大統領の使い

第18話 バレンタインデー

 恋人たちはバレンタインデーの甘い夜を楽しむ。告白する者はときめき、歓喜し、時に絶望する。そんな彼らを横目に、目を血走らせて働く者たちがいた。合同軍事訓練を企画遂行する情報局のメンバーだ。彼らは、そのひと月も前から世界各国の、特に、アメリカ、中国、東亜連邦の政府と軍部、情報機関の動きに神経をとがらせていた。寝不足と不規則な食生活が祟り、多くの者がホームレスにも近い体臭を発している。


 その日は特殊部隊が東バタン基地に潜入する予定日だった。誰もが〝かいりゅう〟と水島2佐の仕事に固唾かたずをのみ、普段なら厳しい言葉が飛び交う事務所内も、病院の廊下のように静かだった。


 そんな中、花村だけは違った。同僚たちの緊張、あるいは衰弱をよそに、恋人の藤野樹里ふじのじゅりと短いドライブ・デートを強行しようと決めていた。それほど樹里を愛していたし、執着に値する神秘的な魅力、いや、謎そのものが彼女にはあった。


「23時には戻ります」


 花村は、同僚の冷たい視線を背中に感じながら午後6時に事務所を出ると、あらかじめ借りておいたレンタカーに乗り込んだ。


「ナビ、新丸の内ビル前の交差点にやってくれ」


 目的地を告げると、『承知しました』と、ナビシステムが事務的に応えて車をスタートさせた。


 帰宅を急ぐサラリーマンが多い中、交差点でたたずむ赤いオーバーコートの樹里はひときわよく目立った。


「待たせたね。寒くなかった?」


 助手席に掛けた彼女の頬に手を当てた。冷たさがひんやりと伝わってくる。それでも彼女は、「全然平気よ」と明るく微笑んだ。


「そう、ありがとう」


 花村の胸が躍る。


「ナビ、アクアラインの海ほたるにやってくれ」


 目的地を告げると車が走り出す。


「べたなデートコースで恥ずかしいよ。でも、時間がなくてね。23時には事務所に戻らないといけない」


 花村は、20世紀に流行ったバンドのべたなラブソングを流して樹里の肩を抱き寄せた。


「気にしないで。でも、夜中にも仕事があるの?」


「今日は特別だよ」


「そうなんだ。私にとても特別な日よ。花村さんには、どんな特別なの?」


 樹里が可愛らしく小首をかしげる。そんな彼女の質問をスルーできない。とはいえ、事実も告げられない。


「重要な契約が決まるかどうかの瀬戸際なんだ」と、嘘を言った。


「真夜中に?」


「時差もあるからね。正式にわかるのは明日の早朝さ。それまでに僕らは、完璧な書類に仕上げておかなければならない」


「ふーん、なんだか難しいのね」


「ああ、仕事のことは忘れよう」


 花村は樹里のうなじに手を添えて引き寄せた。そっとキスを交わす。


『前方の安全確認を怠らないよう、お願いします』


 ナビシステムが警告を発した。自動運転システムが稼働していても、緊急時の対処義務はドライバーにあった。


「ああ、わかったよ。気を付ける」


 花村が謝罪すると、樹里がうふふと笑って花村の左の耳に息を吹きかけた。ゾクゾクいう快感に、彼女に対する愛着が深まった。


 2人は前回のデートから今日まであった出来事を報告しあい、お互いの愛情を確かめる。樹里は積極的で、お決まりのチョコレートを渡すより早く、花村の引き締まった肉体をまさぐった。


『極端な接触行為は危険です』


 ナビシステムがたびたび警告を発した。その度に花村は謝罪しなければならなかった。


 海ほたるで食事をした後、東京湾の内側に向いた場所に車を停めた。そこから望む東京湾の夜景はロマンチックだが、外で景色を堪能するには風が強く冷たすぎた。2人は車内で愛を確かめる。


「樹里、クリスマスの時の返事をもらえないか?」


 彼女の手を握りながら訊いた。昨年のクリスマスにプロポーズをしたのだが、付き合い始めて日が浅いから、と保留にされていたのだ。


「正直に言うわ。私、ハーフなの」


「ああ、それは君の灰色の瞳を見ればわかるよ。とても素敵な色だ」


「ありがとう。両親はニューヨークにいて、国籍はハンガリー。ママは、あなたとの結婚に反対すると思う」


「何故? 日本人だから?」


「違うわ」


 彼女がおおくき首を振った。


「ママは、国際結婚で苦労したから……」


 その時、ナビが話し始めた。


『省エネに努めてください』


うるさいな、今度は何だ」


「暖房をつけたままでいるからね。水素燃料を使いすぎると注意しているのよ。私たち、ナビシステムに監視されているみたい」


 樹里が微笑んだ。


 時々仕事で他人のナビシステムのデータを覗く花村は、それを指摘されたように感じて顔をしかめた。


 海ほたるでは1時間と少し過ごしただけで帰路についた。結局、樹里には良い返事をもらえなかった。デートを邪魔したナビシステムを壊さずに済んだのは、関わる時間が短かったからだ。


 車は川崎の高層ビル街を過ぎ、東京に入る。


「今度のデートはドライブだけじゃだめよ」


 樹里が言った。


「ナビのない車ならいいのかい?」


「そうね。本当に2人きりになれる車なら。ねえ、3月に旅行に行かない?」


 花村は戸惑った。予定通りに計画が進めば、3月には合同軍事訓練がある。場合によっては戦争になっているかもしれない。


「3月は無理だな」


「そう、残念」


「それより結婚のことだ。樹里のご両親に紹介してほしい。僕が説得するよ」


「そうね、考えてみるわ」


 そう言ったきり、樹里は黙った。やけに陽気なJ・ポップが花村をからかうように流れていた。


 午後10時30分、新丸の内ビル前に車が停まった。


「樹里……」


『新丸の内ビル前に到着しました』


 ナビシステムの声が、花村のそれと重なった。


「しばらく黙っていてくれ」


 花村は車の電源を落とした。


「凍え死ぬわよ」


 樹里が冗談を言った。


「ほんの少しの間だけさ」


 樹里を抱き寄せる。胸の中で甘い声がした。


「愛しているわ」


「僕もだ。旅行は、暖かくなってからにしよう」


「そう……」樹里が消沈した。


「すまない」


 彼女の顎を持ち上げて長いキスをした。歩道を行き交う通行人が車内に目を向けたが、みな見てみぬ振りをして通り過ぎた。


「僕は諦めないよ。樹里のご両親に会いたいと伝えてくれ。必要ならニューヨークでもハンガリーにでも出向くよ。でもね、ママのアドバイスは重要だけど、最後に決めるのは君だろう? 僕らは人生を豊かにするために一緒にいるべきだと思うんだ」


 必死の説得を試みたが、彼女の反応は「そうね」と薄っぺらい。


 樹里がドアを開けた。冷気が車内に駆け込んでくる。


「おやすみなさい」


「おやすみ……」


 花村は、樹里を開放して車のスイッチを入れた。赤いオーバーコートが地下鉄の入り口に吸い込まれるのを見届けてから発進させた。


 車は5分ほどで情報局の隣にある民間駐車場に滑り込み、花村はデートの余韻に浸った。しばらくしてから移動経路と2人の会話を記録したナビシステムのメモリーカードを抜いて車を降りた。


 数歩、歩いたところで背後から低い声がした。


「情報局の花村さんだね。山伏さんのところの」


 振り返ると、太い柱の陰から男性が姿を現した。関西のプロ野球チームのマークのついた野球帽を目深にかぶり、目はサングラス、口元はチェック柄のマフラーを巻いて隠している。コートはビジネスマンが愛用する特徴のないもので、黒い皮の手袋に黒の革靴を身に着けている。帽子とサングラスさえなければ、どこにでもいるビジネスマンだ。


「あなたは?」


「大統領の使いです」


「大統領?」


 バカなことを言うやつだと呆れたが、自分の予定をつかんで待ち伏せていたのだから、ただのバカではない、と気持ちを引き締めた。


「山伏さんに伝えてください。四カ国合同軍事訓練は慎重に行うようにと。それから東亜には手を出すな。わかりましたね」


「どういうことだ?」


「要件はそれだけだ」


 男は、サッと獣のような動きで柱の陰に消えた。


「おい!」


 花村が追うと、柱の陰から電動バイクが飛び出した。危うくぶつかるところを、花村は転がって避けた。


「クソッ! 待て!」


 バイクはスピードを落とすことなく走り去った。


 花村は情報局に駆け戻り、駐車場での出来事を山伏に報告した。


「大統領の使いだと?」


 彼にも見当がつかないようだった。


「僕のことや合同訓練のことを知っているところからみて、いたずらとは思えません」


「どこの大統領だ?」


「それは東亜、……ではないでしょうか?」


 花村は当たり前ではないかと思う。合同軍事訓練が実施されて不利益をこうむるのは東亜連邦共和国以外にない。


「アメリカにも大統領はいるぞ」


 そういう山伏の顔は、鬼のように見えた。


「それならフィリピンにもいます」


 言ってから、間抜けなことを口にした、と恥じた。


「ふむ、……花村は大統領の使いとやらの身元を割り出せ。私は官邸に行ってくる」


 花村は自分の席でパソコンを起動すると、駐車場の管理サーバーに潜り込む。ナビシステムが搭載してあれば入退車ログが残るからだ。


 データを検索しながら、どうして自分の行動が知られていたのか、あれこれ考えた。……情報局の人間というだけなら他にもいるし、情報局のことに詳しいのなら、その日、情報局の人間が事務所で缶詰めになっていると知っているだろう。ひとりだけデートに外出していると、どうやって調べたのか? まして普段使わない駐車場に自分がいると、どうしてわかるのか? あの時刻に?……思いつくのはレンタカーしかなかった。もしそのシステムがハッキングされていたなら……。いや、あの駐車場に戻るように命じたのは5分前だ。そんな短時間で、待ち伏せできるものだろうか?


 駐車場の管理サーバーに大統領の使いのログデータはなかった。そのバイクは旧式で、標準仕様ではナビシステムを搭載していなかった。警察庁のサーバーで検索すると、同型のバイクは都内だけでも427台登録されている。


 監視カメラの映像では、男は特殊なサングラスをかけていた。目の位置を変えて写し、顔認証システムの照合を混乱させるものだ。念のために顔認証システムにかけてみたが、予想通り対象者はヒットしなかった。


 バイクのナンバープレートにはガムテープが張られていた。後ろにつばを向けた野球帽のマークだけがやたらと鮮明だった。


 Nシステムの記録や、通りにある店舗の防犯カメラのシステムに侵入し、大統領の使いのバイクを追跡したが、それは新宿の路地を曲がったところを最後に見失った。バイクを乗り捨てた可能性が高い。乗り捨てるからには盗難車の可能性が高く、バイクの線から男の身元を割り出すのは無理だろう。花村は諦めた。


§


 総理官邸に足を運んだ山伏は、大統領の使いの警告を萩本総理に伝えた。「気にするな」と萩本は笑った。それで大統領の使いに対する山伏の関心は冷えた。総理が覚悟しているなら、横槍などに惑わされず突き進もう、と思った。


 情報局に幕僚監部から報告があったのは早朝だった。


「ウイルス、バイエル酸、二つの工作ともに成功したそうです」


 電話を取った高村の声に、局員は歓声を上げた。


「これで新しい時代が開かれるな」


 土崎と山伏が握手する姿を、花村が道化を見るような目で見ていた。


「次は合同軍事訓練だ。中国に逃げられないように、気持ちを引き締めて当たれ」


 土崎が声を上げると、局員たちはそれぞれの持ち場に着いた。

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