第23話 チョコレート

 正午が近づくと、復興記念公園オープニングセレモニー会場はにわかに人の動きが激しくなり警備も厳しくなった。イベントスタッフは設備の設置や点検に余念がない。警備の警察官は不信者がいないかと眼を光らせ、爆発物が無いかと照明やスピーカーの陰を丹念にチェックした。会場の左右にはテレビカメラも並んだ。地方のイベントなので観客は少ないが、総理が出席するのでメディアの数は多い。


 雪原で凍える一之瀬たちは、ブランデー入りのチョコレートを口に含む。冷えた身体が胃袋から温まるのを覚えた。糖分は脳を活性化させてくれるだろう。


 一之瀬は、気持ちを奮い立たせてターゲットが立つ予定のステージに眼をやった。風は強いものの、100メートル先のそこまで障害になるものはなかった。


「必ず成功させる」「必ず命中させる」


 一之瀬や友永は、それぞれが同じことを口にした。テキサスで繰り返してきた言葉だった。それから三沢が隠れているはずの場所に眼をやった。建物の屋根は、新雪に覆われていた。


 ヤバイ!……一之瀬が見たのは、ひとりの警察官が脚立に上って屋根の上を覗く様子だった。別の警察官が脚立を支えて同僚を見上げている。


 思わず一之瀬は、警察官に向かってライフルを構えた。スコープの中心に警察官の頭を入れる。三沢が発見される前に、警察官を排除すべきか?……迷った。


 心臓を握りつぶされるような感覚があった。テキサスでは経験したことがない感覚だ。


 屋根の上を覗いた警察官は、降り積もった雪の中に人が隠れているなどと想像もしていないのだろう。形式的に確認しただけだった。人の行動は、認識の制約を受ける。警察官は、そこには何もないと決めつけていて、何も気づかずに踏み台を下りた。


§


「もうすぐ雪はやみそうですが、外は寒いですから……」


 三沢が隠れている建物の中で、総理秘書官の糸田敏明いとだとしあきが使い捨てカイロの封を切って萩本に渡した。


「さっさと済ませて温泉にでも入りたいものだな。糸田君も温泉は好きだろう?」


 萩本が使い捨てカイロを揉みながら口角を挙げた。


「総理。式典の後は記者会見です。今週末は合同軍事訓練内容の最終決定日となっていますから、東京に戻りませんと……」


「分かっているよ。温泉は冗談だ。東バタン制圧は天下分け目の戦い。成果を出して自衛隊の来年度予算を5割増しにする。温泉などでくつろいではいられないよ。それにつけても最初の薬が効きすぎてはいないか? インフル作戦による死者が出ているようだが」


「次の会議では、その件も考慮に入れる必要があります。やはり米国の中止要請をのむべきかもしれません」


 糸田の言葉に、萩本の表情が変わった。それまでの笑顔が怒気を含んだものへ……。糸田の顔が強張った。


「君までそんなことを言うのか。シーレーン全域に対する実力介入は既定路線だ。そうでなければ我が国は、いつまでもアメリカの従属国とみられる。アメリカも日本が懐から飛び出すのが怖くなったのだろう。今頃になって自衛隊を動かすなと言ってくる。すべてはこちらで決めるから、日本は金だけ出せということだ。バカバカしい!」


 萩本は、目の前にあったパイプ椅子を蹴飛ばした。


「総理の意向は分かりました。それにしても今のままでは、インフルエンザで弱っているところに付け込んで攻めた印象を与えます」


 糸田は肩をすぼめて話した。


「ここは上杉謙信にならって、敵に塩を送ろう。医薬品の提供がベストだが、ワクチンの開発状況はどうだ?」


「あのウイルスは、ワクチンを作ることができないタイプだと聞いています。そのために〝かいりゅう〟も身動きが取れません」


「製薬メーカーを呼び出して治療薬を研究させなさい。死ぬ気でやれば、絶対できるはずだ」


「メーカーは、販売計画の立たないワクチン製造に消極的です。何かニンジンをぶら下げて見せませんと」


「それなら東亜の実情を話しなさい。あのウイルスは、いずれ我が国にも上陸する。中国にも、ロシアにもだ。絶対、金になると言ってやれ。すぐに動くはずだ」


 自信にあふれた萩本の声には、有無を言わせない圧力があった。


「……ハイ、そのように伝えます」


 一方的な物言いには釈然としない感情が生まれる。だからといって、糸田には抵抗する気概がなかった。いや、彼だけではない。今では官僚の人事権を握り、カリスマの香りをまとって大衆を味方につけた萩原の前に、官僚たちは無力だった。


§


 天下は日明研の事務所で時計をにらんでいた。


 壁掛け時計の針は午後1時10分を指している。


 間もなく歴史の変わる瞬間が訪れる。「売国奴に天誅を」天下はつぶやく。叫びたいほどの興奮を覚えていた。


 ノックの音がして、横山が顔を見せる。


二階堂にかいどう先生がお見えになりました。約束はなかったのですが」


「そうか。来てしまったのでは仕方ないだろう」


 天下は応接室に移動して二階堂を出迎えた。


「衆議院選挙が近づいてきてね……」


 二階堂が革張りのソファーに身を沈める。


「来年でしたな。全力で支援させていただきますよ」


「ああ、そう願いたい。何につけても必要なのは選挙資金と手足だ」


「分かっています。日明研で用意できる手足は70名ほどですが……」


 会員とその親族をかきあつめて選挙応援に当たるのはいつものことだ。


「うむ、いつもすまないね。ありがたいよ。で……」


 二階堂が謎かけでもするように言葉を濁した。強要したと言われないよう、天下から言わせようとしているのだ。


「いかほど必要になるのでしょうか?」


「前回の参院選ではチョコレート5個だったね」


 チョコレート1個は1千万円。5個なら5千万円ということだ。


「同額程度は、なんとか用意させていただきます」


 恩を着せるために渋々といったていで応じた。


「今回は厳しくなりそうなのだよ。中東問題があるからね。景気が下向きかけているのも与党には不利だ。万博では会長の所にも金が落ちただろう。その見返りと言ってはなんだが、チョコレート10個。何とか都合できないか?」


 二階堂が右手の人差指を立てた。その仕草が天下には気に入らない。万博の利権で得られたおこぼれは、すでに萩本に渡してあるからだ。そこで怒りを爆発させずに済んだのは、ジェームズから受け取った資金が金庫の中に寝ているからだった。進行中の計画が成就の暁には、更に4億円が手に入る。


「先生方には困ったものですな。チョコレートが空から降ってくるとでも考えておられるようだ。バレンタインは、とうに過ぎたのですよ」


 天下は勿体もったい付けてソファーに背中を預ける。


 サイドボード上の時計に目をやると午後1時30分を僅かに過ぎていた。3人はうまくやっただろうか?……考えると二階堂の声が耳に入らない。


「……選挙には金がかかるのだよ。野党は金のかからない選挙などと戯言ざれごとを言っているが、有権者は地元に予算を引っ張ってくる議員に投票するのだ。国家予算の収奪戦だ。とどのつまり、人は金で動く。それが民主主義だ」


 その時、スマホが鳴った。


「失礼」


 二階堂が電話に出る。


「総理が?……」


 彼の顔から血の気が引いた。


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