第20話 祈り

 水島は、総監室で東バタン基地の状況報告を端的に済ませた。話している途中、人の出入りが慌ただしくなって何らかのトラブルがあったのだろうと想像はしたが、それが〝かいりゅう〟艦内で起きていると考えることはなかった。


 総監も何事もないように装い、水島に事情を説明することはなかった。用件が済むと総監用の公用車を出して広島市の賃貸マンションまで水島を送った。


「総監からの命令です。三日は家の中でゆっくり休め、出勤には及ばない、とのことでした」


 運転手が真面目な顔で言った。水島は、気の利いた命令だと、総監の好意に感謝した。


§


 台所に立っていた妻の加奈子は、今朝、出かけた亭主が夕方になって帰ってきたようなさりげなさで迎えた。夫が家を長く離れることには慣れ切っていた。ところが、部屋に上がった水島の顔を見て初めて、いつもと違うことに気づいた。顔はすっかりやつれたうえに、何かに怯えたような表情そしている。


「お疲れのようですね」


「ああ、おかげで三日も休暇をもらったよ」


 着替えた水島が、リビングに続く畳の間に、ごろんと横になった。


「畳の感触は良いなぁ」


 そう言いながらも、落ち着かないように右肩を下にしたかと思えば左肩を下にと、姿勢を変えた。


 疲れているのだろう。加奈子はそう思った。夫の疲れを取るために、早々と風呂をわかした。その背中を流したのは、子供を産んで以来はじめてのことだった。


 夕食を並べていると、家ではめったに酒を口にしない水島が、「酒をくれ」と言った。その時は深く考えることもなく酒を出した。


 夜中のことだった。


「突撃!」


 加奈子は夫の大声で目を覚ました。隣で水島が身体を起こし、肩で息をしていた。


「大丈夫ですか?」


 案じたのは夫のことより、国立大学の二次試験を控えている息子のことだった。


「起こしたか。すまん」


 水島はそういうと横になった。


 加奈子は、暗闇の中で夫の背中をしばらく見ていたが、いつの間にか寝てしまった。


「突撃!」


 再び夫の叫ぶ声で、目を覚ました。今度ばかりは、夫のことを心底案じた。


「すまん」


 水島が床を出た。


 トイレにでも行ったのだろう。戻ったら、何があったのか尋ねよう。そう決めて待っていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。


 翌日も水島は酒を飲んだ。しかも、子供たちが学校に行くとすぐから、ちびちびとめるようにして酒を飲みはじめ、加奈子が気づくと寝てしまっている。


「風邪をひきますよ」


 水島に毛布を掛けた。夫の寝顔はしわが深く、幸せそうではなかった。


「突撃!」


 突然、水島が叫んで体を起こす。加奈子は驚いて尻餅をついた。


「あなた、何度もうなされて、どうしたの? 突撃って、どういうことですか?」


 普段は夫に意見しない加奈子も、昼間からうなされる夫を案じて非難めいた口を利いた。


「放っておいてくれ」


 水島が冷えた空気の中で、汗に濡れた身体を拭いた。


 翌日、水島が起きてくるのが遅かった。テレビではモーニングショーが始まっている。ここ15年、その番組が始まる前には、決まって席についている夫だった。


『萩本総理もやって来られますよー』


 キャスターたちの声が賑やかにした。翌月の復興記念公園のオープン式典について報じるものだ。それは災害の被災者に思いを寄せるというより、音楽イベントを紹介するようだった。


「熱があるのですか?」


 起きてこない水島を心配し、水島の枕元に座って額に手を当てた。


「うるさい!」


 乱暴に手を払われた。怒鳴られたのも初めてで、加奈子は驚きを隠せなかった。


「ひどいじゃないですか。何の説明もなく」


 ぷいっとその場を離れた。これまで黙って夫の言うとおりにしてきた自分が馬鹿に思えた。


 子供たちが起きだしてきた父親に一瞥をくれ、一言も口を利かずに家を出ていく。すると水島が酒を飲み始める。


 加奈子は、変わってしまった夫の背中を見守るしかなかった。


§


 三日間の休暇が終わり、水島は制服に身を包むと7時に家を出た。普段は路面電車で広島駅に出て、快速電車で呉に向かう。その日は足が反対の方向に向き、行きつけの床屋に入った。


「剃ってくれ。坊主になる」


「どうしたんじゃ、大将。まだ開店前じゃが……」


 床屋のあるじが頭を剃るという水島を案じた。


「少しぐらい融通を利かせろ」


 一言だけ言うと、後は眼を閉じて石のように黙った。坊主になるのは専守防衛を踏みにじった自分に対する制裁であり、後悔の表明のつもりだった。


 それまで角刈りだったものをつるつるに剃り上げてから基地に向かう。定刻より30分ほど遅れて着いたが、上官は文句を言わなかった。代わりに「まるで海坊主だな」と笑った。


 その日、水島は退職を申し出たが許されなかった。


「英雄が退官しては総監の顔に泥を塗ることになる」


「水島は知りすぎているからな。辞められては困ると思うぞ」


 同僚たちが好き勝手なことを言った。


「それでなくても合同軍事訓練やらなにやらで、今はごたごたしている。水島の都合だけで動かれても困る。1週間の休暇をやるから、ゆっくり考え直してこい」


 上官が水島の肩をたたいた。


 水島は翌日も、翌々日も基地に出向いて退官を申し出た。


 水島の意志が固いとわかり、自衛隊もやっと退官を認めたが、公安警察を監視につけることを忘れなかった。


 水島が退職の手続きに本部の建物に入ると、普段は静かな廊下を走る人間が多い。その中に楠木を見つけて声をかけた。


「何かあったのか?」


「水島2佐、隊を辞められるとか?」


 楠木は足を止めると懐かしそうに目を細めた。


「ああ、一身上の都合というやつで、これから手続きだ。それより、基地全体が騒がしいようだが」


「実は〝かいりゅう〟が大変なことになっているのです」


「どういうことだ?」


「ここではちょっと。夜、ペンタゴンで会いましょう」


 ペンタゴンは広島市内のカラオケボックスで、若い自衛官がよく使う場所だ。楠木は柳川を連れてやってきた。2人は水島がウイルスを使ったことを知らない。


「〝かいりゅう〟に何があった?」


「極秘事項ですが……」


 楠木はそこまで言いながら柳川と視線を交わして逡巡しゅんじゅんした。


「自分もまだ自衛官だ。秘密は守る」


 水島が言うと、楠木は話し始めた。


「生物兵器に汚染されて、隔離されているそうです。高知沖でウイルスの自然消滅を待っています。今は〝とさ〟が護衛に当たっています」


「まさか……」


「そのまさかですよ。我々がニューヘブンから持ち込んだ荷物が、それだったようです」


 水島は黙り込んだ。自分が持ち込んだ荷物のことは知っていたから驚かない。自分が感染していないのに、船の中でウイルスが拡散した理由がわからなかった。


「薬はないのか?」


「どうやら免疫を作らせないウイルスだそうです。一旦治ったように見えても、再び感染するやっかいなものだと聞いています」


「そうして体力が落ちると、死に至る可能性もあるとか。潜水艦の中はウイルスがいっぱいで、全員助からないのではないかという、うわさでもちきりです」


 楠木が苦笑いを漏らした。同じ自衛官とはいえ他人事なのだ。


「全員……」水島が眉間にしわを寄せた。


「いや、半分の隊員は感染前に上陸しているそうです」


「当然、艦長は船の中ということだな?」


「そうですよ。美人艦長だけは救い出したいですね」


「バカなことを言うな!」


 思わず大きな声を上げた。


 楠木と柳川は、かつての上司が感情的に怒るのをはじめて見た。


「すまん。俺は、あの船に乗っていたんだ」


 水島は正直に言った。


「水島2佐が?」


「ああ。吾妻艦長には借りがある」


「自分は、何も知らないで、……申し訳ありません」


 柳川が頭を下げた。


「いや、いい。それよりも今は、彼らを救うことだ。耳を貸せ」


 水島は長い話を始めた。訓練でするように、細かなことまで言い含めるようにコンコンと……。


 翌日、水島は加奈子に自衛隊を辞めたと告げた。唐突な話に彼女は面食らい、怒った。


「長い出張だと言って留守にしていたと思ったら、毎晩うなされ、今度は仕事を辞めたと言う。あなたは身勝手ですよ。どうして辞めちゃうのですか? これからどうやって食べて行けばいいのですか?」


 毎晩うなされる理由も頭を剃った理由も語らず、勝手に退職した水島を加奈子は責めた。大学受験中の息子と高校生の娘がいるから当然のことだった。


「しばらくは退職金で食いつないでくれ」


 水島は、どこへ行くと告げることもなく、世間から逃げるように旅に出た。〝かいりゅう〟の乗組員たちのことは気になったが、自衛官でなくなった水島にできることは、育てた部下を信じて祈ることだけだった。

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