くとそれも難しそうだ」


 九段は弁解するように言った。それもまた全て本音だった。


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