第27話 4人目の男

 萩原総理が暗殺された日、手塚は7泊の予定で富士山麓での演習に参加していた。対戦車ライフルのスコープ越しに仮想敵のロボット兵を探していると緊急連絡が入った。演習を中断して本部テントへ集合しろというのだ。


「訓練中止なんて、何があった?」


 自衛官たちは、どこかで大災害が発生して救助隊が組織されるのだろうと想像した。


「戦争かもしれないぜ」


 そう言う者は無視された。あるいは笑われた。


 本部テント前に整列すると司令官が前に立った。


「総理が狙撃され、絶命された」


 声は興奮に震えている。その興奮は部隊全体に伝播し、〝いざ出陣〟とばかりに誰もが武器を手に敵討ちに走る姿勢を示した。


「どこを攻めればいいんだ?」


 その疑問で、隊員たちの興奮は戸惑いに変わった。その時、誰かが特定の国名をあげれば、部隊はそこへ飛んだかもしれない。


 結局、陸上自衛隊は非常体制に入ったまま、それぞれの基地で待機することになった。


 その晩、手塚は立川基地の簡易ベッドの中で、信じていたものが壊れた時の恐怖を感じていた。一之瀬たちが総理を狙撃したのかもしれないと想像すると、その恐怖は倍化した。


 手塚にすれば、総理を撃つために狙撃術を指導したつもりはない。


 自分は誤っていたのか?……悩みながら、狙撃犯が日明研のメンバーでないことを祈った。


 翌々日、犯行が某国軍によるものではないと分かると帰宅は許されたが、誰による犯行なのかは聞かされなかった。手塚は不安を抱えながらマンションに帰った。


 玄関ドアを開けると、いるはずのない美麗の靴がある。


 彼女が周と別れたのかもしれない!……それは半同棲生活を始めてから、2度目のぬか喜びだった。その刺激が強すぎて、狙撃事件の不安から解放されていた。人間なんて現金なものだ。手塚は転げるように靴を脱いで室内に走った。


 もうすぐ昼になるというのに美麗はベッドの中にいた。気持ちよさそうな寝息を立てている。頬にキスをすると、目を閉じたまま「おかえり」と寝言のようにつぶやいた。


「どうした?」


 いつもと違って反応が鈍いので尋ねた。普段なら子犬のようにじゃれついてくるはずだ。


 彼女が片目を開けた。


「ネムイ」


 その少しわがままで艶のある声で、手塚は抱えていた萩本総理の死という現実を瞬時に忘れた。


「帰りが遅かったのか?」


 美麗が首を横に振る。


「眠れなかったのか?」


「まぁ……」小さくうなずいた。


「周と何かあったのか?」


 質問が核心に近づいていく。手塚は「別れた」という答えを期待していたが、彼女は首を横に振った。


 小さな失望を感じる。


「それなら、どうして眠れなかった?」


「痛い……」


 その日の彼女は子犬ではなく、猫のようだった。


「痛いって、どこか具合が悪いのか?」


「妊娠したみたい」


 手塚は驚いた。それは自分の子供なのか、周の子供なのか……。自分の子供だという確信がない。


「ふふふ……」


 彼女が毛布で肩を隠しながら上半身を起こした。


「嘘よ。妊娠なんてしていないから、安心しなさい」


 手塚は、ほっとした自分を客観的に見ていた。美麗を愛しているはずの自分という存在が揺らぐ。


「ごめんね。冗談が過ぎたわ」


 彼女が寂しそうに微笑んだ。


「いや。それよりも、本当のことを教えてくれ」


 手塚が両手で美麗の肩をつかむと、彼女が顔をしかめて身体を引いた。


「怪我をしているのか?」


「うん……」


「誰にやられた。周か?」


 自分との関係がばれて、暴力を振るわれたのではないか?……瞬間的にそう思った。


主水もんどには隠していても分かっちゃうから話すけど、流れ弾に当たったの。かすり傷よ」


 美麗が毛布を下ろすと裸の腕に包帯が巻かれていた。


「えっ!」


 頭を打たれた気分だった。日本国内で流れ弾に当たるなど、宝くじで1等に当たるよりも難しいはずだ。


「萩本総理が撃たれた現場に、私もいたのよ」


 手塚の疑問を察したのだろう。美麗が付け加えた。


「まさか、お前……」


 狙撃グループが満金豚会で、美麗も暗殺者の一味ではないかと疑った。


「勘違いしないで。私はイベントを見に行っただけよ」


 手塚の腕から力が抜けた。


「犯人は満金豚会なのか?」


「違うわ」


 抑揚のない返事だった。


「犯人を見たんだろう。どんなやつだ?」


「若い男だったけど、目出し帽をかぶっていたから、よく分からない」


「そうか。しかし、危なかったな。かすり傷で良かった」


 手塚はそっと美麗を抱きしめる。その耳元で訊いた。


「医者には行ったのか?」


「ええ、治療はしてもらったけど、警察からは逃げたの。満金豚会の話が出たら面倒だから」


 手塚は美麗の説明に納得した。美麗が香港マフィアの関係者だと知られたら、総理暗殺もマフィアによって行われた可能性が疑われ、美麗は拘束されただろう。……彼女は医者で治療を受けたが、それは東京に帰ってからのことだった。満金豚会周辺には、銃でついた傷を治しても、報酬さえ出せば警察に届けない医者がいる。


「痛みで眠れなかったんだな。痛み止めは利かなかったのか?」


 耳元で静かに話す手塚の息が、美麗の耳をくすぐった。


「そうみたい。でも、もう大丈夫。あなたがいるから」


 美麗は、片腕を手塚の首に回してキスをした。


「愛し合ったら、きっと痛みを忘れられるわ」


 そしてディープキス……。


 2人はもつれるようにベッドに倒れ込んだ。その時、美麗の胃袋がグーと鳴った。


「その前に、何か作ろう」


 手塚は美麗の頭を撫でてからキッチンに立った。


§


 総理狙撃事件の捜査本部は警視庁に移された。幸か不幸か、九段と小島も正式に捜査本部に加えられた。小島は喜んでいたが、九段は嫌な気分だった。大事件とあっては惰眠だみんむさぼれない。いや、マイペースで捜査ができない。


 札幌と山形、前橋のライフル銃盗難事件の捜査責任者が呼び出されて捜査状況の報告を求められた。どこの現場でも盗難の証拠がないために、店主による密売の線で捜査をすすめている、との報告だった。


「三つの銃砲店の横のつながりは?」


 山本の質問に、調査をしていない、と山形県警の責任者が応じた。


「馬鹿者!……猟友会や火薬銃商組合を通じて横の連絡がある可能性があるだろう。密売組織があるかもしれない。日明研の名前は上がらなかったのか?」


 川口が県警の担当者たちに向かって吠えた。


 叱られた担当者たちは首をすくめ、目を白黒させている。小さな盗難事件を捜査していたつもりが総理暗殺事件の渦の中に放り込まれ、全国的な視野をもたなかったことや他の県警との連携不足を叱責されたのだ。


 猟銃の盗難を単独の事件として追うのは普通のことだった。県警の捜査員たちにとっては寝耳に水。九段は同情した。


「県警の人たち、かわいそうですね」


 九段の耳元で、小島がささやいた。


「そうだな。天に唾する行為だ」


「どういうことです?」


「あのう、いいかな?……」


 九段は小島を無視して手を挙げた。


「なんだ?」


 川口が目を三角にしていた。


「……ライフルの盗難事件は、岐阜でもあったと思うのですが、そっちも確認しませんか?」


 川口のこめかみに青筋が立った。


「これ以上、事件を複雑にするな。ライフルが3丁、三つの狙撃現場。岐阜は宮城からも遠い。そのライフルが関係する理由がないだろう」


「岐阜で盗られたのもブレイブだと聞いていますが、偶然ですか?」


 九段の指摘に川口がたじろいだ。隣の山本は怖い顔をして黙っている。捜査本部長の面目にかけて引くわけにはいかないようだ。


「その銃が関係するとして、どこから狙撃したというんだ」


「それは現場を見てみませんと」


「ふざけるな! 九段は仲間を信じられないのか。お前は知らないだろうが、現地では、7県警の仲間たちが雪をさらって総理やSPを貫通した銃弾を探し、雪山を歩いて狙撃ポイントを特定したのだ」


 川口に代わって山本が立っていた。壁に張った事件現場の地図を指し、仲間たちの努力の足跡を力説した。


「半径150メートル以内には、他に人のいた痕跡などなかった。狙撃場所はあの三カ所だ」


 山本の意見を補強するように、川口が言った。


 九段は仲間を信じていないわけではない。しかし、努力と、能力と、結果は、別のものだと考えている。


「狙撃地点を150メートル以内に絞った理由はなんでしょう?」


 九段の質問に対して、再び山本が立ち上がった。


「当時は風が強かった。プロでもない者があの銃で、100メートルを超える距離から人を撃てる状況になかった……」


 彼は九段をねめつけた。


「……九段、お前はグダグダ言わず、山から撃った残りの犯人を探し出せ。日明研の関連施設に隠れている可能性もある」


 九段の疑問に合理的説明がされることはなかった。


「叱られちゃいましたね」


 耳元で、小島が楽しそうにささやいた。


「いいですか……」都築が手を挙げ、三沢がアメリカに向かった飛行機の便に、日明研の一之瀬、友永、手塚が乗っていたことを報告した。


「……驚かないでくださいよ。その手塚ですが、陸上自衛隊で、狙撃手を務めています」


 都築の説明に、会議室がどよめいた。


「決まりだな」


 誰もが簡単に事件全体の構図を描いた。三沢と手塚、それから誰か、もう1人が狙撃犯で、手塚の撃った弾が総理を貫通したのに違いないと。


 一方で、容疑者が4人になり、九段が疑ったように岐阜で盗まれた銃も使われたのかもしれない、と考える捜査員が現れた。


 困惑したのは山本だった。手塚が狙撃したのなら、現役自衛官による総理大臣暗殺という以降はじめてのクーデターの様相を帯びてくる。


 川口が、一之瀬、友永、手塚の調査を指示し、捜査会議は終わった。


 手塚の行動は容易に判明した。事件当日、彼が所属する部隊は富士山麓で訓練中だった。


「完璧なアリバイだな」


 山本はクーデターでないことに胸をなでおろし、同時に、犯人の影が薄れたことに消沈した。


 捜査本部は、事件前日から行方が定かでない一之瀬と友永を容疑者にしぼった。一之瀬は急な出張が入ったと妻に連絡を入れたまま姿を消しているし、友永は父親が買い与えた車に乗って行方をくらませている。2人が総理狙撃後、逃亡していると考えるのが自然だった。


 容疑者が1人減り、再び岐阜で盗まれた銃は事件と無関係なものとされた。


「大変です!」


 その夜の捜査会議に稲田いなだ鑑識課長が飛び込んできた。


「なんだ、騒々しい」


 川口が眉をひそめた。


「ライフルマークの詳細な鑑定が終わりました。SPを撃ったのは三沢の弾でしたが、総理を撃ったのは現地で発見された3丁のライフルではありません」


「どういうことだ?」


「総理と元自衛官を撃ったのは、まだ発見されていないライフルだということです。おそらくそれが岐阜で盗まれたライフル。三沢、一之瀬、友永が現場にいたとして、もう1人、別の犯人がいるということです」


 九段の解説を、山本が青筋を立てて聞いていた。


「九段の言う通りで間違いないのだな?」


「ハイッ」


 稲田が直立不動の姿勢で答えた。


 捜査員たちは再び手塚に注目する。


「4番目のスナイパーが、手塚ではないのか? 何か、アリバイトリックがあるのではないのか?」


 山本が手塚のアリバイ工作の線を疑った。


「手塚の所属する部隊は8日にヘリで立川から静岡に飛んでいます。隊に照会したところ、11日の事件当日も訓練は行われていて、手塚は訓練に参加していました。事件の一報を受けて訓練が中止され、隊員に招集がかかっています。11日の夕方、ヘリで立川へ帰還。その日以降は基地内で待機しています。静岡の演習場から姿を消して現地で犯行を行い、再び戻るのは不可能だと思います」


 池田が手塚の行動を説明した。


「単独でアリバイを作るのは無理でも、隊が手塚を現地に送り込み、アリバイを証言している可能性は残るだろう?」


「それは、自衛隊の組織ぐるみの完全なクーデターということですか?」


 永作の仮設に都築が問い返した。


「クーデターというかどうかはともかく、何らかの意図を持って立川の部隊が総理暗殺を謀ったとすれば出来ない犯行ではない」


「お言葉ですが、それならば三沢らの素人を狙撃現場に集めた理由が説明できません」


 小島が立ち上がっていた。


「現に暗殺は成功した。彼らはダミーだったのではないか?」


 永作の発言に、九段が独り言をいう。


「公安らしいこじつけだ」


 永作が九段を睨む。


 川口が腰を上げた。


「一之瀬と友永を指名手配。九段は会長に話を聞いて来い。事件には日明研の3名が絡んでいるのだ。会長に話を聞いても文句は言われないだろう。が、くれぐれも慎重にやれ。他の者は日明研とその関係者に警察出身者、自衛隊出身者、クレー射撃経験者など、銃の取り扱いに慣れた者がいないか洗い出せ」


 川口の指示で捜査員が立ち上がってから、思い出したように山本が口を開いた。


「流れ弾で死んだ水島の家宅捜索の結果はどうだった?」


「部屋に越したのは前日10日のことで、萩本総理を殺害するような動機も物的な証拠もなかったそうです。ただ気になることがあるとすれば、引越しのその日、長年連れ添った妻と別れており、2人の子供は母親が引き取っています。……以前、住んでいたマンション周辺の聞き込みでは、水島はもともとまじめな男で、この2月ごろから神仏を拝む、聖者のような暮らしをしていたそうです。不審な人物が家に訪ねてくることはなく、総理や政治に対する不満を聞いた者もない、という報告です」


 広島県警からの報告を川口が要約した。


「聖者ね……」


 山本が、ぼそっとこぼした。


 彼には聖者というものが想像できないようだ。そう考える九段も似たようなものだった。世の中には欲望と悪意が渦巻いている。職場でも、家庭でも、九段の周辺ではどこでも同じだった。


「すると、会場に行ったのは純粋に公園のオープンを祝うつもりだったと言うことか?」


 山本が改めて訊いた。


「それは、わかりかねますが、少なくとも事件とは無関係だと考えていいと思います」


「祝賀に来て流れ弾に当たるとは、聖者も運がなかったな」


「まことに」


 川口が同意した。

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