第32話 水島2佐の使い

 高知沖の〝かいりゅう〟では、吾妻勇気が机に向かう日々が続いていた。インフルエンザウイルスHHV2Cにり患した3名の症状を事細かに記録して、隔離スペースから解放できる時期を模索していたのだ。


 一度、米原の様態が回復したので特別室に移したのだが、二日もすると再度、発熱してしまった。その後に衛生隊員の亀岡かめおか給養係のつじが新たに発熱した。看護時の感染と思われたが、隊員の多くが米原の隔離を解いたのがいけなかったのだと考えた。そのために菊田の熱が下がっても隔離スペースから出すことができず、菊田は再び熱を出した。


 このままでは部下を見殺しにすることになる。……勇気は、衰弱する菊田を見ると焦るのだが、健康な30余名を危険にさらす決断もできなかった。


 勇気は幹部を集め、度々たびたび打開策を検討していた。


「脱出管室に新鮮な空気が供給されても、それで空気中のウイルスが減るわけではないのですよね?」


「普通、ウイルスは広い地球に拡散するから我々はそれを吸い込まなかったり、吸い込んでも量が少なかったりして発症することがないのです。酸素をつくりだし空気を循環させる艦内は、毒と薬を同時に供給しているようなものです」


 応じる山田医官の姿は憔悴しょうすいしきっていた。


「浮上して患者を艦橋やハッチ付近において換気できる状態にしたほうが良いわけですね。今の風向きなら、ウイルスが陸まで飛ぶこともないでしょう」


「しかし、外気に接した状態で寝起きするわけにはいきません。気温は低いし点滴をするにも条件が悪い」


「総監本部からは、浮上禁止の命令が出ています」


 伊東が浮上に抵抗する。


「治療の見込みがあるのなら、総監本部のほうは私が何とかします」


 覚悟を言うと、伊東が表情を歪めた。


「実は、先ほど連絡が入りました。合同軍事訓練は中止になり、アメリカはインフルエンザが蔓延した東亜救済に動くそうです。総監本部からは、船が沈んでもウイルスを使用したことを秘匿せよ、と厳命が出ています」


「船が沈んでも、だと?」


 勇気は思わず立ち上がった。


 総監本部に確認しなければならない。……歩き出すと、伊東が立ちふさがるように移動した。


「それぐらいの覚悟を持てということかと。……ですが、治療のためでも浮上は許可されないと考えてください。それから、艦長が無理を通して乗員の上陸を許したため、自分が河本監察官の代わりに艦長を監視するように命令を受けています」


 そう話す伊東の瞳に戸惑いはなかった。


「伊東……」言いかけた時、勇気の携帯通信機から弱々しい声がした。


『……艦長、……菊田です』


 前部作業室に隔離されている菊田の声だった。


「どうしました?」


 容態が悪化したのだろうと思った。


『……小さな音ですが、……艦を叩く、……音がします』


「分かった。ありがとう。後はこちらでやります。ゆっくり養生してください」


 菊田のそれは熱による幻聴かもしれない。考えながら発令所に入った。


「ソナー、何をしている!」


 ヘッドフォンを掛けた青山が、勇気の声で目を覚ました。人員を減らしたうえに、かれこれ二カ月も海にいて誰もが疲れていた。


 とはいえ、潜水艦の眼であるソナー担当が眠っては重大事故を起こしかねない。


「〝とさ〟に護衛されているからといって気を抜くな」


「申し訳ありません、あっ……」


 青山は艦を叩く鈍い音に気付いた。


「前部脱出管付近で打音。特殊部隊です。脱出管を開けろという打音です」


「特殊部隊が……。まさか……」


 海の中にいても、水島が自衛隊を辞めたという噂は聞いている。ひと月も前のことだ。その水島が、自分たちのところに来るだろうか?……青山の言うことが、にわかには信じられなかった。


「事前に連絡は?」


 伊東に向いて訊いた。


「総監本部からは、何の連絡もありません」


 彼が顔を曇らせた。


 防衛省にも見放された自分たちを、水島が助けに来たのに違いない。勇気の胸に熱いものがこみ上げた。


「しかし、前部脱出管は使えない」


 そこは感染者の治療のために隔離している。勇気は10秒ほど考えた。


「機関停止。臼杵うすき1尉、注水せずに中央脱出管を開けてください」


「注水せずにですか? 大きな衝撃を受けることになりますが……」


「それで結構。音と泡が出れば、前部にいる水島2佐も中央ハッチが開いたことに気づくでしょう」


「そういうことですか。了解しました」


 外部ハッチの開く音は小さかったが、その後、脱出管に流れ込む海水の勢いで〝かいりゅう〟が大きく揺れ、グオーンときしむような大きな音を発した。


「竜が暴れている」


 臼杵がつぶやいた。


 艦体の振動がおさまると、脱出管に入った者によって外部ハッチが閉じられた。


 脱出管から現れたのは水島ではなく、かつて訓練に参加していた楠木だった。


「ご無沙汰しています。艦内は汚染されていないのですね」


 楠木はアクアラングを身に着けたまま敬礼した。


「こちらこそ。感染者5名は前部の脱出管室と作業室に隔離しています。そのほかのエリアは、すべて通常通りです」


 勇気が答えた。


「もっと早く来たかったのですが、〝とさ〟に邪魔されて近づけませんでした」


 楠木がニコリと笑った。


「〝とさ〟が妨害した?」


 理解できないことだった。


「……やはり総監本部や幕僚本部の命令で来たのではないのですね。とにかく、こちらに……」


 勇気は楠木をミーティングルームに招いた。伊東と臼杵、他に幹部が続いて入る。


「〝とさ〟が周囲4キロ圏内への艦船の立ち入りを禁じています。自分たちは漁船をチャーターして圏外から潜りました。柳川は今も南側3キロのところを潜っています。自分がたどりつけたのは偶然です」


 楠木が状況を説明した。


「そこまでして、何故、ここへ?」


「実は、使できました」


「水島さんは元気にしていますか? 総監部で別れた時には、ひどく落ち込んでおられた。その後、退官されたと聞きましたが、やはりあの作戦の影響かと……」


 勇気は呉で別れた時の水島の様子を思い出した。


「水島さんは、亡くなりました」


 楠木が視線を落とした。


「えっ……」


 勇気は手にしていたコーヒーカップを取り落した。広がった黒い液体が東バタン基地で水島に取りついた悪霊か何かのように見えた。


「まさか……」


 自殺か、とは訊けなかった。


「撃たれたのです」


「撃たれた?」


「今月、11日のことです。総理が狙撃されました。その時、同じ会場にいた水島さんも流れ弾に当たり……」


「総理が!」


 今度は伊東がコーヒーをこぼした。


「総理が撃たれたとは、テロですか?」


「日明研とかいう政治団体が怪しいようですが、政府発表はありません。まだ警察が捜査しているようです」


「外では、何が起きているのですか?」


 伊東の言葉を、勇気が遮る。


「楠木さん。先ほどは、水島さんの使いで来たと言いましたが?」


「ハイ」


「亡くなった水島さんが、どうやって楠木さんに使いを頼んだのです?」


「自分が使いを頼まれたのは2月です。水島さんが隊を辞める日でした。……〝かいりゅう〟が隔離されていると話したら、自分と柳川は〝かいりゅう〟を救助に行けと命じられたのです」


「救助?」


「何度か潜ったのですが、艦が見つかりませんでした。水島さんなら、もっと早くここに来られたと思うのですが、自分は足元にも及びません」


 楠木の眼はうるみ、水島を知る乗組員たちは沈黙した。


「それで水島さんは、なんと?」


 勇気は水島が話したことを知りたかった。


「水島さんは防衛省が〝かいりゅう〟を見捨てるだろうと心配しておられました」


「見捨てる?」


 すでに見捨てられたようなものだ。乗組員は、皆そう考えていた。


 楠木が小さくうなずいた。


ぎょくを守るための捨て駒に使うということです」


「戦争なら、それも有りだ……」


 臼杵がつぶやく。


「最悪の事態になったら、吾妻艦長は浮上して隊員を上陸させようとするだろう。その時、防衛省は〝かいりゅう〟を沈めるに違いないと……」


「そんな馬鹿な」


 伊東が腰を浮かした。


「〝とさ〟は、そのための準備だというのが水島さんの分析です。それで、迂闊に浮上するなと伝えてほしいということでした」


「〝とさ〟に守られていると思っていましたが、逆だというのですね」


 勇気は天井を見上げた。その先に〝とさ〟が浮いているはずだった。


「1人も死なせてはいけない、と水島さんは言っておられました」


「それができたら、こんなに苦労はしない」


 伊東が顔をゆがめて膝を叩いた。


「最悪の場合、1人でも2人でも救い出せと……。お前たちは人を生かすための自衛官なのだと言われました」


 楠木がこぶしを握った。


「脱出管室の換気をする方法があれば何とかなるのです」


 吾妻は楠木にすがるように言った。彼が水島の使者なら、自分には理解できない力を持っているに違いない。そんな気がした。


「そんなことでいいのですか?」


「あるのか?」


 伊東が腰を浮かした。


「ありますよ。さっき、やったじゃないですか」


「さっき?」


 勇気の瞳に光が生まれた。


「ああ、脱出管内の空気を圧縮収納せずに、外部ハッチを開けるのね!」


「そうです。空気を入れた状態で外部ハッチを開ける。それから排水。排水後、内部ハッチを開けて空気を入れ替える」


「繰り返せば、少しずつでも脱出管室のウイルスは海に放出できますね」


「それだけで改善するでしょうか? ウイルスは、30日は生きるのですよ。部屋のどこに漂っているのかも分からないのです」


 臼杵が言った。


 膨らんだ希望が縮んだ。勇気は、落胆を顔に出すなと自分に命じながら、次の策を考えた。楠木は、まだすべてを話していないのではないか、と思ったのはその時だ。汚染された空気を排出する方法が否定されても、彼には動じた様子が見えないからだ。これが、水島が育てた人間だと思うと頼もしいものを感じた。


 楠木が口を開いた。


「実は、水島さんは塩素ガスが使えるのではないか、と話していました」


「塩素ガス?」


「ノロウイルスは塩素消毒で殺すことができるという話でした。患者に潜水服を着せて室内を塩素ガスで満たせば、艦内のウイルスは一気に殺せるのではないか、ということです」


「そんな難しいこと……」


 吾妻は意気消沈。顔が曇った。


「艦長。出来ないことはありません。酸素生成装置を使えば海水中の塩化ナトリウムから塩素ガスを作るのは簡単ですし、減圧状態ならガスが隔離スペースから漏れ出すこともない。……心配なら我々は防毒マスクをつけましょう。殺菌後のガスの除去も空気浄化装置で簡単にできます」


 臼杵の具体的な策に吾妻は勇気を得た。


「なるほど。早速、その方法にチャレンジしましょう。臼杵さんは塩素ガスの製造に着手してください」


「了解しました」


 臼杵が敬礼すると、勇気は笑った。ひと月ぶりの笑いだった。その目には涙も浮かんだ。緊張から解き放たれた安堵の涙だった。


 楠木が、突然、直立不動の姿勢を取った。


「吾妻! 言うのは易しいが、結果を出すのは難しいぞ。出来るまで試行しろ。決っして気を抜くな」


 その口調は、それまでの楠木と別人だった。まるで何者かが憑依ひょういしたようだ。


「……」勇気たちは、目を丸くした。


 ホッと彼が吐息をもらす。


「これが水島2佐の最後の言葉です。自分も、そう叱られたものです」


 その声は、普段の楠木のものに戻っていた。


「そうですね。艦長、最後まで死力を尽くしましょう」


 そう言う伊東が泣いていた。


「何としても、やり遂げましょう。部下たちを、無事に連れ帰るのです」


 勇気は、伊東と臼杵の手を握った。

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