第15話 時を待つ亡霊
一之瀬は誰もいない
大通りに面した土地には高層ビルが立ち並び、一之瀬の部屋にはほとんど陽が当らない。風が流れることも珍しい。それでカビを防ぐために家具を減らしていて、室内はがらんとしている。それでも床や壁はじめじめしているので、子供のために転居すべきだと思うのだが、引っ越した先での仕事や保育園、日明研事務所への距離など、難しいハードルが多かった。
一之瀬は仕事が終わると日明研に立ち寄り、企画や広報誌作成の作業をしている。それをするのは金のためではない。自分が自分自身であるためだ。日明研はそのために重要な存在だった。
からりと乾燥していたテキサスの空気を懐かしく思いながら、暖房のスイッチを入れてトランクの整理を始めた。時差ボケの脳は身体を石のようにしていて、スーツケースの中身が空っぽになったときには夕方になっていた。
ゴト、と音がして玄関ドアが開く。見ると妻と娘が立っていた。
「パパ、おかえりなちゃい」
ピンク色のマスクをした智慧が駆けてきて抱き着いた。美弥子は今にも泣きそうな顔をしている。
「マスク、どうした?」
「保育園で、インフルエンザが流行っているのよ。さあ、うがいをして」
美弥子が娘のマスクを取った。
智慧はガラガラとおざなりなうがいを済ますと一之瀬の膝に乗った。
「クチャイ」
自分の鼻をつまんでから、もう一方の小さな手で一之瀬の鼻をつまむ。
「お風呂に入ってくださいな」
美弥子が浴槽に湯をはった。
「チーも入る!」
智慧は背伸びをして右手を挙げた。
一之瀬の膝の上で智慧がキャッキャとはしゃぐ。テキサスではシャワーばかりで、湯船に浸かるのは2週間ぶりだった。強張った緊張が、智慧の未熟な言葉と共にお湯の中に拡散する。幸福な時間だった。
ライフル銃で的を狙うとき、エネルギーの集中で得られる緊張感に満ちた瞬間も幸福だった。火薬の匂いが懐かしい。
二つの幸せは全く違う種類のものだ。自分はどちらの幸福を得たいのだろう?
智慧が寝てから妻を抱いた。2週間ぶりのセックスは新鮮で激しかった。暗闇の中で汗を滴らせる妻の姿に野性を感じた。
「今日はそのまま……」美弥子が望んだ。
「だめだよ」
「なぜ?」
「子供が出来たら生活していけない」
それは一之瀬夫婦の哀しい現実だ。
「田舎に帰れば何とかなるわよ。実家で鶏を飼いましょう」
一之瀬は妻の言葉に驚き、そして萎えた。
「今さら農業なんて……」
一之瀬の故郷は宮崎で、両親は養鶏で暮らしを立てている。その後を継ぐことを以前は考えていたが、美弥子と結婚する時にきっぱりと忘れることにした。美弥子が東京を離れたくないと言ったからだ。
「あなたがアメリカに行っている間とても寂しかった。不安だった。こんなに寂しい思いをするくらいなら、田舎で暮らしてもいいと思ったの」
美弥子は田舎に行こうと言うが、それはアメリカで訓練した2週間を無駄にすることであり、日明研を裏切ることだ。
「どうしちゃったのよ。農業も建設業も肉体労働に違いはないじゃない」
美弥子は何もわかっていない。……妻の前の自分が、魂のない
「俺には使命がある。それを成し遂げるまでは、田舎には帰れないんだよ」
「日明研のことね」
「……そうだ」
家族を守るために日明研の活動が必要なのだ、と心の中で付け加えた。
「それって、家族よりも大切なものなの?」
「比較することじゃない。人として国を守るために大切なことだ。わかってくれ」
「あなたが日明研に入ってから、どんどん遠くに離れていくような気がする」
美弥子が離れて背中を向けた。
一之瀬の中で世界が揺らいだ。
§
友永は世田谷の自宅に帰った。父親は都内に数軒の飲食店を所有していて、友永は仕事をしなくても贅沢な生活ができる環境にあった。
「修造さん、お帰りなさい。疲れたでしょう」
出迎えた
「アメリカはどうでした?」
彼女は、友永の大きな荷物を手に取って微笑んだ。
「別に……」
「あら、そんな感想だけですか?」
夕子がしつこいのはいつものことだ。自分が納得できる返事を聞くまで質問を重ねることが多い。それが性格なのか、義理の息子と親しくなろうとしてのことなのか、友永は時々考えることがある。
夕子が部屋の隅に荷物を置いた。
「でかかったよ。国も女も」
アンナの顔を思い出し、わざと乱暴に言い放った。目の前に立った夕子がアンナより若く美しくても、母親を気取る姿はおぞましいと感じた。
そんな友永を夕子は
アンナが母親だったらよかったのに……。そう思うと股間が膨らんで始末に困る。
「変なことをしてきたんじゃないでしょうね。お父様に叱られますよ」
友永は驚いた。自分の心が見透かされたようだ。股間を隠すように、皮のソファーに横になる。夕子は友永の下半身に視線を走らせた後、キッチンへ向かった。
「親父なんか関係ないさ」
友永の声は扉に跳ね返された。
実の母は友永が中学生になって反抗するようになると、事あるごとに殴り罵倒するようになった。力で負けるはずはなかったが、母親が怒っている時は黙って殴られていた。何故、反撃しなかったのか、今もわからない。
結局、母は、友永が中学2年の秋に家を出て行った。時々母を懐かしく思うことがあるが、それは幼いころの甘い記憶があるからだ。
街で出会ったら母の顔が分かるだろうか?……友永には自信がなかった。記憶にある母の顔は幼かった頃の優しい笑顔のままで、殴られるようになってからの顔はなかった。
母が家を出て間もなく父親が夕子と再婚し、歳の離れた妹が出来た。母の暴力の原因が父親の不倫にあったのだと思うようになったのは、大学に入学してからだった。
日明研の活動に参加したのは、世の中を、家族を、そして自分を壊してしまいたかったからだ。胸の奥に凝り固まった憤りをまき散らし、ぶつけて発散する何かが欲しかった。日明研の正義は、それにぴったりだった。
夕子が同居して10年ほどになる。友永はまだ彼女を母親としては受け入れられず、「母さん」と呼んだことがない。彼女の存在が母を不幸にしたわけで、自分はその影響を受けた被害者だと思っている。
テレビのスイッチを入れて初めて、アメリカではテレビをほとんど見なかったことに気づいた。120インチの液晶テレビに、食べ歩きのレポーターの顔が大きく映る。実物より大きく映るのは悪趣味だと思う。見なくてもいい毛穴や奥歯の詰め物まで見せられるのは気持ち悪い。
日本にあるものは、醜いものばかりだと思う。
チャンネルを変えた。料理番組、芸能ニュース、旅行番組……。岐阜市の銃砲店で猟銃が盗まれたというニュースがあってチャンネルを変えるのを止めた。
どんな猟銃だろう?……ニュースが友永の疑問に答えることはなかった。その短いニュースが終わるとテレビを消した。
「くだらない」
暗闇のように何物も寄せ付けないディスプレー。それは射撃場の周囲に広がる乾燥したテキサスの大地を思わせた。それこそが友永の落ち着く映像で、股間も落ち着きを取り戻した。
夕子が紅茶を淹れてきて、テーブルに置いた。ブランデーの小瓶が添えてある。
「将来は、お父様の後を継ぐのでしょ?」
夕子がため息をつきながら正面の椅子に座った。目の前に義母の白い膝小僧が並ぶ。
父親の視線を背後に感じて慌てて体を起こした。頭ではいるはずがないとわかっていても、振り返らずにいられなかった。その不自然な行動を隠すために、小瓶に残っていたブランデーを全部ティーカップに注いだ。
「僕は経営なんかに関心はない。金持ちも嫌いだ」
ティーカップに向かって言った。
ブランデーの強い香りが鼻孔を焼く。
「そんなことはお金があるから言えるのですよ」
「貧乏人はもっと嫌いだ」
「まぁまぁ……」
夕子が呆れた表情になった。
私が甘やかしてしまったから。……彼女が父親に言うのを何度か聞いたことがある。
「なぜ……」
そこで迷った。
「なあに?」
小さな唇から白い歯がのぞく。
「僕がアメリカで変なことをしてきたらどうする?」
継母を困らせたかった。
「お父さんには社会的地位も名声もありますからね。私たちがそれを壊すようなことがあってはいけないのよ」
「親父が家庭を壊してもか?」
「えっ?」
夕子が戸惑いを見せた。
「人妻を抱いた。アメリカで」
友永は嘘を言った。三沢とアンナが満天の星空のもとで抱き合うさまを、指をくわえてみていた。それを自分のことのように言った。精一杯の背伸びだった。
「そんな……」
夕子が、口から心臓が飛び出すのを抑えるかのように、唇に両手を重ねた。しばらくしてから彼女の口をついたのは平凡な言葉だった。
「不倫なんていけないわ」
「僕は、あなたと同じことをしただけだ」
「どういうこと?」
「他人のものと関係した」
「そんな……」
彼女が再び口をふさいだ。
「とても喜んでもらえたよ。その人はアンナっていうんだ」
「愛しているの?」
「わからない。ただ、アンナが母親だったら良かったと思ったよ」
夕子の顔が歪んだ。
「その人は優しかったのね」
夕子が友永の隣に席を移した。そして友永を抱きしめた。
最初は夕子を押しのけようとした。けれど、止めた。
「最初から始めましょう。あなたは私の一部なのよ」
夕子の言葉に友永は涙した。虚ろな魂が、継母にすがる自分を笑った。
§
三沢は町田のアパートに帰った。そこは2DKで、大学入学時から住んでいる。
学生の頃は兄と同居していて、授業料や友人と遊ぶ費用はアルバイトと奨学金で賄い、生活は両親からの仕送りで十分にやっていけた。しかし、兄が転勤で部屋を出てから家賃の負担が増え、奨学金を増やさざるを得なかった。卒業してメーカーに就職したものの、奨学金を返済するだけの汲々とした毎日に直面した。
問題は奨学金だけではなかった。上司の機嫌に気を使いながら職場とアパートを行き来することに虚しさを覚えた。そんな生活が続くと、学生の頃には感じていなかったのだが、社会が間違っていると思うようになった。
会社を辞めて日明研の活動に没頭するようになったのは、世の中の誤りを正すためであり、自分の正しさを証明するためだ。
アルバイトをしながら日明研の活動をするのは経済的に苦しかったが、サラリーマンだったころより生きることが少し楽になった。精神が解放された、そんな気がしていた。
日明研のメンバーで三沢より若い
アパートの外階段を上り、ドアの前に立つ。ドアノブを握ると、先の見えない生活が目の前にちらついて気持ちが重くなった。
早く誰かを撃ち殺して、世の中を変えたいと切実に思う。ただ、誰を殺せばいいのかわからない。
鍵はかかっていなかった。深呼吸をしてからドアノブを引いた。
「おかえり。元気そうだね」
内藤はラグビーで鍛えた筋骨隆々とした体格をしていた。当初はただの同居人も、生活のリズムを合わせて暮らすだけで、思想的にも精神的にも共感することが増えた。そして相手の存在が生甲斐の一部になった。誰かに支えられている、誰かが自分を必要としている。そういった感覚は、人生に苦しむ三沢を慰めた。
一体感から生まれる満足は欲求を強め、精神の域を超えた融合を期待し始めた。そういう男たちは、この世に沢山いる。今一歩!……踏み出せば完全な一致が得られる、と考えていた時に、三沢は天下の指示でアメリカに渡った。
「アメリカはどうだった?」
内藤が訊いた。
「ああ、色々と勉強になったよ」
「なんだか近寄りがたい雰囲気があるよ」
3週間前、内藤もアメリカに行きたいと漏らしたことがあった。しかし、2人とも仕事を止めてアメリカに行くのはリスクが多かった。蓄えがないから家賃を払うのも難しい。帰国してから住まいがないというのでは、それ以降の生活設計が成り立たない。結果、内藤が涙をのんで残ってくれたのだ。そうした事情があったから、旅をしてきた三沢に内藤が嫉妬し、恨んでもおかしくなかった。
「広い世界を見たからだな。僕は心底、世界を変えたくなったよ」
「世界を変えるって?」
「デモ活動には限界を感じていたからな」
三沢はスーツケースを部屋の隅において小さな食卓に腰を下ろした。時差ぼけの身体が、椅子に根を生やしてしまったように感じた。
「荷物の片づけを手伝うよ」
「いいや、大丈夫だ。一人でやれる」
以前なら内藤の申し出に甘えただろう。実際は、拒絶し、逃げた。アメリカで想像もしなかったホームシックに陥り、アンナと不用意にも肉体関係を持ったからだ。三沢は、内藤が2週間前とかわらない様子で出迎えてくれたことに後ろめたさを感じていた。
「向こうで事件があったようだね。何があった?」
内藤が三沢の変化を見抜いていた。
2週間前まで2人の気持はぴったりと一致していて、限りない安心感を与えあっていた。世間ではそれを、負け犬が傷を舐めあっているという。ところが今は違った。三沢は内藤に対して優越感を持っていた。
「アメリカで、初めて女を知った」
正直に告げた。それでも、内藤も女性を抱くべきだとは言わなかった。
内藤の顔から血の気が失せていた。
「僕の気持ちを知らないわけじゃないだろう」
彼の告白が重い。
「すまない。成り行きで……。いや、正直に言おう。僕はセックスを通して、生きる力を得た」
「エッ?」
内藤が目を丸くした。やがて瞳は涙におおわれた。
彼の顔を見るのが辛くて、三沢は内藤の肩を抱いた。手のひらにラグビーで鍛えられた筋肉が痙攣しているのを感じた。
三沢の抱擁はおざなりなものだったが、内藤の腕は三沢を締め付けた。体温が行きかうと三沢は後悔に沈んだ。
「僕が悪かったよ」
三沢の謝罪は上滑りしていたが、沈黙よりはましだった。
内藤が大きなため息をついた。
「コーヒーを淹れるよ」
内藤がキッチンに向かう。その背中が泣いていた。
三沢の好きなベトナムコーヒーの香りが部屋を満たし、時差ボケに揺れる脳を支えた。
「すまないな」
コーヒーの香りに2週間前の自分を探しながら、自分を演じる。舌はコーヒーの熱さも苦さも、大量の砂糖の甘さも思い出していて、人差指は本来あるべきマグカップの重さを認めていた。それで、テキサスで触れたトリガーの温度と抵抗を思い出した。トリガーの記憶が、自分の身に深く刻まれたことに驚き、満足した。
コーヒーを飲みほした時、大切なことを忘れてしまっているような気がした。心の中に穴が開いた感覚だ。
なんだろう?……空のコーヒーカップを手に、あれこれと考えた。
「もう一杯飲むかい?」
内藤が、コーヒーカップを指した。
その時、忘れたものがアンナの肌の感触だと気づいた。
「いや、いいよ」
魂を失ったような、空のコーヒーカップに目を落とした。
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