第21話 予測の限界

 湯島天神は梅祭りで人出が多かった。東亜連邦共和国で新型のインフルエンザが流行っているとニュースが流れても、人々は楽しみを求めて人混みに集まる。


 情報局長の土崎は妻と娘を伴い、東都大を受験する娘のために拝殿に立って祈願した。部下には厳しい彼も妻と娘には甘く、半日だけ時間をつくったのだ。


 家族と昼食を済ませて情報局に戻ると、山伏と高村、花村の3人が、国際保健会議WHOが公開したばかりの東亜連邦共和国のインフルエンザ被害状況報告書を持って待っていた。


「大変な被害になりましたね。既にパンデミックの予兆が論じられています」


 局長室で4人が資料をにらんだ。


「新型インフルエンザが人工的に開発されたものだと知ったら、東亜も腰を抜かすだろう」


 土崎は苦笑してみせたが、山伏は怖い顔をしたままだ。


「東亜本土のインフルは、本当に東バタン基地から伝染したものでしょうか?」


「もともと山伏君が練った作戦だ。不審な点でもあるのか?」


「あまりにも広がるのが早いので、驚いているのです」


「治療薬がないからだろう。それに、感染して五日目から患者はウイルスをまき始める。その寿命も長い。理屈の上では、感染者の数は乗数的に増える」


「何も手を打たなければそうです。しかし、東亜連邦政府も無策ではない。先月のうちに患者の隔離政策をとっています。感染スピードが鈍化してもおかしくないはず……。何よりも問題なのが、死者が出ているということです。その数が半端ではない……」


 山伏が顔をゆがめた。


「衛生状態や国民の健康状態の影響ではありませんか?」


 高村が推理した。


「確かに、拡大場所を見れば貧困地域が多いが……」


突飛とっぴな考えかもしれませんが、我々の作戦が東亜連邦政府による反政府勢力潰しに利用されていることはありませんか?」


 花村が角度の違う推測を口にした。


「東亜連邦自身がウイルスを広めていると言うのか?」


「アメリカ製のウイルスで反政府主義者が死ぬとしたら、アメリカを外交的に叩けて一石二鳥です」


「なるほど。面白い考えだが、それはないだろう。まだ治療薬がないのだ。感染が押さえられなければ、国内はパニックになる。最悪、自由化の革命が起きる。コントロールできない疫病は東亜政府も望まないだろう」


「私も山伏君の意見に賛成だ。政府の人間が自ら感染する可能性のある作戦は取らないよ。権力者はわがままなものだ」


「そういうことではなく、実際の死因はウイルスではないかもしれないということです。今なら、唐突な死も、ウイルスのせいにできるでしょう」


「花村、何かつかんでいるのか?」


「いいえ、そういうわけでは……」


「それよりも〝かいりゅう〟の件が気になります。かれこれ1週間になりますが、帰港したと聞きません」


 高村が別の問題を持ち出すと、土崎が応じる。


「それは自衛隊に任せておけ」


「対処療法で完治するはずなのに、日本の医療を持っても治療できていないということです。もし、死者が出るようなことになったら、どうします?」


「そういったウイルスではない」


「しかし、東亜では死者が出ています」


「受け取った研究データは、正しいのでしょうか……。東亜の状況を見る限り、もっと強力なのではないか?……そして、これほど強力なウイルスなら、もしかしたらですが、ウイルスの開発と並行してワクチンや治療薬を用意している可能性もあります。再確認すべきではないでしょうか?」


「花村の意見はもっともだが、無駄なことだ。状況証拠だけで軍事機密を公開することはない。情報公開には前向きなアメリカでも、それは時が過ぎてからのことだ」


「状況証拠ではありません。現実に感染者がいるんです」


「はっきり言おう。感染者が死んでも、情報は手に入らない。ここはアメリカじゃないからな」


 高村は自分の見解を包み隠さず話した。軍事機密に限らない。経済問題であろうと政治問題であろうと、アメリカという国は自分の都合が悪くなれば、他国を利用する。それは同盟国の日本でも同じだ。アメリカのインフレや不良債権の処理に、どれだけ円が利用されてきたか……。それがわかっていても、日本という国は、いや、政府は、彼の国にがっちりと握られていて拒絶できない。下手に騒げば、政府そのものが吹っ飛んでしまう。それは、日本側もあれこれとアメリカに助けられていて、弱みを握られているからだ。その根底には太平洋戦争の敗北と、アメリカ文化の根底に根付いている人種差別意識がある。


「日本が信用されていないと言うことですか?」


「ああ。所詮、東洋のサルだ。情緒的なところで共感が得られない。一所懸命に尻尾を振ったところで、アメリカ国内のイヌやネコより信用されちゃいない。その関係を萩本総理は解消しようと考えておられる」


 アメリカ軍基地に出入りする山伏は、日頃の思いを口にした。


「とにかく予定通りに合同軍事訓練は実施される。インフルエンザの効果を加味すれば、我々の勝利は間違いない。東バタンどころか、その先さえありうるということだ」


 土崎は腕を組んで眼を閉じた。話を打ち切りたいときのサインだ。


§


 局長室を後にした山伏たちはそれぞれの席に戻った。


「局長の推測では、アメリカと東亜の全面戦争の可能性があると言うことですね?」


「アメリカが全面戦争を行うということは、自衛隊が前面に立つということだぞ」


 高村の応えに、花村が「まさか」と笑った。


 山伏は沈思黙考する。


 アメリカが東亜連邦軍と全面対決の選択をするとは考えられなかった。だからこそ合同軍事訓練を企画したのだ。大国同士の正面対決は、最悪、核戦争につながる。張り子の虎の東亜連邦がアメリカに勝つためにはそれしかないし、それに対抗するにはアメリカも核を使うしかなくなるからだ。


 そんな事態をアメリカ政府は望まないはずだ。インフルエンザだけで東亜連邦が衰退するなら……。それは悪魔のささやきだ。アメリカは、それならするかもしれない。


「俺は間違っていたのかもしれない」


 山伏の言葉を待っていたように、花村たちが集まってくる。


「次長、どういうことです?」


「元々俺の計算は、アメリカに対する信頼の上に成り立っていた。外交関係も人間関係と同じで、一定以上の信頼関係が無ければ交渉も会話も成立しない。その信頼関係を捨て去るとき、相互不信の渦が血で血を洗う対立を引き起こす」


「どういうことです。もう少し具体的に教えてください」


 近ごろの若者らしい。……安直に答えを求める花村に目を向けた。その表情に、悪気はない。自分の頭で考えろ!……無言で叱り、口を開く。


「電車で隣に座った男が、むやみやたらに他人を殴る男だと分かったら、隣でマンガ本を読めるか?」


「そんなの無理です。ずっと、警戒しますね」


 高村が答えた。


「僕なら隣には座りません」


 花村は、クールだ。


「どんな国家も、滅亡という恐怖があるから軍事力を保有するし、最低ラインの外交的信頼の維持に努める。それが国家という組織だ。その常識を捨ててしまったら、どうだ?」


「アメリカが隣で寝ている男を殴ると言うのですか?」


「それでは20世紀の帝国主義じゃないですか? いや、ロシアはやったか……」


「誰にも知られない完全犯罪の方法があり、それで欲望が満たされるとしたら、人はそれを使わずにいられるだろうか?」


「アメリカは、そんなに未熟な国でしょうか?」


 高村の疑問は、かつて山伏が自分自身に問いかけたものと同じだった。


「大統領の使いですが、……合同訓練は止めろと言いましたが、ウイルスの件には触れませんでした。どうしてだと思います?」


 花村が別な話を持ち出して、高村を困惑させる。


「ウイルスの件を知らなかったのか、容認しているのか。どちらかだろうな」


「東亜連邦の大統領なら、ウイルスを容認するでしょうか?」


「それはないだろう」


「ですよね。それなら次長が言ったように、あれはアメリカ大統領の使いだったということじゃないですか?」


「東亜政府によるウイルス拡散説を言ったのは花村だぞ。インフルの件がアメリカに対する大きな外交カードになるのは間違いない。しかし、素直に考えれば、東亜は、軍事的挑発は予想できても、ウイルスの件を察知できたとは考え難い。……今のところ、使いが東亜の者かアメリカの者かという件に関しては、五分五分だろう」


 山伏はそう応じながらも、大統領の使いは武力対決を避けたいアメリカの者だと考えていた。ならば、東バタン大島基地制圧後の軍事対決も、アメリカ抜きで行わなければならないのかもしれない。


 腕を組んで瞑目めいもくする山伏の前で、部下たちが大統領の使いの意図を、あれこれと議論し、見当を重ねた。

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