第34話 愛の後始末
美麗が手塚と暮らすマンションに戻ったのは、間もなく昼になるころだった。心なしか空に浮かぶ太陽も寂しげに見えた。人を殺したからではない。新たな任務がそうさせていた。
留守だと思っていた手塚がいた。少し驚き、少し喜んだ。
「夕べはどこに行っていた?」
彼が何かを疑っているのはわかった。美麗は、澄まして答える。嘘をつくのには慣れている。いや、慣れ過ぎている。もはや病的だ。
「満金豚会よ。周に呼び出されたの」
「そうか……」
満金豚会を持ち出すと手塚は黙る。彼は周が優先権を持っていると考えているのだ。美麗はそんな彼の弱みに付け込んで、満金豚会の名前を利用して自由な時間を作っている。恋人を騙していることに後ろめたさはあるが、それを態度に表さないのも恋のためだ。
自分に比べれば、手塚も周も
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
「約束しただろう。これから仕事をしに行く」
彼が上着の内ポケットからアーミーナイフを出して見せた。真新しいその刃に曇りはない。日明研の天下を殺すために、わざわざ買ったようだ。
「そんな、無茶よ」
普段、手塚は天下の人物について熱く語ることが多かった。まるで神父がキリストについて語るように。美麗とジェームズの電話のやり取りを聞いた後でも、彼の中の天下は強い影響力を持っていた。そんな気持ちでは殺せるはずがない、と美麗は考えていた。
いや、と思う。殺すだけなら可能だろう。愛しているから殺せるということもある。しかし、そうして逮捕され、自由を失うようでは、今度は私が困る。もっとも、既に天下はこの世にはいないのだけれど、それを教えるわけにもいかない。教えたら、彼がどんな行動に出るのか、予測できない。
「会長には信頼されている。近づくのは簡単だ」
「それなら、私を抱いてから行って。欲しくなっちゃった」
それは嘘ではなかった。人を殺した後は、とても人恋しくなる。手塚に唇を重ねて男の本能を刺激した。時間を稼げば、天下が死亡したニュースも流れるだろう。
2人はベッドに倒れ込み、獣のようにお互いの欲望をむさぼった。
愛欲にまみれた時の流れは早く、気づいた時には陽も傾きかかっていた。かれこれ4時間もベッドにいたことになる。
肉体が水分を欲していた。美麗は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブを開けた。その場で一口飲み、缶をベッドにいる手塚に渡した。それからテレビのスイッチを入れた。ニュースの時間だった。
『本日、日本の明るい未来を考える研究会の天下大地会長が遺体で発見されました……』
スピーカーから流れる音声に「なんだと」と手塚が声を発した。
『……警察は自殺と事件の両面から捜査をすすめ……』アナウンサーが原稿を読んだ。
『天下会長は、心酔していた萩本総理に
「殉死だと!」
手塚はテレビに飛びつき、それから美麗を振り返った。
「私は何も知らないわよ」
美麗は両手を広げて首を振った。それから手塚を慰めるために背中に抱きついてうなじにキスをした。彼の汗の臭いをかぐと、軽いめまいを覚えた。
「出かける必要はなくなったわね」
手塚が全身の筋肉を固くした。
「あの会長が自殺するはずない。世界中の人間が地獄に落ちても、生き残るような男だった。美麗が……。君がやったんだな……」
「天下会長のことをよく知っているのに、どうして裏切られたの?」
裏切りとは、天下が萩本総理を暗殺した事実だ。
「それはわからない。ただ、会長は俺の想像を超える男だったということだ。だから俺が殺すべきだった」
やっぱり彼には殺せない。天下を前にしたら、理由を問い
身体から力が抜けたのだろう。手塚が崩れるように座り込んだ。
「なんだ……、おかしい……」
手塚の声に力がなかった。彼は自分の両手を見つめていた。指が小刻みに震えている。
「ミ、レ、イ、何か、した、のか?」
彼が振り返る。その眼は焦点を結んでいなかった。……彼が腕を伸ばした。美麗の肩をつかもうとしたのだろう。が、その手は空を掴み、前のめりに倒れ込んだ。
「主水には人を殺してほしくないの」
美麗は意識を失った手塚の頭を膝に抱きかかえ、耳元で語った。
「あなたとの生活はとても楽しかったわ。主水、あなたは永遠に私のものよ。だれにも渡さない。もちろん、ママにも」
手塚を抱きしめてその短い髪を撫でる。それからそっと床に寝かせ、自分の身支度を整えた。シャワーを浴びずに衣類を身に着けたのは、少しでも長く手塚の体臭を身にまとっていたかったからだ。
スマホを取って連絡を入れると、すぐに宅配便のユニホーム姿の男たちが現れた。リーダーの1人を除けば、皆、組織が飼っている下っ端だ。彼らは、ジェームズの指示で、マンションの近くで待機していたのだ。
「大事に運んでね」
美麗の言葉に、リーダーの男が黙ってうなずいた。
彼らは手早く段ボール箱を組み立てる。
「ちょっと待って」
美麗は手塚のスーツの内ポケットからアーミーナイフを取って自分の鞄に入れた。代わりに万華鏡と睡眠薬の小瓶を彼のポケットに入れた。
リーダーの男が手塚の指紋を取り、シリコンで再現する。それから段ボール箱に手塚を入れ、台車に乗せて運び出した。残りの男たちは美麗の荷物を箱に詰め、掃除機をかけ、ドアノブやスイッチ、リモコンなどをアルコールで拭いた。ベッドカバーも洗面所のタオルも新しいものに交換する。すべて美麗の痕跡を消すためだ。その後で、手塚の指紋をつけなおす。
「飲んでないつもりでもだめね。強すぎる……」
美麗はくらくらする額を押さえながら、睡眠薬の入った缶ビールの中身をシンクに流した。それから缶を漂白剤で洗った。
「あとはよろしく」
男たちに後を託してマンションを出た。自分の車に乗ると近くの立体駐車場まで走った。出入り口から遠い、人気のない場所に車を停めた。
スマホを取りアンナに連絡を入れる。
「ママ、私、哀しいわ」
泣きたいのを必死でこらえた。
『すまなかったわね、ジェーン。あなたが手塚を本当に愛しているなんて知らなかったのよ。でも、日本を捨てると言った手塚は危険すぎた。……わかるわね。だから、あなたは自分のしたことに誇りを持っていい。合衆国を守るために、恋人を奉げたのだもの。……立派なことよ。手塚の死も無駄にはならないわ』
「わかっているわ、ママ」
『神様は、必ずあなたを救ってくれるわよ』
「神?」
その言葉を口にすると堰が切れたように涙がこぼれた。電話を切り、美麗は号泣した。車の中だけが、美麗が素のジェーンに戻れる場所だった。
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