第45話 水島2佐を語る者 ⅱ

 潜水艦〝かいりゅう〟艦長の吾妻勇気を迎えても、小島は自由だった。


「こんな勝手をするから、九段警部は、もう出世は望めません。警部止まりですね」


 九段の捜査は、終了したものをほじくり返しているのだ、と茶化すように言って笑った。彼の聴取の足を引っ張る形になっているのだが、そのことに本人が気づいていない。悪意はないとわかるから、九段は不満をこらえて応じる。


「うるさい。……こいつはキャリアでね。偉くなったら私を田舎に飛ばすというのです」


 仕方なく話をあわせてやると、勇気の瞳が優しい光を帯びた。


「田舎暮らしも悪くはありませんよ。小さな艦船は田舎も同じです。海が荒れれば棺桶も同じですが……。そんな場所だからこそ仲間との絆は深まります。その棺桶で、私は絶望の淵にいたことがあります。その時に助けてくれたのも水島さんでした」


 勇気が遠い目をした。


 その先に何があるのか?……九段は広い太平洋の夜を想像した。もちろんそれは、あの30分に通じている。話の軌道を修正できそうだ。


「絶望の淵というと、太平洋のど真ん中あたりですか?」


「いいえ。高知沖です」


「高知……」


 それがあまりにも近いので驚いた。


「……しかし、小さな組織にいると仲間と同じに考えることに慣れて、いや、むしろ積極的に認識を合わせることに頑張りすぎて、思考が麻痺してしまうようです。隊を辞めて自分の頭で考えよう。水島さんは、そう考えたのでしょう。私にはできないことです」


「出来ないと諦めたら、そこで終わってしまう。みんなが自分の頭で考えなければ、平和は守れないのではないですか? 水島さんが息子さんに言ったそうです。目先のことにとらわれず、遠くを見ないと間違った場所に出てしまうと」


 九段が言うと彼女は小首を傾げて考える仕草をした。


「もっともです。武力で創る平和には限界があります。私も警部や水島さんを見習いましょう」


 2人がしんみりしたところで、バックミラー越しに吾妻を窺っていた小島が口を開いた。


「吾妻さん、せたんじゃないですか?」


「突然、なんだ。失礼だぞ」


「いえ、かまいません。少し病気をしていたもので」


 勇気が短い髪を掻き上げる。九段が、ぞくりとするような色気があった。


「それで顔色も悪いんですね」


 小島にはどこまでも遠慮がない。


 九段に閃くものがあった。確証を得るために尋ねる。


「先日、呉基地を訪ねた時には、長い航海に出ていると聞きましたが、日焼けしないものですか?」


「船の中で、養生していました」


 冗談のような話をする勇気の顔は、いたって真面目だった。


「東亜連邦では新型インフルエンザが流行っているみたいですから、気を付けてくださいね」


 小島の言葉で勇気の表情が人形のように凍った。その美しい顔が九段の脳を焼く。


「お気遣い、ありがとうございます。聞くところによると、水島さんは退官後に離婚されたそうですが……」


「はい。奥さんは実家にいました。まるで見捨てられたみたいに、おひとりで寂しそうでした」


 小島が言った。


「水島さんは、ご家族を見捨てたりしなかったと思います。水島2佐は私たちも見捨てなかった。私と私の多くの部下にとっても、命の恩人なのです。それなのに、我が国の全ての罪を背負って亡くなられた」


 勇気の瞳が涙で光っていた。確信に近づいたのだ、と九段は察した。続きを期待し、彼女の頬が乾くのを待った。


 国道1号線を走った車が品川駅に近づくと、愛国スピーチと名乗るデモ隊が見えた。もう、時間がない。九段は、率直に尋ねることにした。


「我が国の全ての罪とは、どういうことでしょう?」


 しかし、その質問に吾妻は応じなかった。代わりに愛国デモの群衆を眼で指した。


「あれが東京名物の愛国スピーチですか?」


「ええ、愛国スピーチなどと耳触りよく言い換えてますが、結局のところ愛国デモです。彼らが考えるグループなのか、思考停止したグループなのか……。私には分かりませんが、見ていて気持ちのいいものではない」


「困ったものですね」


 車は路肩に停まり、愛国デモの醜い叫びが車の中に押し入って来る。


「とはいえ、意見が違うと言うだけで排除も出来ない。彼らにも表現の自由と権利がある」


「彼らが、自分たちと異なる存在や考えを容認してくれると良いですね」


 勇気はそう言うと車を降り、九段と小島に向かって頭を下げた。


「時間切れですか……」


 正直に言った。


「申し訳ありません」


 彼女が背を向ける。


「一つ忘れていました。水島さんが今年、中途半端な時期に2佐に昇進したのはなぜでしょう? 息子さんが知りたがっていました」


 水島の息子のためだろう。声をかけると、彼女は振り返った。その眼差しは暗く沈んでいた。


「それは出港直前のことでした。その昇進が、難題に当たる水島さんに、国家が提供した唯一のインセンティブであり報酬でした」


 勇気は改めて深々と頭を下げ、それから駅ビルに向かって歩いた。九段は、彼女の魂が愛国スピーチで傷つかないことを祈りながら見送った。


 彼女の姿が群衆の中に呑まれてから、九段も騒音から逃れるように車に潜り込んで耳をふさいだ。


「難しい話でしたね」


 小島が独り言のように言った。


「ああ。戦争は我々のすぐ近くにあったらしい。水島さんが息子に言った間違った場所とは、戦場ではなかっただろうか?」


「自衛隊が……、吾妻さんや水島さんが戦争をしていたと言うのですか?」


「まさか日本がそんなことをするはずがないよな」


 九段はとても心細くて小島を見つめた。今は、彼女のような半人前でも、そこにいることが嬉しかった。


「そうですよ。新聞でもテレビでも、日本が戦争をしたなんて報じていません」


 小島が力強く言った。


「どうしてそう言い切れる。報道が必ずしも真実を報じないことを、総理暗殺事件の記者会見で見せつけられただろう?」


 勇気や水島が戦争に係ったのかどうか知るすべはない。そうとわかっていながら、今は、偽りの真実の上であろうと、しっかりと両足を突っ張って立っていなければいけないと思った。そうしなければ深い闇の淵に転げ落ちてしまいそうな気がする。小島が、もう一度強く否定してくれることを願った。


「だって日本ですよ。憲法だって戦争をしないと謳っています」


 その単純な回答が嬉しく、同時に不安でもあった。


「俺は刑事だ。沢山の犯罪に出会い、犯罪者や犯罪組織を見てきた。多くの被害者もだ。組織の犯罪は善良無辜ぜんりょうむこなものの上にあぐらをかくものだ」


「どういうことですか? 私にはわかりません……」


 小島が突き放すように言って黙った。彼女なりに、偽りの真実の実態に気づいているのだろう。……九段は彼女と同じように口を閉じた。


 ――日本を愛せ――


 ――日の丸を掲げよ――


 愛国スピーチが車内にあふれて溺れそうだ。


「水島さんと総理の共通点がやっとわかったよ」


 九段は小島に説明するのではなく、自分が納得するために言葉にしていた。


「何ですか?」


「2人とも自衛官だったということだ。総理は最高指揮官。水島さんは現場の兵隊だった」


「それはわかっていたことです。2人の地位は天と地ほど違うし、会ったこともないはずだ、と水島さんの奥さんが言っていました」


「そうだ。だから水島さんは自衛官を辞めたのだ、と吾妻さんが言った。表面だけを見ていた俺の理解が浅かったんだ」


「水島さんには、共通点を捨てることが重要だったということですか?」


「水島さんは、自分が戦ったことの意味を知りたくて、自衛隊を辞めて総理と会える場所に行った。狙撃されたのは、その口から戦闘があった事実が漏れることを恐れたからだろう。だが、その証拠を隠すというだけなら自衛隊がやるはずだ。ジェームズがやる必要はなかった」


「もしかしたら……」小島の瞳が輝いた。「……情報部のあの官僚の失踪と何か関係があるのでしょうか?」


 小島が山伏の捜索願のことを言っていた。その後、花村の捜索願も出ており、九段は事件だと考えている。その証拠に、公安部が2人の捜索に当たっているという噂が九段の耳にも届いていた。


「それは狙撃事件の結果だろう。たとえ官僚のような頭のいい者でさえミスを犯す。世の中は計算できるほど単純ではないからなぁ。お前も気をつけろよ」


「私は大丈夫です」


「それがいけない。人間は過ちを犯す生き物だ。馬鹿も利口もない。その過ちの隙をついてくる悪があるのだ。……水島という男、全ての罪を背負ったとは、キリストか……。しかし、女房に捨てられてはキリストも可哀そうだ」


「罪って、戦争をしたということでしょうか?」


「そうかもなぁ」


 インフルエンザの話を聞いた時の吾妻勇気の凍った表情が九段の脳裏を過った。


「吾妻さんは、水島さんのほうが家族から離れたと思っていたようですね」


「どっちが良かったんだろうな……」


「どっちでも同じです。別れるべきではなかったと思います」


 小島が愛国デモに眼をやった。そこには平和な現実がある。他人の気持を傷つけても自分は安全だという誤った現実だ。


 具体的なことは何もわからない。ただ九段には、国家のエゴに振り回された水島の苦悩が想像できた。……彼は夜の太平洋で何を経験し、何を考えたのだろう。神社仏閣を巡り祈ったのは家族のことではないだろう。もちろん国家や総理のことでもない。おそらく〝突撃〟した相手のことに違いない。……胸の底から湧き上がる憤りと恐怖、虚しさがあった。それが嗚咽に変わった。


 小島が驚いて九段に目をやった。それから通り過ぎるデモ行進を眺めて時を待った。九段の涙が乾く時を……。


「あ!」


 小島が小さな叫び声を上げた。それが九段を現実に引き戻した。


「……どうした?」


「空です」


「空?」


 九段は目尻をこすりながらどんよりと曇った空を見上げた。


「違いますよ。愛国スピーチの行列の中に、田中空さんがいるんです」


 小島の指す方に、新宿のハンバーガーショップで話した背の高い青年が拳を振り上げながら歩く姿がある。


「私、止めてきます」


「止めておけ」


 車を降りようとする小島を制した。


「どうしてです? あんなことをしたら、亡くなった水島さんが悲しみますよ」


「言ってもわからないさ。小島だって、去年は彼らの気持ちがわかると言っていたじゃないか。ああいうのは理屈じゃないんだ。放っておいても時期がくれば自分の頭で考えるようになり、やっとわかるものだ」


「私のことは忘れてください。でも、本当に大丈夫なんですか?」


「そうならなかったら、それはそれであいつの限界なのだ」


「そんなものですか……」


「それよりも、俺たちには考えなければならないことがある」


 2人は、多くの若者に交じり、黒い瞳を輝かせた田中空が通り過ぎるのを見送った。


「水島氏の死にまつわる真相……」小島がつぶやいた。「……それって、とても大きな事件の入り口のような気がするのですが、眠れる獅子としては、これからどうします?」


 九段を見る小島の瞳は真っ直ぐだった。


「どうしたものかな。キャリアの警部補殿はどうすべきだと思う?」


「キャリアを潰すことはしたくありませんね。優雅な老後が楽しみで、勉強を頑張って来たんですから。……それに憲法違反の摘発は捜査一課の仕事じゃないような気がします」


爺臭じじくさいことを言うのだな。そんなふうに、多くの人間がわずらわしいものを避け、世の中を腐らせてきたのだ」


「私はジジイではなく、乙女です」


 小島が小首をかしげ、かわい子ぶって見せていた。


「そっちじゃないだろう……」一応、突っ込みを入れた。「……国家犯罪を暴く理由が公務員の俺たちにあるのか? 俺たちは、その内側でヌクヌクとしているのに、だ」


「暴いたら、ヒーローになれるかもしれませんよ」


「俺はそんなものに興味はないよ」


「でも真実は知りたい。でしょ?」


「ああ、子供なのだ。隠されると知りたくなる。しかしなぁ、その真実を暴くことは寿命を縮めることと同じだと、刑事の勘が言うんだ」


「捜査はいつも命がけですよ」


 以前、九段が話したことを彼女が言った。


「なんだ。刑事みたいなことを言うのだなぁ」


「何かあったら、私が骨を拾って上げますよ」


 上司のような口をきく小島を九段は笑った。


「ハンバーガーを食べに行きましょう。今日は私が奢ります」


「あとから無理やり奢らされたと、パワハラで訴えるんじゃないだろうな?」


「そんなに心配なら、警部の奢りです」


 小島はナビシステムのスイッチを入れ、霞ヶ関のハンバーガーショップに向かえと命じた。

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