第19話 ウイルス

 任務を達成した水島は〝かいりゅう〟の部屋に閉じこもっていた。そこを出るのは食事とトイレを使う時だけだ。夜も昼も、うつらうつらと浅い眠りの中にあって同じ夢を見ていた。それは「あの歩哨はインフルエンザに感染しただろうか?」と東バタン基地で見た歩哨に同情をよせた時から始まった。


 夢は、漆黒の闇に懐中電灯の小さな明かりが生まれるところから始まる。光は徐々に明るさを増し、その中からニワトリの顔をした兵隊が現れる。水島が弾かれたように逃げ出すと、兵隊が追ってくる。その数は徐々に増えて水島を取り囲む。行き場を失った水島は、目の前に現れた海に飛び込む。そこならニワトリも敵兵も追ってこられないはずだった。自分よりうまく潜れる兵隊はいない、という自信があった。


 しかし、振り返るとそこにはペンギンのようにスイスイと泳ぐニワトリが沢山いた。彼らは「突撃!」と叫んだかと思うと、四方八方から水島を攻撃してくる。


 鋭いくちばしが、水島をつついた。空気ボンベを破壊しようと、キツツキのようにカンカンカンとそれを打った。ふとしたはずみでレギュレーターを奪われ、肺を海水が満たす。そうして水島は、喉をかきむしりながら目を覚ます……。


 ノックの音がする。吾妻勇気だった。


「もう種子島です。たまには外の空気を吸いませんか?」


 彼女に誘われて艦橋に上がり、満天の星を眺めた。ただ、天然の空気を胸いっぱいに吸っても息苦しさから解放されることはなかった。


「日本の海ですよ。もう、何も心配はいりません」


 彼女は、水島がひきこもり悪夢にうなされていることを案じていた。しかし、彼女が慰めても、水島の気持ちが晴れることはなかった。


 翌日〝かいりゅう〟は呉港の桟橋に接舷した。そこには総監が出迎えに出ていた。


「よくやってくれた。君は我が国の英雄だよ」


 彼が水島の手を握り、満面の笑みを浮かべた。


「はっ……」


 頭を垂れた水島の声は弱々しい。


「しかし……」


 総監が、コホンとわざとらしい咳を入れる。


「……成功したとはいえ、機密が外部に漏れてはいけない。君らは今回の事実をあの世まで持っていくのだ」


 彼の視線は吾妻勇気に向いていた。メディアでちやほやされる彼女が迂闊に口にしないよう、釘を刺したのだ。


「承知しております」


 勇気と水島の返事は同じだった。


「河本2佐はどうした?」


 総監が尋ねた。


「最先端生物科学研究所の米原博士と打ち合わせております」


 勇気が応じると、総監は満足したようにうなずいた。


「水島2佐には聞きたいことがある。ついてきなさい」


 水島は総監とともに総監室に向かった。


§


 総監と水島を見送ってから、吾妻勇気は〝かいりゅう〟に戻った。帰港したというのに、何故か艦内の空気がピリピリしていた。普段ならお祭りのような雰囲気になるのに、乗組員たちの表情が暗かった。


「艦長……」


 緊張した面持ちの伊東が寄ってくる。


「どうしたのです?」


「博士が嘔吐おうとしました。どうやらウイルスに感染しているようです。河本監察官と菊田2士も発熱を訴えています。衛生隊を呼んでもよいでしょうか?」


「待て。今回の作戦は基地内でも極秘です。何も知らない衛生隊を呼んでも対応できないでしょう……」


 勇気は少し考えた。


「……ウイルスが原因ならば設備のない基地内で拡散させてはまずい」


「設備がないのはここも同じですが」


 伊東の表情が曇った。面倒な病人はさっさと放り出せばいい、と顔に出ていた。


「山田医官は、まだ艦を降りていないのですね?」


「はい、治療にあたっています」


「それなら、ここで治療を続けましょう。隔離するなら艦内のほうが条件的にいいでしょう。とにかく総監部に無線で状況を報告してください。私は患者の様子を見てきます」


 米原が使っている特別室に、化学防護服を身に着けた山田医官が詰めている。勇気は、艦に備え付けの防毒マスクを付けてドアを開けた。


「どんな具合です?」


「いや、すごい熱で……。見ての通りです」


 勇気から米原が見えるよう、山田医官が部屋を出た。


 真っ赤な顔で荒い息をする米原が点滴につながっていた。全身には保冷材が当てられている。


「申し訳ありません。……ウイルスをボンベに移し替える際、……吸い込んだようです。……他の感染者もいるとか……」


 日頃生意気な米原が、息も絶え絶えに、他人を案じた。


「他人のことなど気にせず、自分の治療のことだけに集中してください。数日で回復すると聞いていますが、薬はないのですか?」


「……ありません。……ノロウイルスのようなしぶといやつです。対処療法だけで、……発病後5日もするとウイルスをまき散らす。……私が4日目、……そろそろ危ない。感染者の隔離を……」


「わかりました。心配しないで、ゆっくり休んでください」


 勇気は見舞いを述べて部屋を出た。


 通路に山田がしゃがみ込んでいた。


「河本監察官と菊田2士も特別室に隔離しています。ノロに近いというので嘔吐箇所は塩素消毒しましたが、空気感染もするそうです。感染力が強いらしいので、換気ダクトから艦内すべてにウイルスが拡散する可能性があります」


 彼の報告に不安が増した。


「感染力が強いとは?」


「少ない量のウイルスを吸い込んでもいけないということです。博士の話では、人間の生活環境ならひと月ほど生きるウイルスだそうで、もしウイルスの隔離に失敗すれば、遠くまで飛散する可能性もあります」


「ウイルスが宙を舞って、基地にまで拡散するということですか?」


「正確なことは言えませんが、その可能性はあるかと……。少なくとも、補給時に基地の隊員と接触するのは避けなければなりません」


 勇気は幹部をミーティングルームに集めて状況を説明した。


 艦の構造に詳しい臼杵うすきが発言を求める。


「酸素の生成システムは前後に二か所あります。隔離するためにダクトを遮断することはできますが、病人を入れている特別室の両側で遮断すると、そこに空気を送ることができなくなります」


 その場が沈黙に包まれた。


 勇気の中にひらめくものがあった。


「感染者を前部作業室に運び、前部の脱出管室と作業室、魚雷発射管室を隔離空間にしましょう。前部の酸素生成器の空気をそこに回して減圧する。そうすればウイルスが外部に漏れることは無いはず。隊員が出入りする際は防毒マスクを装着すること。できますね?」


「なるほど。脱出管の圧力調整装置で減圧するのですね」


 臼杵が賛同した。


「現在体調良好なものは上陸させます。体調不良の者と、衛生隊員、ここにいる幹部は艦内待機。よろしいですね」


 決意を促すように部下を見回した。


 伊東が手を上げた。


「先ほど総監部に報告したところ、状況が明確になるまで全員の艦内待機を命じられています」


「状況は今、はっきりしました。このまま全員がここに残っていては感染リスクが増すということです。基地内へのウイルス拡散を懸念するのなら、隊員を下ろしたのちに出航してもいい。太平洋上で感染者の治療に当たりましょう。操艦に当たる最低限の隊員には残ってもらいます。それでよろしいか?」


 了解と声を上げる者もいれば、頷くだけの者もいた。伊東は不服そうな顔をしていた。


「総監部には私が報告します。山田医官は衛生隊のしかるべき人を通じて、治療薬などについての情報収集に当たってください」


「了解しました」


「質問は? なければ、隊員を下ろしたのちに、患者3名の隔離作業に入ります」


 幹部が持ち場に戻ったころを見計らい、マイクを握った。


「〝かいりゅう〟乗組員の諸君。我々は日本の未来を拓く作戦をなし終えた。そのことは誇りに思ってほしい。総監に代わって私から礼を言う。ありがとう。……しかし、ここにきて新型インフルエンザウイルス感染者を出すに至り、合同訓練への参加を見送り、患者の治療と日本国内へのウイルス拡散阻止にあたることにした。これもまた立派な作戦だと承知願いたい。従って、インフルエンザ関連事項は重要機密であり、他言無用。決して外部に漏らしてはならない。現在判明している感染者は3名だが、体調のすぐれないもの、発熱、下痢などの症状のあるものは申し出てほしい。万全の態勢で治療にあたる。衛生、操舵、ソナーの隊員と、通信、レーダー、機関、給養の主任には継続任務を命ずるが、他の隊員は上陸を許可する。以上」


 勇気の報告で隊員たちの動揺は収まり、半数以上の隊員が上陸した。


〝かいりゅう〟は上陸した隊員に見送られて静かに出航する。それが、隊員を上陸させることを渋る総監部に対して、吾妻が提示した妥協案だった。


〝かいりゅう〟は、高知沖で回遊しながら患者の治療に専念する。半数以上の隊員を上陸させて戦闘能力を失った〝かいりゅう〟の頭上には護衛艦〝とさ〟があった。


 人の減った艦内は静けさを増し、治療にあたる者も、仕事がなくなって時間をつぶす者も、不安な時を過ごした。


「艦長、悪い知らせです。HHV2Cは獲得免疫、いわゆる抗体を作らせないウイルスです。どういった仕組みなのか、全く見当もつきません」


 幕僚幹部から情報を得た山田が蒼い顔をしていた。


「抗体を作らせないということは、どういうことでしょう?」


「ワクチンの製造は期待できないし、何度でも同じウイルスに感染するということです。今のところ、本人の自然免疫の力でウイルスを倒すしかないので、とにかく栄養補給に努めますが……」


「人が死ぬようなウイルスではないと聞いていましたが?」


「自然免疫で回復するから、理屈ではそうです。しかし、隔離することによって、自ら発したウイルスに再感染してしまう。永遠にウイルスにり患する可能性があります。そうなれば患者は衰弱するでしょう」


「時間の問題で、死ぬと言うことですね……」


「その可能性があるということです」


「隔離をやめれば、回復するのですか?」


「その可能性は高くなります。しかし、隔離をやめれば生命力の強いウイルスが拡散します。患者の命とウイルスの拡散防止と、どちらを選択するか、ということになります」


「手がないということですか?」


「完治した瞬間を見計らって隔離空間から出すしかありません」


「完治を確認する手段は?」


「今のところ、検査キットはありません」


 山田が左右に首を振った。

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