第41話 悩める青年

 黄昏たそがれ時、珍しく都内のビル群がオレンジ色に染まった。


「間もなく金色に変わるなぁ」


 窓辺に立った九段が夕焼けに時の流れを重ねて似合わない感傷に浸っていると、田中空たなかそらと名乗る男性から電話があった。声は太いが、おどおどした話し方は子供を思わせた。


「田中ソラさん? お会いしたことがあったかなぁ?」


 思い当たる人物はいない。九段は首を傾げた。


『田中加奈子と水島主水の息子です。先日、九段警部が母のもとを訪ねられたと聞いたので……』


 彼が会って話したいというので、翌日、新宿のハンバーガーショップで会う約束をした。


 翌日、ハンバーガーショップの前……。通行人は小島をちらりと見るが、眼は合わせない。そそくさと通り過ぎてから、クスクス笑った。


「なんで私がこんな恰好をしなきゃいけないんですか?」


 ピンク色の看護師の制服姿の小島が、日の丸の小旗を振りながら抗議した。看護師の制服は摘発てきはつしたソープランドから押収したものだ。


「相手は大学に合格して田舎から上京したばかりの青年だ。人間の多い東京では、ちゃんとした目印がないと惑うだろう」


「ちゃんとしたって……。全然ちゃんとしていませんよ。目印にするとしても、制服か日の丸の片方で用は足りたと思いますけど」


 小島が、ぷーと頬を膨らませた。


「愛国デモの連中とかち合ったら国旗は役に立たない、制服のままハンバーガーを食べにくる看護師だって沢山いる。だが、国旗を持ってうろうろする看護師はいないはずだ。確実に小島だと特定できる」


「それなら警察官の制服でもよかったじゃないですか?」


「警察官が日の丸を振っていたら、日本は右傾化したと外国人観光客にあらぬ誤解を与えるだろう。第一、俺はナースの制服の方が好きだ」


「結局、警部の趣味ですよね。でも、これって絶対にアブナイ女ですよ。恐れをなして青年が逃げる可能性を考慮しなかったんですか?」


 小島の抗議は執拗だが、九段は平気だった。むしろ楽しくて仕方がない。これって、パワハラか?……そんな気もしたが、もう手遅れだった。


「……それはない。妖しい色気に青年は魅かれるものだ」


「絶対、私を使って遊んでいますよね?」


 彼女の抗議に九段は耳を貸さなかった。


 小島の心配は杞憂きゆうだった。彼は真っ直ぐ小島に向かってきた。


「こんにちは」


 彼女の前に表れた背の高い青年の顔には、水島三吾の面影があった。


 簡単な挨拶を済ませ、九段と田中は席に着いた。小島はタッチパネルでオーダーを入れ、商品受け取りの列に並んだ。座った田中の視線が小島の背中を追っている。


「空さんとは、珍しい名前ですね」


 九段が話しかけると、田中は恥ずかしそうに少し背中を丸めた。


「父は海にばかり潜っていたので、僕には別な夢を託したのだと思います」


「そうですかぁ。お父さんは、お子さんが空を舞う姿を見ていたのですなぁ」


「どうなのでしょう。妹にはうみという名前を付けたので、僕に空の夢を見たのを後悔したのかもしれません」


 青年はそう言うと苦笑いを浮かべた。


 礼儀正しく誠実な態度に、父親の水島三吾もこんな人物だったのだろう、と感慨深いものを覚えた。


「事件の顛末てんまつはご存知ですね?」


「副総理の会見にあった通り、やはり流れ弾に当たって死んだのでしょうか? 母は九段警部から別の可能性を聞いたというものですから……」


「私の推理は的外れだったようです……」


 事件は副総理の発表した通りだ、と九段は話した。自分の推理を言って、いたずらに青年を混乱させたくなかった。


「そうですか。……父のことを教えていただけないでしょうか?」


 青年が意外なことを言った。


「水島さんのことを? それなら私よりも、あなたの方がよくご存じのはずだ。18年間、一緒に暮らしてきたのですから」


「それが、わからないのです。父は寡黙でしたから言葉を交わすことも少なくて。……どうして、あんなに誇りを持っていた自衛隊を辞めたのか?……東北まで行って死ななければならなかったのか?……全く見当がつかないのです。……父が退職した後、僕は何も知らずに怒り、父を無責任だと責めました。直接話したわけではありません。僕は、母にばかり怒りをぶつけていましたから。……結局、父が彷徨している間に家族と家を出たのですが、せめて戻って来るのを待って、しっかり話をするべきだったと、今は後悔しています」


 九段は、青年の心の傷の痛みをヒシヒシと感じた。苦悩は青年の成長に有益なことだが、勝ちすぎる荷は人をダメにしてしまうことがある。出来ることなら、青年の助けになりたいと思った。


「家を出たのは、お母さまの判断でしょう。君が悔やむことはないと思います」


「母に離婚を勧めたのは僕なのです」


「あ、なるほど……」


 慰めるつもりが裏目に出た。


 さて、どう話したものだろう?……考えていると、トレーにハンバーガーを山積みにした小島が相好を崩してやって来た。


「お待たせぇ。プリンもコーヒーゼリーもありますよ。フライドポテトは、1人2個ずつです。おかわりも自由ですからね」


 無邪気に説明する小島に、九段は救われた。代金は九段が払うのだが、そのことは忘れようと思った。


「こいつ、色気より食い気で困ります」


「なんですか、警部。さっきは色気で惹き寄せるんだって、私にこんなミニの制服を着せておいて」


 小島が口を尖らせたまま席に着き、いきなりハンバーガーを口に運んだ。青年がクスッと笑った。


「水島さん、……いや、お父さんは、いつごろから雰囲気が変わったのですか?」


 九段は方針を変えた。水島三吾を語る情報がないので、青年にそれを話させることにした。人は教えられることよりも、教えることでより多くを学ぶものだ。


「雰囲気が変わったのは2月、航海から帰ってからのことです。……1月なかばから出張だと言って父は出かけました。訓練でもなんでも、家を空ける時には出張だと言っていました。中東に半年行った時も出張でした。……さすがに中東に行くときには行先を言いましたが、それ以外は行先を聞いた記憶がありません。……極端に雰囲気が変わったのは2月で、その時は僕も受験で、異変に気づいても何があったのか訊きませんでした。……あ、クリスマスの頃にもひと月以上の出張に出ました。今思えば、そのころから父の雰囲気が変わりはじめた気がします」


「どんなふうに?」


 小島が訊いた。


「ピリピリと話しかけにくい雰囲気でした。何も言わない父でしたが、意外とわかりやすい性格で、何かいいことがあるとにこにこしていました。……笑うわけじゃないんです。ただ、頬の筋肉が緩んでいる程度なんですが、何となくわかるんです。いいことがあったんだなぁとか、嫌なことがあったんだなぁとか……。中学生の頃、部下が訓練中に事故をおこしたことがあって、その時はひと月も怖い顔をしていました」


「なるほど。さっきは、お父さんのことを何もわからないと言いましたが、良く知っているじゃないですか。やはり家族だったのですよ」


 九段は、彼が父親のことを理解していたのでホッとした。


「そうでしょうか? 出張に出かける時、父は3佐でした。それなのに、報道では元2佐と報じられていました。僕ら家族は、父が昇進していることを知らなかったのです。制服の階級章だって3佐のままで、2佐のものを見た記憶がありません。昇進時機は1月1日ですから、その時に昇進していたら、母にも報告したと思うのです。正月は僕も一緒に過ごしましたから、頬が緩んで昇進に気づいたと思うのです」


 田中は訴えるように話した。


「確かにそれは妙ですね。警部」


 小島が犯人を発見した警察犬のような眼をしていた。


「昇進しても喜べない事情があったのだろうなぁ」


 九段は想像できなかった。昇進して嬉しくない男がいるだろうか?


「2月に帰ってきた水島さんは、突撃と叫んで目覚めることがあったそうですが、空さんもそれは?」


「ええ、何度か聞きました。最初はふざけていると思っていたのですが、父が何も説明しないので病気だと思うようになりました。何故そんなになってしまったのか……」


 青年が声を詰まらせた。


「結局、水島さんはあなたにも説明しないで旅に出たのですね?」


「ええ。一度だけ携帯に電話がありました。僕が2次試験の準備をしていたときです。奈良を歩いていたそうで、少しだけ声は明るくなっていたような気がします。その時、家族は広島の家を出て京都に越していたのですが、それは伝えませんでした」


 そう言うと顔を伏せた。


「お父さんの電話は、どんな内容でした?」


「コツコツと正しいことを積み重ねていても、眼の前ばかりを見ていると、いつのまにか間違った場所に出てしまうことがある。だから、目先のことにとらわれず、ずっと先を見て進め。そう言われました」


「間違った場所……。その場所に、何か心当たりはありますか?」


 小島が訊いた。


「いいえ、具体的には何も……。僕には父がどこに行って、どこで働いて、どんな風景を見ていたのか全くわからないし、何を感じ、何を考えていたのか、そんなことも理解出来ないのです」


 その声は、今にも泣きだしそうに聞こえた。


「私にも子供がいますが、家族には仕事のことを話しません。仕事以外のことも、訊かれない限り話しません。自分のことを知ってもらおうとは思っていないからねぇ。……空さんがお父さんのことを理解できなくてもいいと思いますよ。間違った場所がどこなのかわかりませんが、大きな視野で物事をとらえろということなのでしょう。ベタな解釈ですが……。親父はそんなに気の利いたことなど言えないものです」


 九段の話を、田中は黙って聞いていた。


「溶けちゃった」


 小島がチョコレートシェークをかき回しながら、素っ頓狂な声をあげた。


 田中は小島の横顔にチラリと視線を走らせてから、自分のバナナシェークのカップに付いた水滴を手のひらで拭いた。


「父のたどり着いた場所が、自衛隊ではないかと思うと苦しいのです」


「自衛隊ですか……」


 田中の言葉は意外なものだった。もし、彼の言う通りなら、水島は相当に苦しんだろうと思う。……それに引き換え自分は、目の前に警視庁の犯罪があり、そこが間違った場所になったと知りながら見てみぬふりを決め込もうとしている。胸が痛んだ。


「人を殺す仕事ですから……」


「お父さんが人を殺したと?」


 それは、青年が受け止めるには、あまりに重い真実だと思った。


「父がそうしたのかどうか、分かりません。でも、1月からの出張で誰かが死んだのではないかと思うのです。だから奈良や京都を巡っていたのではないでしょうか?」


「なるほど……、どなたかが訓練で亡くなったのかもしれませんね」


 九段は、感情を隠してさらりと言った。青年の心に重荷を背負わせたくなかったからだが、それだけでもない。九段は自分の言葉を信じていなかった。


「父が、いつどこで、何をしているのかと知っていたら、もっと父のために出来ることがあったと思うのです」


 青年の作った拳が震えていた。


「それは父親としてありがたいが、違うと思うなぁ……」


 青年が顔をあげた。


「……父親は子供を育てる責任があるが、それは動物としての本能であり社会人としての義務です。しかし、子供が親に対して持つ責任はそういうものではないでしょう。子供は精一杯生きて大人になって、子供ができたら自分の子供に同じことをすればいい。それが命を繋ぐということです。……父親のことは、今は理解できなくていい。ただ、理解できる時が来るまで、記憶に留めておけばいいのです。何れわかる時が来ます。私も、親父の考えがわかるようになったのは、親父が死んでからでした」


 九段の話を、田中が納得したようには見えなかった。ただ、表情が少しだけ明るくなった。


「お話ができて、良かったです」


 それは田中の素直な気持ちだったろう。


 九段と小島は新宿駅で田中と別れ、電車に乗って市ヶ谷で降りた。富士見坂を上って靖国神社方面に歩く。スーツ姿の九段とナース姿の小島の組み合わせは、若年性痴呆の男とそれを見守る看護師といった風だ。


「結局、何もわかりませんでしたね」


「そんなことはない。水島さんが俺と同じような普通の父親だったとわかった。それに1月から2月にかけた出張で人が変わったというのもわかった」


「それは京都で奥さんに聞きましたよ」


「何故、水島さんは2月に昇進していたのか? 何故、それを喜ばなかったのか?」


「それは教えられませんでしたね。1月の作戦中に死亡事故が起きたというのは関係ないでしょうね」


「それは可能性にすぎない。あったとしても、前の事故では、ふさぎ込んだだけで隊は辞めなかった。2月に辞めたのはもっと大きな事件があったと考えるべきだろう」


「昇進が2月だったのは、事故隠しの対価ということはありませんか? 飛躍していますかねぇ」


「いや。面白い視点だ」


「でも、事件は解決済み扱いです」


「もっともだ。しかし、事故隠しがあれば、それは新しい事件だ」


 そこに首を突っ込むかどうか、九段は決めかねていた。事件が広島で起きても公海上で起きても、九段の担当区域外だ。


「そういえば、警部のお父さんは、去年、喜寿のお祝いだと言って休んだと思いますが、いつ、亡くなったのですか?……私、気付かなくて……。すみません」


 小島が頭を下げた。


「親父なら、ぴんぴんしているよ。最近はキャバクラに行くのが楽しみらしい。俺には、親父の気持ちがわからないよ」


「やっぱり嘘だったんですね」


「嘘も方便というだろう」


「地獄に落ちたら、閻魔様に舌をぬかれますよ」


「俺は、天国に行くさ」


「また、嘘ばっかり」


 2人は靖国神社の鳥居の前を通り過ぎた。


 その日のうちに防衛省を訪ねて1月と2月の事故や依願退職者を調べたが、水島を除けば、不審な退職者や行方不明者、入院患者はいなかった。


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