第38話 捜査 ⅴ

 九段と小島は、亡き水島三吾の妻のもとを訪ねた。


『どちらさま?』


 インターフォンから上品な声がすると、小島は九段にグイっと腕をひかれた。彼の目が、お前が話せ、と言っている。


「突然、失礼します。別れたご主人のことで警視庁から来ました……」


 用件を伝えると、田中加奈子たなかかなこがドアを開けてくれた。


 2人は客間に通された。事件前に離婚していたとはいえ、水島を亡くした加奈子の表情は暗かった。総理暗殺事件に関する報道は、毎日のようにテレビに取り上げられている。最近は日明研の活動や天下会長の経歴や人柄に関わることが中心で、もっぱら狙撃の動機を推測するものだったが、事件を説明する中で、水島の名前もしばしば出るから、親族にとっては辛いことだろうと思った。


 九段が、水島は流れ弾にあたって亡くなったという捜査本部の見解を伝えたうえで、彼の推理を話した。元々水島の命も狙われていたのではないか、という推理だ。そして離婚前の水島に変わったことがなかったか、と訊いた。


 加奈子が、九段の説明に少々驚きを見せてから、重い口を開いた。


「あの人が任務から帰ったのは2月の18日でした。その時、様子がすっかり変わっていました。飲まなかった酒を飲むようになり、夜はうなされるようになりました……」


 彼女は記憶をまさぐるようにしながら言葉をつないだ。


「……でも、その任務中に何があったのか、私は知りません。何も話してくれませんでしたから」


「宗教に凝り出したとか、政治団体に関わったということはありませんか?」


 九段の質問に、彼女は首を横に振った。


「日明研というのですね、あの人を撃ったのは……。聞いたこともない団体です」


「萩本総理と水島さんが知り合いだったということはないでしょうか?」


「いいえ。会ったこともないと思います」


 加奈子は即答した。


「ジェームズ・坂東とか、王美麗といった名前を聞いたことはありませんか?」


「いいえ。一度もありません」


 九段が唇を結んだ。推理していたことが、ことごとく外れているようだった。もじゃもじゃの髪をガリガリ搔いた。思考が迷路に迷い込んだのだろう。


 警部の思い過ごしだったのよ。……加奈子の手前、小島は笑いをこらえ、彼の代わりに口を開いた。


「事件直前に離婚された理由は何だったのでしょう。差し支えなかったら教えていただけますか?」


 九段に聞けと言われたので質問したが、離婚は事件と無関係だと思っている


「それは……」


 彼女が一瞬、躊躇した。プライベートなのだから当然だ、と思う。そのまま拒むかと思いきや、彼女は決意したように話し始めた。


「……航海から帰ると主人は頭を丸めました。そして相談もなしに隊を辞めてしまったのです。それが離婚の理由です」


「どうして自衛隊を辞めたのか、聞かれなかったのですか?」


「聞きましたとも。でも、教えてはもらえませんでした。普段から仕事のことは話さない人でしたが……。あの時は、普段と違っていました。何かがあったことぐらい、私にもわかりました。自分の気持ぐらい教えてくれたらよかったのに……」


 彼女が涙ぐんだ。


 もう無理だ。……小島は諦めて九段に目を向けた。すると彼は、続きを訊けと目で言ってくる。


「……普段と違うといいますと?」


 仕方がなく尋ねた。


「……眠ると、うなされるようになりました。そして、突撃、と叫んで目を覚ますのです。汗をびっしょりかいて……。心が病んだのだと思いました。それを私は助けてあげることが出来なかった……。助けるどころが、捨ててしまったのです」


 彼女がティッシュを取って目頭に当てた。


「突撃、ですか……」


 夫婦の不思議な体験を、小島は想像することが出来なかった。


「水島さんは、どんな部署におられたのですか? 乗っていた船とか、わかりますか?」


 九段が訊いた。


「主人は特殊部隊におりましたので……。乗る船は、都度都度、違っていたと思います」


「特殊部隊といいますと」


「潜水士でした」


「なるほど。それなら隊を辞めても、潜水士として食べていくことが十分に出来ますね」


「それが、……新しい職に着こうとはしませんでした。ぶらりと旅に出てしまって……、神社仏閣に参拝して回っていたようです。主人が逝ってから聞いたことです。比叡山に私の親戚がいて、主人が汚れた格好で参拝する姿を見かけたそうです」


 そこまで聞けば、1月から2月にかけての任務が水島の精神を痛め、人格を変えたということが小島にもわかった。どうやら彼の周辺を調べる必要がありそうだ。


「隊での親しい同僚とか、上司のような方を紹介いただけないでしょうか?」


 九段が言った。


「さあ……。主人は人付き合いが下手でした。特殊部隊ということを意識してか、意図的に他人との交際を避けていましたし……。部下を家に連れてくるようなこともありませんでした」


「年賀状などは?」


「離婚した際に、主人のものは向こうにおいてきてしまいましたので……」


 加奈子の話を聞いていると、迷路を彷徨する感覚があった。質問を重ねても得るものはないだろう。家宅捜査の結果、広島の水島の住まいにはこれといった手掛かりはないはずだけど、……記憶の糸を探った。


 九段も行き詰ったようで口を閉じた。やむなく、突然押しかけた非礼をわびて席を立った。


 古い門扉を閉めたところで、小島たちは行先に困り立ち止まる。


「警部、どうします。呉の基地にでも押しかけてみますか? それとも、広島県警で水島さんの押収物をひっくり返します?」


「呉には行ってみる価値はあるが、特殊部隊の任務中の出来事など教えてくれないだろうなぁ。広島県警で押収物を見せろと言ったら、警視庁に問い合わせられるかもしれない。無断でこっちに来たことを知られたら、小島の経歴に傷がつくだろう」


「それもそうですね。県警は止めておきましょう」


 その時、背後で玄関扉が開いた。


「あのう……」


 加奈子が封筒を手にしていた。


「それは?」


「広島から誤って転送されてきたメールです。もしかしたら、この人なら事情を知っているかもしれません」


「お借りしてよろしいですか?」


 加奈子がうなずいた。瞳は潤んだままだ。


 九段が封筒を両手で受け取った。


「呉で、この方に会ってみます」


 彼が話すと、彼女の瞳に光明が浮かんだように見えた。


 車に乗り込むと、小島は車を呉に向けた。九段が封筒を開く。メールは電報のように紙に印字されていた。


「自衛隊はこんな形で知人へメールを送るのだなぁ。外国や船の上から手紙が送れるようになっているようだ」


 九段がメールの裏表に目をやってから暗い社内灯の下でメールを読んだ。


「拝啓、上陸したのもつかの間、また海に逆戻りです。あの航海は私にとって貴重な経験になりました。しかし、あの夜の30分間の出来事が貴官の人生を狂わせてしまったのではないかと思うと、胸が痛みます、……これだなぁ」


「どれです?」


 小島は彼の手元を覗き込む。ナビシステムが前方を注視するよう、警告を発した。


「あの夜の30分、それで水島の人生が狂ったということだ」


「はぁ……、でもそれが萩本総理との共通点になりますか? その場に萩本総理がいたとでも?」


 小島には、そんな状況が想像できなかった。


「それはわからん」


「差出人はどこの誰です?」


「海上自衛隊基地だ。船の上からメールを出すと、自動的に基地からの発信になるのだろう。艦艇の所在は機密事項だろうからなぁ」


「話を聞くのは難しそうですね。せめて自宅の住所を書いてくれていたら助かるのに」


「吾妻勇気。名前は分かるんだ。会うことぐらいできるだろう」


 そう言うと、九段が唇を結んだ。


 小島は息苦しさを覚えて言った。


「奥さん、離婚したのに愛していましたね」


「そうか?」


「最初は水島さんをあの人と呼んでいたのに、最後のほうでは主人と呼んでいました」


「水島さんが知ったら、喜ぶだろうなぁ」


 九段が高速道路の左手に広がる大阪の街の灯に目を細めた。


 途中、パーキングで仮眠を取り、海上自衛隊基地に着いたのは午前8時を回ったところだった。事務所に顔を出して吾妻勇気という人物への面会を申し込むと、出てきた中年の自衛官はおかしな顔をした。


「警視庁が何の用?」


 それは明らかに何かを疑っている顔だった。


「何か、会わせられない事情でもあるのですか?」


 不審には不審で対抗する。そうして九段は道を切り開く。小島はそう知っていた。


「いや、別に。……吾妻は航海中です。今のところ帰港予定は未定なのですよ」


 その口調で、隠しごとをしている、と小島にもわかった。


「帰港時期が分からないなんて、不思議な訓練もあるのですね。いや、作戦というべきかな?」


「警察というのは、嫌味な職業ですね」


 自衛官は露骨に不快感を表した。


「同じ公務員じゃないですか。なんとか連絡を取りたいんです。お願いします」


 小島は、思い切って自衛官の手を握った。女性の武器を最大限に利用する。それも事件解決と出世のためだと割り切った。


 彼の目じりが下がった。


「申し出はわかりますが、何分、機密事項ですから。……帰港したら、吾妻のほうから連絡させます。それでよろしいですね?」


 そう言われては、どうしようもない。九段と小島はそれで妥協した。


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