第31話 暗殺者

 ――ティルティルティル・ティルティルティル――


 スマホの電子音が室内に響き渡る。ベッドの中、万華鏡の〝ミルキーウェイ〟の幻想的な世界におぼれていた美麗は音を無視した。


 ――ティルティルティル・ティルティルティル――


 電子音は諦めない。電源を切っておけばよかった。……美麗は後悔しながらリビングに立ってテーブルに置いたスマホを取った。


『ハイ、ジェーン。1人か?』


 電話の向こうから聞こえたのはジェームズの鼻声だった。


「そうよ。風邪をひいたの?」


『長いこと雪の中にいたからな。それよりも、どうして電話に出ない? しかも、手塚のところに隠れているとは驚いた』


「ここはプライベートよ。電話は、……誰とも話したくなかっただけ」


『まさか、手塚と同居するような関係になっているとは知らなかった。手塚が自衛隊のスナイパーだと知らない訳じゃないだろう? まぁ、うまく取り込んだとめてやってもいいが、何故、私に報告しなかった』


「プライベートと言ったでしょ。取り込んだわけじゃないわ」


『まさかとは思うが、こちらの情報を流していないだろうな?』


「何度も言わせないで。プライベートなのよ。情報のやり取りなどないわ」


『そんなことを信じろと言うのか?』


「信じないでしょうね」


『そうだな、仕事柄難しい』


「きっと性格よ。私たちの血がそうさせている。それで、何かしら? 私に用事があるのでしょ」


 ジェームズは信頼できる上司だが、その日は彼の鼻声にいらつき、気を紛らわせるために〝ミルキーウェイ〟を光にかざした。


「私、しばらく休みたい。休暇を取るわ」


 ジェームズが電話の向こうでフンと鼻を鳴らす。


『それは君次第だ』


「どういうこと?」


『始末してほしい男がいる。天下と三沢だ』


「天下会長を殺せと?」


 警察の手に落ちた三沢の口を封じろと言うのは理解できるが、民自党幹部と親しい天下はまだ利用価値がある。それを何故、殺せと言うのかいぶかった。


『天下が私の指示に従っていなかった。お蔭で計画が狂ったよ。得物は現場においておく。それを使え。天下が黙ればすべてが終わる』


 痕跡は断たなければならないし、物語は完結しなければならない。狙撃事件の役者がそろわなければ物語は終わらず、捜査関係者も幕引きは難しい、とジェームズは言っているのだ。


 わかっていても気持ちは揺らいだ。手塚のそばを離れたくないという思いが強い。


「すぐには無理よ。私、怪我をしているの」


『ああ、知っているよ。流れ弾を受けたのだろう。ドジを踏んだな。それで誰とも話をしたくなかったというわけか。……しかし、誰にも失敗はある。運に見放されることもある』


 スマホの向こう側で、クククと笑う声がする。


『怪我をしていても、君なら簡単にできる仕事だ。それとも、そんな仕事も出来ないくらい、運に見放されたか?……嫌だと言うなら、手塚にも消えてもらうが、それでもいいのか?』


 ジェームズは、美麗が手塚への愛情から仕事を渋っているのに気付いているのだろう。


「手塚には関係のないことよ」


『それが、関係がある。……狙撃訓練をした手塚は元々警察の捜査対象になる男だ。計画ではしばらく天下に容疑者を演じてもらう予定だったが、ミスでアリバイを持ってしまった。今のままでは手塚の周囲を嗅ぎまわられ、ジェーンの存在が明らかになる。手塚が大事なら、警察の関心が強まる前に物語を終わらせろ』


「手塚を殺したら、あなたを殺すわよ」


『ジェーンに脅かされるとはな。面白いことを教えてやろう。手塚は、テキサスでアンナと寝たんだ』


「えっ、ママと……」


 美麗の手から〝ミルキーウェイ〟が転げ落ち、床を転がると壁に当たって止まった。


『やはり知らなかったのだな。親子ともども、男好きはさがとしか言いようがない。しかし、それがジェーンの最大の武器だ。それを忘れるな』


 ジェームズの声がかすんで遠くなった。


「……分ったわ。天下と三沢は、まかせて」


 電話を切り、〝ミルキーウェイ〟を拾おうとして振り返ると、そこに手塚が立っていた。


「聞いていたの……?」


「すまない、美麗。いや、ジェーン。……君はジェーン・高木。ブルースの娘だろう? MITで電子工学の研究をしていた。道理で電子レンジを簡単に修理できたわけだ」


 手塚は冷蔵庫の隣にある古い電子レンジに目をやった。


「よく調べたわね」


「調べてなんていないさ。ブルースが持っていた写真を見せてもらっただけだ。ブルースは君が香港で仕事をしていると言っていたが、本当の仕事を知らない。そうだろう?」


「ええ。主水は、ママと……」


「君のママにはいろいろ世話になった。とても明るくていいお母さんだ」


 手塚の声にやましさがない。美麗はジェームズの話を信じるべきか迷った。


「話を聞くつもりはなかったが、相手は君のボスか?」


「ええ、私はそういう女よ」


「ああ、中国の……。可哀そうな女だ」


 手塚は誤解していた。が、美麗は誤解をそのままにした。その方が何かと都合が良い。


「中国マフィアの情婦で人殺し、……最低ね」


 涙をこらえるために天を仰ぐ。そこに、ミルキーウェイはない。


「そして俺の恋人だ」


 手塚が美麗を抱きしめた。


「普通の女じゃないわ」


「それはフィリピンでよくわかった。俺に近づいたのは仕事のためか?」


「いいえ。あれは本当に偶然だった」


「三沢が総理を撃つところを見たのか?」


「いいえ。総理を撃ったのは北の山から飛んできた弾丸よ。三沢が撃ったのはSPと私」


 美麗は傷ついた腕を押さえた。もうその腕は自由に動く。ただ、傷跡はくっきりと残っていた。


「ひとつ教えてくれ。一之瀬と友永の車の事故。あれは美麗の仕業しわざなのか?」


 美麗はためらった。手塚が何を根拠に、そして、どんな答えを求めて訊いているのか見当がつかない。少し考えて嘘をついた。


「いいえ。私は何もしていない」


「そうか。それなら依頼のあった仕事、俺がやろう」


 手塚の言葉に美麗は驚いた。人の行動には理由がある。金銭欲であれ、権力欲であれ、あるいは怒りや愛憎であれ、人を殺す衝動は理性で抑えきれない感情に支えられている。


 時には使命感で人を殺す者や快感を覚えて殺人を繰り返す人間がいるが、それは精神に混乱をきたした異常者だ。


 美麗の見るかぎり、手塚には抑えきれない感情や精神的錯乱はない。


「ダメ……」


 それは試すような拒絶だった。


「いいんだ。俺にはあの男を殺す理由がある」


「どういうこと?」


「日明研は、大和魂を信じて集まった人間の団体だ。メンバーは日本国を守る事だけを考えているし、命を投げ出す覚悟もしている。しかし、天下は俺たちをあざむいた。こともあろうに中国の依頼で……。そして一之瀬と友永を死に追いやった。死ねと言われれば、彼らは自ら命を捨てただろうに」


 手塚は眼を閉じていた。


「もう、彼に大義はない。この国は腐っているんだ。俺はこの国を出る。その時は美麗にも来てほしい」


 周の依頼で天下が総理暗殺をはかった、と手塚は考えているようだった。そんな手塚の単純さと純粋さが、美麗はうらやましかった。


「仲間の復讐をするというの?」


「復讐?……それは違う。天誅だ」


「天誅……」手塚の言葉をなぞる。……天の裁き。それで手塚は神になろうとしているのだと感じた。そのためには、リアルのすべてを投げ捨てなければならない。それが神になるための代償だ。ならば、恋人を手に入れることも許されるはずがない。自分と暮らしたいと言う手塚は、目の前にある神の座を捨てて自分と共に地獄に落ちようというのか……。


 美麗の打算は手塚の心中を理解しかねて迷い、感情は激しく波だっていた。堤をこえた波がカラーコンタクトを押し流した。


 手塚の薄い唇が美麗の唇に重なり、ゴツゴツした手が素肌をまさぐった。美麗は灰色の瞳で本当の愛を見つけようとしていた。


 ――金曜日の夜は誰もが疲れ、そして週末の期待に集中力を失っていた。中野サンプラザにほど近い交差点に1台のタクシーが止まる。降りたのはチェック柄のデパートの紙袋を下げた美麗で、特殊メイクで容姿をぽっちゃりしたものに変えていた。


 尾行されていないことを確認した美麗は、街灯の明かりの中を警察病院に向かって歩いた。正面玄関から入ると、警備員の目をかいくぐって入院病棟に向かう。最上階のトイレに入り、持って来た看護師の制服に着替えて警備員の巡視が済むのを待った。


 外来の見舞い時間が終わる午後8時にトイレをでた。備品室に移動し、再び時がたつのを待った。


 深夜、備品室を出ると巡回の振りをして病棟の廊下を歩いた。目的の部屋は、ドアの横に警察官が座っているのですぐに分かった。


三沢が収容されている部屋の前を通り過ぎる時、ポケットに忍ばせた機械の短いアンテナを部屋に向けてスイッチを押す。刹那、天井のLED照明が瞬いた。電磁パルスの影響だ。


§


 部屋の前で見張りをしていた警察官が、眠気で落ちそうになった意識を持上げた。意識が向いた先は瞬いた照明ではなく、色気を漂わせた看護師だ。彼の欲望が反応した。


 瞬く照明で、看護師の顔はわからない。視線が胸からウエストへ、細い脚首へと下りていく。目の前を通り過ぎてからは、足首から引き締まったヒップへ視線が上っていく。


 左右に揺れるそれから、目が離せなかった。そうしているうちに、看護師の姿は廊下の角を曲がった。その姿が見えなくなってから、声をかければよかった、と彼は悔やんだ。言葉を交わして夜勤明けのデートの約束ができれば、退屈な立ち番の仕事にも生きがいを感じられたはずだ。


 彼は人生をやり直すような勢いで廊下の角まで速足で歩いた。


 曲がった先に看護師の姿はなかったが、どこに行ったのかと考えることはなかった。仕事中に看護師を追った後ろめたさがあった。


 彼は元の椅子に座り、退屈な人生に戻った。


§


 三沢が息を引き取ったとわかったのは、午前5時の看護師の巡回時だった。生命維持装置が止まっていたのだ。


「大変!」


 看護師は小さな叫び声を上げて脈をとった。患者が死んでいるのは一目でわかっていたが、脈をとるのは職業上の習慣、義務だ。


 駆け付けた医師たちは蘇生措置をすることがなかった。患者が死亡してから、長い時間が経過しているのは明らかだった。患者の心臓を押す代わりに、生命維持装置のスイッチを押した。それは患者の心臓同様、動き出すことがなかった。


 生命維持装置の製造メーカーの技術者が呼び出された。彼らが調べても、現実は変わらなかった。壊れた機械は、その異常を知らせる装置ごと止まってしまったのだ。「過去になかった現象だ」と技術者たちは汗だくで言い訳をした。


§


 土曜日の早朝、天下は後部座席の柔らかなシートに身を沈め、流れる景色を見ていた。せかせかと勤務先に向かうサラリーマンを見ながら、自分はあいつらとは違うと笑みを浮かべた。


「三沢は、どうして萩本総理の暗殺を謀ったのでしょうか?」


 ハンドルを握る横山の質問が天下の安らぎを破った。横山がそれを訊くのは3度目だ。


 天下はジェームズとの取引を横山に隠し続けている。アメリカと取引をすることに反対した横山が萩本暗殺を知った場合、どのような行動に出るか想像できないからだ。頭のいい横山に対して、萩本が売国奴だと説得しきる自信はない。怒った横山が日明研を飛び出したり、自分に牙をむいたりすることを恐れた。


「俺は知らんと言っただろう。三沢には殺す理由があった。総理には殺される理由があった。それだけだ。もう、その話はするな。俺もその件では頭を痛めている」


 天下は日明研の事務所が入ったビルの前で車を降りた。仕事の報酬の残金、4億円が宅配便で届くという連絡を受けて事務所に来たのだ。


 時刻が早いために、事務所前に報道陣の姿はなかった。酔っ払いがまき散らした昨晩の汚れが通りのあちらこちらを汚している。そんな通りを歩く者もほとんどいない。


 エレベーターに乗って4階に向かう。階数表示が変わるのを見つめながら、横山を説得するうまい理屈がないかと考えた。秘密を隠し続けるのには限界がある。


 私腹を肥やした上に、俺を騙した萩本に天誅を下すのは当然の権利だ、と胸の中で横山に言ってみた。それで横山は納得するだろうか?


 エレベーターを降り、「おまけに5億円もの金が手に入る。一石二鳥とは、正にこのことだ」と声にすると頬が緩む。何もしない政治家の取り分が1億円というのには理不尽なものを感じるが、それが政治だと理解している。


 大金のもたらす結果への期待が、ジェームズに提供される情報の真贋しんがんを検討する思考力を麻痺させていることに天下は気づいていない。合計5億円という9桁の数字が脳のシナプスに詰まって、正常な判断を妨げているのだ。


 もし、横山が天下とジェームズの取引を知ったら、そのことを指摘するに違いなかった。


 天下は勇んでドアの電子錠を開け、事務所を横切り会長室に入った。いつもと変わらない空間も、わずかに華やいだ香りがすると感じた。それも4億円が届く喜びのためだと思った。


 自分の席の背後に掲げた日の丸に一礼してから、革張りの肘掛け椅子に腰を下ろす。いつものように掛けたのだが違和感があった。机の下に足を邪魔するものがある。


 足元をのぞくとエキゾチックな美女の顔があった。白衣を身にまとい、机の下で膝を抱えている。


「だ、誰だ?」


「白衣の天使よ。約束を守らないあなたを、お仕置きに来たの」


 天下の喉元に固いものが押し付けられる。それが何かと認識する前に、グッっと喉が鳴った。夢中で銃身を握って払いのけようとしたが、それが喉元から狙いを外すことはなかった。


 美麗が顔を伏せる。


 ドン!……室内に衝撃が走り、血飛沫ちしぶきが飛んだ。白衣の天使は、真っ赤な天使に変わっていた。


§


 自分を白衣の天使と言ったのはダサかった。……つまらない後悔が美麗の胸を過った。


 美麗は、天下が自殺したように細工をすませ、赤く染まったナースキャップを取り、赤い花の咲いた白衣を脱ぐとチェック柄の紙袋に詰めて事務所を出た。


 防犯カメラのあるエレベーターは使わずに、狭い階段を降りる。両手に下げた紙袋がとても重い。途中の踊り場で手袋を外し、紙袋の中身に香水を振りかけた。血の臭いを消すためだ。


 駐車場に向かう途中で、正面から来る天下の運転手を認めた。名前は知らない。知的な顔と華奢なスタイルは、手塚と真逆のタイプだが、それはそれで、いい男だと思った。


 彼の視線が紙袋に向いている。馬鹿ではない。美麗は彼をそう評価した。早朝、重い紙袋を下げて歩く女性に違和感を持つ注意深さはあってしかるべきだ。


 2人の距離が縮まる。彼の鼻腔がヒクヒク動くのを認めた。まさか、血の匂いに気づいたか?……美麗は、少しだけ緊張した。


 2人はお互いの視線を意識しながらすれ違う。


 美麗は背後で横山が足を止めたのに気づいた。何らかの強い違和感を覚えたのに違いない。あるいは、ただの女好きか?……そんなことを考えながら、力強い足取りで遠ざかった。


 美麗はコインパーキングに置いた自分のワゴン車に乗り込むと北へ向かう。30分ほど走り、焼却場代わりに利用している廃工場に入った。


 チェック柄の紙袋には日明研の金庫から回収した1億円が入っている。札束を取り出してヴィトンのキャリーバッグに詰めかえ、紙袋と血に汚れた衣装は焼却炉で焼いた。


「ママ、……全部終わったわ」


 三沢と天下殺害はジェームズから依頼があったものだが、ジェームズに指図をしているのはアンナだ。結果報告はジェームズに入れてもアンナに入れても同じだった。常に組織の情報は共有される。


『ありがとう』


 スマホの中のアンナが優しく微笑んだ。その笑顔で手塚を取り込んだと思うと、美麗は強い怒りを感じた。長い間忘れていた感情だった。


『あと1人お願い。そうしたら、その1億はあなたのものよ……』


「WHY!」


 ターゲットの名を聞いて叫んだ。

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