第43話 恋人の秘密
――クゥーン――
高層ビルのエレベーターが静かに上昇している。乗っているのは情報局の花村の他に恋人同士らしき男女と中年男性がひとり。
花村は階数表示を見つめ、その変化をとても遅く感じていた。最上階のレストランで樹里と待ち合わせているのだが、すでに約束の時刻から15分ほど遅れている。出がけに、上司に呼び止められたからだ。
もっと早く動け!……花村は、胸中で叫び、同時に、永遠に着かないでほしい、とも思っていた。自分でも不思議なほど緊張していて、心臓の鳴るのがわかる。彼女からプロポーズの答えをもらうからではなかった。彼女がYESといおうがNOといおうが、今日、全てが終わるからだ。
最上階に着くと、最初に恋人同士の二人が降りた。次に、中年男性の視線に促されて花村が降りた。
予約したレストランに入ると黒いスーツのウエイターに席まで案内される。窓際の席に清楚なワンピース姿の樹里の姿があった。
「遅れてごめんよ。山伏次長が行方不明になっちゃってさ」
花村は努めて普段通りの態度を装おった。
「あら、それは大変ね。デートなんてしていて大丈夫なの?」
それまで微笑んでいた灰色の瞳が不安げな表情を作った。
花村はメニューも見ずにコース料理とそれに合うワインをオーダーしてウエイターを遠ざけた。
「ごたごたしているけどね。戦争ごっこは中止されたし、次長を探すのは警察の仕事さ」
花村は極力明るく、軽い調子で語るように努めた。樹里が満足そうに微笑んだ。
「戦争にならなくて、良かったわね。あなたの活躍のおかげでしょ?」
「それよりも樹里、クリスマスの時の返事をくれないか?」
プロポーズの返事を求めた。バレンタインデー以来、2度目の催促だ。が、その目的は以前と異なっている。
「私は、女として未熟なの。仕事は楽しくなってきたし、結婚しても良い奥さんにはなれそうもない」
「結婚するためなら僕は何でもするよ。君は何をしてほしい? 君の思うことを、望みを、何でも言ってくれ」
花村は、樹里の条件を聞き出そうとしたが、彼女はその都度話をはぐらかした。そうして言葉はすれ違ったが、食事の後は階下のホテルに移動してベッドを共にした。その時、ファンデーションを塗って隠されていた彼女の腕の傷を指摘した。
「この傷はどうしたんだ?」
傷ついた肌を憐れむように撫でた。白い腕に透明な皮膚が再生を続けている。
「あなたが旅行に行かないと言うので、1人でカナダに行ったの。ちょうど総理が撃たれたころよ。スノボーをしたらゲレンデで熊のようなオジサンにぶつかられて、エッジで切ったの」
「そうだったのか。痛々しいな。それで僕と会うのを避けていたのか」
傷跡にキスをする。樹里の手が花村の髪をなでた。
「まだ少し痛むのよ。優しくしてね」
2人はキスを交わした。
「僕は毎日、毎晩、君と一緒に過ごしたいよ」
樹里の耳たぶを噛みながらささやく。
「できることなら、私もそうしたいわ」
樹里がキスで花村の唇をふさいだ。
「僕は、いつまでも待つよ」
花村は彼女の胸に顔をうずめる。
「ありがとう。あなたは素敵なナイトだわ。上司のように姿を消したりしないでね」
樹里の長い脚が花村の腰を絡めとった。
「夜景が奇麗……。満天の星空みたい」
「君の方が奇麗だよ」
花村は、彼女の瞳に映る夜景を見ながらささやく。
オルゴール調の音が鳴る。パッヘルベルのカノンだ。
「私のスマホだわ。失礼」
樹里がベッドを抜け出し、バッグを手にして洗面所に向かう。バスローブを羽織ることもなく全裸のままで……。自身の肉体に対する自信がそうさせるのか、あるいは外国人特有の態度なのか?……花村は、ドアの向こう側に消えるまで、彼女の白い背中と丸い臀部を追った。
§
電話の相手はジェームズだった。
『ジェーン、デート中か?』
「ええ、情報提供者との大切なデートなの。いきなり電話だなんて、何かあったの?」
声音に棘があった。組織が手塚を奪ったことへのわだかまりがそうさせていた。
『どうやら身元がばれたらしい。日本にいられなくなった』
「そんな話はチャイナでも聞いたわ」
『そうだったな。例のごとくダミーを出国させた。日本の治安当局を甘く見ていたようだ。警視庁にも私の素性を見破った男がいる』
「その男たちはどうするの」
ジェーンは便器に座ると水を流した。話し声が漏れるのを隠すためだ。
『自分のミスは自分で責任を取るさ。半分は手配済みだ』
身元がばれたと言いながら、ジェームズの話しぶりには余裕があった。それどころかどこか自慢しているようにさえ聞こえる。
「情報局の山伏ね。さっき行方不明だと聞いたわ。大丈夫なの?」
『ああ、今頃は太平洋だ。残りは警視庁のほうだ』
「無理な動きは危険よ」
『ジェーンに忠告されるとは、私も引退すべきかな』
ジェームズがクククと笑う。
「それで用件は何?」
『ジェーン、君はすぐに出国しろ。どうやら警視庁の男は君の存在にも気づいているらしい。横田に新しい名前とパスポートを用意しておいた』
ジェーンは立ちあがり、水を流した。
「そうなの……。分かったわ」
電話を切って洗面所のドアを開けると、ベッドにいるはずの花村が目の前にいた。
彼は身支度を整えて澄ました顔をしている。驚いたのは、彼の隣に見知らぬ中年男性がいたことだ。その男性は右手を懐に忍ばせ、ジェーンの裸体をいやらしい目つきで見ている。懐に忍ばせた手は拳銃を握っているのだろう。
ジェーンは、バッグで隠しきれない身体を隠した。プロポーズされるほど上手く騙せたと思っていたのに、窮地に追い込まれるとは、どういうことだ?……得体のしれない恐怖を覚えた。血の引いた脳が必死に情報を探す。彼らは何者だ? 中年男性はジェームズが話していた警視庁の男なのか?
「ジェーン・クワハラが本名かな? 僕は3分の1しか君のことを知らなかった。残りは王美麗。三つの名前を使い分けていたとは、恐れ入ったよ……」
花村の声が聞いたばかりのジェームズの声と重なった。どうやら全てバレているらしい。
花村が背後の男性を指す。
「……僕の上司の西郷さんだ。公安部のね」
「公安?……」警視庁公安部、……ジェームズの話が脳裏を過った。「……花村さんは情報局ではなかったの?」
紹介された西郷は、相変わらず黙っていジェーンと花村のやり取りを見ていた。口が利けないのかと思ったほどだ。
「もちろん、情報部にも籍を置いているさ」
花村が得意げに微笑んだ。
公安組織が別の公安組織に送り込んだスパイということか。……相手の素性を知るとジェーンの気持ちが落ち着いた。
「恋人の裸を上司に見せるなんて、日本の公安は悪趣味ね」
言いながら、逃げ出すすべを考える。が、まったく思いつかない。せめて、窮地にあることをジェームズに伝えられたら……。スマホに意識が向いた。
「裸でうろつくのは君の趣味だろう? 僕は紳士だったはずだ」
彼が進み出る。バッグを奪うのかと思ったが、そうではなかった。彼は手にしていたバスタオルを差し出した。それを受け取り、素早く身体に巻いた。
「私が名前を偽っている? 証拠でもあるの?」
対策を考える時間がほしくて訊いた。
「電波を拾わせてもらったよ。それで全てわかった。君を出国させるわけにはいかない。山伏次長の件も訊かなければならないしね」
花村がポケットから小さな装置を取り出して見せた。ボタンを押すと、ジェーンとジェームズの交わしたやり取りが鮮明に再生された。装置は電話の電波を盗聴する受信器だった。
なんてこと!……ジェーンは驚いた。日本の諜報組織が捜査令状なしに電話の盗聴までするとは、想像もしていなかった。
彼は、ジェーンが驚いたのに満足したようだ。装置をポケットに戻した。
「まさかジェームズと君が同じ組織の人間だとは思わなかった。おまけに出国したと思っていたジェームズが国内にいる。……でも、樹里が警察に捕まらなくてよかった。一之瀬、友永、三沢、天下、手塚……。自殺や事故死に見えたが、君の仕業だろう? 警察の手に落ちたら、死刑は確実だ」
「公安だって警察でしょ?」
「少し違うんだ。僕たちは、普通の警察より大所高所から事件を見ている」
ジェーンはジェームズから聞いた話を思い出した。日本の公安部は所属する警視庁や県警本部ではなく、警察庁の直接指示を受けて動いているというものだった。
「私のこと、いつ、気づいたの?」
「君が僕のプロポーズを受けてくれなかったからさ。ロマンチックなクリスマスの夜だったが……。あれから調査して、君が海外の組織と何らかの関係があるとわかったのはバレンタインデーの後だった」
「私を泳がせていたのね」
「最初は中国か東亜の人間だと思った。でも、どこの国でもよかったんだ。戦争を止めてくれるなら、東亜でもアメリカでもね。総理を暗殺されたのは想定外だけれど、代わりはいる。自衛隊が戦争をせずに済んだのは君たちのお蔭だ。感謝するよ」
よくしゃべる男だ。ならばもっと彼らがつかんだ情報を聞き出そうと思った。
「あなたが情報を洩らしたからよ。それもわざとだったのかしら?……私も、まんまと利用されたわけね」
ジェーンは、言葉を交わしながらバッグの中に手を忍び込ませた。逃げるのが無理なら、せめて不利な証拠を消そうと思った。証拠がなければ、日本の公安組織は何もできないはずだ。……小さな機械を探り当てると、アンテナが花村に向くようにしてボタンを押した。それでアンテナの先5メートル内の半導体は壊れ、メモリーの音声ファイルも消えて無くなってしまう。自分のスマホも壊れるが、仲間の連絡先も消えるのでそうすべきだった。
彼女の動きに気づいた花村が、ニヤッと笑った。バッグに忍ばせた手を握ると、腕をひねり上げるように強く引いた。
「ジェーン、君は往生際が悪いようだ。ここでは電子機器は役に立たない」
彼は、ジェーンの手の中から小さな装置を取り上げた。
「この機械で、友永の車や三沢の生命維持装置を故障させたのか?」
生命維持装置を壊した方法は彼の言う通りだが、友永の車を故障させたのはバイエル酸だ。全てを知られているわけではないとわかると心に余裕が生まれる。
「もう手遅れよ。すべて消えたわ。何の証拠もない」
「日本の技術を
花村がポケットからスマホに似た機械を取り出して見せた。
「これはスマホじゃない。周囲の電波や電磁波を無力化できる装置だ。君のと違って壊すわけじゃない。信じられないなら自分のスマホを見てみるといい。君が壊したはずの機械が生きているはずだ」
ジェーンは言われた通りにスマホを取り出してみた。電源が落ちているように見えたが、すぐに画面が浮かんだ。電波状況が〝圏外〟を示している。それだけなら、ジェーンの装置でスマホが壊れたのかもしれなかった。
「いいかい」
花村が手にした機械のスイッチを切る。すると、〝圏外〟の表示が消えてアンテナが立った。
「君は人を殺した。今のままでは死刑だ。僕は君を助けたい。そのために僕の味方になってくれ。悪いようにはしない」
花村は、ジェーンに日本のスパイになれと言っていた。その申し出に驚いていると、彼が肩を抱き寄せてキスしようとした。
ジェーンは拒み、強い力で押し返した。そして、気持ちが決まった。
「止めて。みっともないわ」
「それは残念だ。君が考えを改めてくれると思ったのだが」
花村が冷笑する。ジェーンに愛されなかった自分を笑っているのに違いない。ジェーンはそう思った。
「警察でもどこでも、好きなところに突き出してちょうだい」
花村が振り返った。後ろの西郷が、諦めろ、というように首を横に振った。
「警察もいいが、その前に着替えてくれ。あとはママ次第だ」
「ママ? 母国ということね」
何らかの取引の材料にするのだろう。……あれこれ考えながらベッドルームに戻った。着替えながら窓の外に広がる夜景に眼をやり、〝ミルキーウェイ〟に思いをはせた。手塚が死んだ今、理性はどうなってもいいと開き直っている。一方で、本能は生きたいと主張した。
鏡の前に座ると、生気のない花村の顔があった。振られて落ち込んだとでもいうのだろうか。その顔に同情は覚えない。西郷は、彼と少し離れたところ、ダブルベッドの向こう側にいた。
膝にのせたバッグから化粧ポーチを取り出すとき、底にあった手塚の遺品に触れた。アーミーナイフだ。
手塚は私を恨んで花村を差し向けたのだろうか? それとも助けようとしているのだろうか?……彼があの世で呼んでいるような気がした。
「どうした?」
花村が、手塚を懐かしむジェーンを怪しんだ。
「化粧ポーチからルージュが落ちて……」
ルージュを取り出し、口紅を引きながら2人の公安部員の位置関係を再確認した。
ルージュをポーチに戻し、バッグの底のアーミーナイフを握った。一通りの訓練は受けているが、男性2人を相手に勝てる自信はなかった。
緊張で喉が鳴る。
ベッドを共にしたばかりだから、花村が銃を所持していないことはわかっている。最初の目標は、西郷だ。そう判断するのと身体が動くのが同時だった。
彼女の手を離れた銀色の
「ナニッ……」花村が目を丸くした。
ジェーンはベッドの上で回転し、倒れた西郷の懐に飛び込む。バスタオルがはだけてはずれた。花村が背後に迫っていた。
アーミーナイフを抜き取ったジェーンは、振り向きざまに横一線、花村の喉元めがけて刃を走らせた。ぱっくり開いた傷口から飛んだ鮮血が小さな銀河を創った。
銀河で生まれた星々が宙に広がっていく。彗星が流れ、ジェーンの真っ白な胸に赤い軌跡を描いた。
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