第17話 溶解する魂

 東バタン大島へ向かう時、水島は計画通りに到着することに集中していて、余計なことを考えることがなかった。基地での作業をすべて終え、島を離れてから、周囲に眼をやり考える余裕もできた。


 夜の海を行くのは、目を閉じて走っているような心持だ。不安しかない。自分はどうしてここにいるのだろう?……見るものがなくて考えるのは、そんなことばかりだ。……いや、部下と共に訓練に努めていた時には、自信に満ち溢れていたはずだ。ならば、今の不安はどこから来るのか?


 任務のためにここにいる。敵基地の破壊工作が任務だ。……敵?……そこで考えが行き詰った。まだ戦争は始まっていない。ついさっきまでいた場所は、……そこで見た兵隊は、……〝敵〟なのか?


 毒性が低いとはいえ、意図して使えばインフルエンザウイルスも生物兵器だ。そのウイルスを吸い込む人間は、〝敵〟なのか?……水島は、海流にもまれながら考え続けた。


 こんなことは、ウイルスをく前に考えるべきだった。……水島は呻き、嘆き、声にならない声で叫んだ。


 気が狂いそうだ。……そんな自分の声が頭を過る。その時だった。


 ――キュゥーン・キュゥーウン――


 水島はクジラの声を聞いた。ほんの数秒の短いものだったが、まるで悩む自分を慰めているようだ。歌ったのは〝かいりゅう〟に違いない。……水島の意識は現実に踏みとどまり、暗闇に吾妻勇気の白い顔を探した。


 勇気の顔が見えるはずはなかった。それでも彼女の配慮に強く心を握られた。有難いと思った。位置を指し示してくれたことにではなく、共にいる、と伝えてくれたことが嬉しかった。


 改めて、東バタン大島という現実から逃げるように、歌声が聞こえた場所に向かって全力を使った。


 暗闇はどこも同じに見えたが、水島はある一点に達したとき、水中スクーターのモーターを止めた。そこが合流地点だと、狂いかけた理性が告げていた。


 出発時に危惧した通り、水中で〝かいりゅう〟の発光信号を見ることはできなかった。装備した市販のGPSも、海中では何の役にも立たない。


 何故、彼女はいない?……水島は水中スクーターのスクリューを回すと、その場で大きな円を描くように旋回しながら〝かいりゅう〟を、勇気を探した。


 聞いたクジラの声は幻聴だったのか?……いつしか、そんな風に考えるようになっていた。水中スクーターのバッテリーも、残りわずか。それで海面を目指すことにした。耳でわからなければ、眼に、あるいはGPSに頼るしかない。


 海上は強いうねりで風も強かった。海流が早いわけにも納得がいった。救われた気持ちになったのは、海は荒れていても、空に雲がなかったからだ。紺碧の宇宙に星々が敷き詰められていて、そこにGPS衛星が浮いている。


 水島はレギュレーターをはずし、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んでから波に身を任せて自分の位置を確認した。


「ここで間違いないが……」


 バイエル酸の設置と時化しけた海に邪魔されて合流地点への到着は30分ほど遅れたが、クジラの歌は自分を待っていると言ったように聞こえたし、なによりも、あの勇気が自分を置いて帰るはずがないという確信があった。


 周囲を見回して〝かいりゅう〟の潜望鏡を探すと思わぬものが目に入った。東亜連邦軍の駆逐艦だ。それが近づいて来るので〝かいりゅう〟はこの海域を離脱したのに違いないと思った。


 置いて行かれるのはやむを得ない、と理性が言った。しかし寂しい、と感情が言った。


 不測の事態に備えて、バッテリーの切れかけた水中スクーターと、ウイルスの痕跡が残る酸素ボンベを放棄する。


「これも、ウイルスなど使った罰か」


 島を離れてからずっと頭に張り付いていた後悔を口にした。


「さて、どうする……バタンまで400キロ、石垣島まで600キロ……」


 そこまで泳ぎきることは出来ない。東亜連邦軍の船に救助を求めるか、波に運命を任せるか……、選択肢は少ない。


 トビウオが飛ぶような勢いで空が明るさを増していた。その勢いに意識を奪われていると、大きな波が押し寄せた。駆逐艦のつくる波だった。


 甲板を移動する水夫の姿が見える。監視がしっかりしているなら、自分は発見されるだろうと思った。見つかった場合、撃たれるのか船上に引き上げられるのか……、それとも今からでも水中に潜るか……。そんなことを考えているあいだに、駆逐艦は水島を発見することなく通り過ぎた。


 まだ運があるのかもしれない。それとも、もっと苦しめということか?……水島は遠ざかる駆逐艦の船尾の灯りを見送った。


 ダイバーウオッチを見ると合流予定時刻を40分ほど過ぎている。


「さてどうしたものか……」


 仰向けに浮いて蠍座さそりざを眺めた。妻の星座だ。白み始めた空で、星々は必死に存在を主張している。


 2人の子供の顔が脳裏をよぎる。


「会いたい」


 つぶやくと「会う資格などあるものか」と別の自分が未練がましい自分をあざ笑い、潔さを求めた。


 勇気の澄んだ瞳が思い浮かぶ。武士道、……彼女はそう言った。


 勇気ならどうするだろうか?……考えたが答えは浮かばなかった。


 勇気は、俺の死を、俺の思いを家族に伝えてくれるだろうか? 妻と子供には、自分が何のために死んだのかを知ってほしい。国のため……、家族のため……、無茶な作戦のため……、人を殺すため……。思考が空回りした。


 ――海ゆかば……、頭の中を古い音楽が流れた。メロディーをハミングする。それは水島の魂が、わだかまった哀しみと憤りを吐き出すのに必要な音だった。


 水島の音楽は波の音に溶けて心を慰める。歌詞にある水に浸かったしかばねとは、俺の葬送曲にぴったりだ。誰も知らなくていい。心静かに逝こう。……決断した魂は明滅し、虚空こくうに溶け始めていた。


 蠍座を眺めながら、北極星を思った。水島は、北の空で沈黙する北極星に憧れていた。


 泳ぐことと戦うことしか考えてこなかった水島の意識が、家族のことを、国のことを、政治のことを、そして生き方を真剣に考えていた。今更どうして、と苦悶しながら。……そうしてすべてを受け入れた魂が分解して消えかけた時、一つの音が核を作った。クジラの歌だった。


 ――キュゥーン・キュゥーウン――


 散り散りになりかけた魂の欠片かけらが声の周りに凝集した。


 大きな波の音の中から歌声を聞き分けることが出来たのは、常に自分自身をいじめぬき、鍛えぬいた水島だからだが、本人にそんな気持ちはなかった。


「おむかえか」


 喜びの感情より戸惑いが大きい。このまま救われて良いのだろうか?……そう考えながらも身体は正直だった。表情に精気が戻っていた。


 大きく息を吸い込むと海に潜った。鳴き声が〝かいりゅう〟のものなら生きて帰る。本物のクジラのものなら、それは死神の使者だ。その運命に従おう、と決めていた。


 30メートルほど潜ると〝かいりゅう〟の発光信号が見える。 真っ黒な巨体も判別できた。


 ホッとしたのもつかの間、それが止まっていないことに気付いた。イワシの群れを追うさめのように、なおも浮上し続けている。


 自分を探すために海上まで浮上するつもりなのだ。……驚き、危険を承知で艦体に取りついた。


 水圧が水島の背骨を激しく圧迫した。――ゲホッ――空気の泡が口から逃げて行く。


 ――トン、トトト、トン……、夢中で外殻を叩いた。


 何度か叩くと、突然、背中を圧迫する力が消えた。〝かいりゅう〟が浮上をやめていた。脱出管のハッチがぽっかりと口を開ける。そこにかろうじて潜りこんだ時、水島の肺に残された酸素はわずかだった。脱出管内の海水が排出されるまで、息が持つだろうか?


 ハッチが閉まると安堵し、めまいを覚えた。奥の排水スイッチの場所までたどり着けそうになかった。それでも這って、そこを目指した。


 気を失うな。作戦中だ。水島! 水島! 水島!……意識を失わないよう、自分を呼び続けた。


 外部でスイッチが押され、脱出管内の排水が始まる。静かに空気が流れ込んだ。


 空気だ!……水島は仰向けになり、天井を舐めるように口を開けた。そうしてわずかな空気を吸った。


 ――グハッ――


 肺がおめいた。


 空気の量が増えるに伴い、水島の身体が楽になった。海水の排出が終わるころには水島の呼吸はすっかり元に戻っていた。


 内側のハッチが開き、眩い明りに目を瞬かせる。そこがまるで天国か自分の家のように感じられた。


 濃い影を作り、水島の手を握って脱出管から引き出したのは勇気だった。


「お帰りなさい。よく、ご無事で……」


 彼女は、人目もはばからずに水島を抱きしめた。


「ありがとう。東亜の駆逐艦を見た時は、もうだめだと思いました」


 言いながら、水島は勇気の肩を押しやった。彼女の戦闘服がぬれていた。


「待つことが出来ずに心配をかけしました。でも、無事に戻られて良かった」


「こちらこそ感謝します。状況を報告すべきところですが、着替えさせてもらっていいかな。膀胱ぼうこうがぱんぱんだ」


 水島が怖い顔で言うと、勇気が笑みを浮かべた。


『艦長!……』スピーカーから声がする。『……レッド・シー01転舵。こちらに向かってきます』


「クジラの歌を怪しんだか。急速潜航、深度500。速力40、振り切れ」


 勇気が小走りで発令所へ向かった。


 水島はシャワーを浴び、生還した喜びが冷えていくのを覚えた。泳ぎながら感じていた後悔は多分に感情的なものだったが、再び身体の内側から圧力を高めたそれは理性に根付いている。


 人に会うのが億劫おっくうに感じられたが、着替えて艦長室に向かった。


 水島と勇気は、出発前と同じように向かい合って座った。勇気の戦闘服は、まだ少し濡れている。


「駆逐艦はどうなりましたか?」


「振り切りましたよ。彼らは〝かいりゅう〟の影さえ見ることができなかったでしょう。今頃は本物のクジラがいたのだと、無理やり納得しているはずです」


 勇気が熱いコーヒーを勧めた。


 出発前のコーヒーは利尿作用を懸念して薄かった、帰艦を祝うコーヒーは濃かった。しかし、彼女の配慮も微笑みも、水島の気持ちを癒すことはなかった。


「帰艦が遅れて、申し訳ありませんでした」


 水島は東バタン基地での活動状況は話さなかった。彼女には関係がないことだからだ。ただ合流予定時刻に遅れたことを詫びた。


「難しい任務だったのです。水島さんが詫びることではありません」


「自分が遅れ、皆さんを危険にさらしました。ここは東亜連邦が領海と主張する海域です。駆逐艦に発見されていたら、攻撃を受ける可能性があった」


「もしレッド・シーが攻撃してきたら、こっちが沈めてやりましたよ」


 彼女は威勢よく言ったが、実際に攻撃されても反撃しないことを水島は承知している。相手国がそこを領海と主張している以上、潜水艦は水中にいるだけで攻撃しているとみなされる。まして武器を使えば、日本の潜水艦だと知られる可能性が高い。それは長年築き上げてきた日本と自衛隊に対する国際的信用を崩し去ってしまう行為だ。彼女の一存で出来ることではなかった。


「専守防衛とは、何なのでしょう?」


 水島はそれだけ言うと口を閉じた。勇気は考える仕草を見せたが、言葉を発することがなかった。


「……ずいぶんお疲れのようです」


 勇気の言葉を潮に、水島は席を立った

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