第14話 ある愛のカタチ
アメリカから帰国した手塚は、1年前から付き合い始めた
美麗と知り合ったのは、フィリピンで実施された合同軍事訓練の時だ。それは模擬戦で、仮想敵国に見立てたアメリカ海兵隊を、フィリピン陸軍と共に迎え撃つというものだった。ジャングルに潜み、仮想敵部隊を待ち伏せる退屈な戦いだ。
「慌てるな。最後に1人だけ多く生き残ればいいのだ」
手塚の上官が言い続けた。それが模擬戦のルールで、かつてのアメリカの戦争を
手塚の部隊はジャングルの奥地でゲリラ戦を展開し、アメリカ海兵隊を撤退させた。土地を守ることが国防というのなら、手塚の部隊は勝利した。多くの兵隊が生き残ることを国防というならば、手塚の部隊は敗れた。
アメリカは、アフガンやイラクで何を学んだんだ?……諸外国に次々と手を出す、アメリカの終わらない戦争に滑稽なものを感じるのは手塚ひとりではないが、隊員同士で議論することはなかった。議論は幕僚の仕事で兵隊がやることではない。軍隊とはそういうところだ。
それでも手塚は、アメリカの将校に終わらない戦争の話をしたことがあった。
「我々は局地的な戦闘の勝敗よりも、戦略的結果を重視している。敵を全滅させるような戦争は望んでいない。重要なのは戦闘員の生命と戦闘結果のバランスだ。敵よりも味方の戦力が勝ってさえいれば、後は交渉だからだ。戦争の終わりを決めるのは、軍人ではなく政治家なのだ」
戦力という観点からは、過去の多くの戦争は始める前からアメリカが勝っていた。それでも戦争は始まり、そして綺麗に終えることができていない。
将校は、政治家が悪いと言っているのだろうか?……論理的なのか
ジャングルでの訓練を終えると三日間の休暇が与えられ、ホテルのプライベートビーチでくつろいだ。その時に水着姿の美麗を見てひと目惚れした。
美麗は均整のとれた四肢を優雅に使って波を切って泳いでいた。海から上がった彼女の、濡れた髪が胸に張り付いた姿は伝説の人魚を連想させた。鼻筋が通った彫の深い顔とそばかすが目立つのは白人の特徴で、細く引き締まった筋肉と少し上を向いた尻の肉付きはアフリカ系の特徴だ。黒曜石のような瞳は中東の女性のようなエキゾチックな香りを漂わせていた。
――美しいものには棘がある。
棘は中国系マフィアの
「お前、何者だ?」
チンピラは返事も待たずに殴り掛かってきた。
「旅の途中の通りすがりの者でございます」
テレビドラマよろしくジョークを言ってみたが、それが通じる相手ではなかった。多勢に無勢。避けたり逃げたりするのにも限界があり、腕を取られて羽交い絞めにされた。腹部で炸裂する痛みがあり、ぼんやりと天国への階段が見えた。
「止めなさい!」
乾いた空気に凛と通る美麗の声は、天上の女神のもののようだった。
「向こうに行きなさい」
チンピラたちは、命じられるままにボスの所に帰った。
「大丈夫?」
美麗が砂浜に座り込んだ手塚の額に手を当てた。
その手が、ひどく冷たく感じた。目の前に白い大きな胸が近づいて、痛みは飛んで消えた。
「彼らは何者だい?」
「私の連れの部下よ」
「言葉が通じないのは困ったものだ。彼らと語り合うのには、武器が必要なのかな?」
「命を大事にしない人は嫌いよ」
美麗が大きな目を三日月形に細めて言った。
「命を捨てるのが仕事なんだ」
「軍人さん?」
「のようなものだ」
「自衛隊ね」
美麗は微笑み、手塚のハートをわしづかみにすると、小さなバックから百ドル札を取り出して手塚の海水パンツの中に押し込んだ。
「本当に命を捨てたくなったら連絡をちょうだい」
美鈴はそう言い残して周の元へ駆けた。
砂浜を蹴る小さな足から、手塚は目が離せなかった。折りたたんだ百ドル札を手に取ると、挟んであった名刺が落ちた。
その夜、缶ビールを飲みながらビーチを散歩していると、渚を歩く美麗を見つけた。彼女は真っ白なワンピース姿で波打ち際を裸足で歩いていた。星空を見上げたり、足元にまとわりつく波を蹴ったり、周囲の人間には関心を示さず、無人島にいるようにふるまう。純粋に一人でいることを楽しんでいるように見えた。
手塚は声をかけずにすれ違った。
「星が綺麗ね」
背後から薄氷が割れた時のような澄んだ声がした。振り返ると、美麗が手塚に向いている。
「そうだな」
言われて初めて夜空を見上げた。手塚にとっての星は観賞するためのものではなく、方角や位置、時刻を知るための道具だった。装備が機械化されて方角や位置を知るために空を見る必要はなかったが、機械は壊れるものだ。その時には空を見ることが生きることになるから、最低限の天体の知識は身に着けていた。
「この金は受け取れない」
今更ながら、手塚は百ドル札を取り出した。
「殴った治療費よ。でなければ慰謝料」
「それなら、これじゃ足りないな」
「あなた、名前は?」
「手塚だ」
「うん。わかった。百ドルは個人情報の購入代金」
「それなら多すぎる。王美麗。君の名前はフルネームでもらった。アドレス付きで」
「お釣りはいらないわ」
美麗はゆっくり歩き出した。
「ここの空は、私の田舎と同じぐらい綺麗」
美麗との距離ができて、声は打ち寄せる波に飲まれた。
「そうか」
手塚は迷ったあげく、美麗に背中を向けて歩き出した。
「東京では、星が見えないのよ!」
美麗が叫んだ。
手塚が足を止めて振り返ると、彼女は背中を向けていた。
「見えないなら、見る工夫をしろ」
野暮な返事をしたものだと自分を笑った。これで縁が切れたと思いながら歩いた。背中に彼女の視線を感じたが、振り返らなかった。
部屋に戻ってから、美麗と並んで歩かなかったことを後悔した。彼女は人と話しをしたかったのかもしれず、誘えば部屋に来たかもしれない。何かを求めていたのは俺も同じだ。……美麗の名刺を眺めながら、夜を過ごした。
手塚はそれから2泊したが、再び美麗を見かける事はなかった。
合同訓練が終わって帰国したのは十日後だった。美麗の姿態が脳裏に焼き付いて忘れられず、ダメもとと思いながら連絡をいれた。
「もしもし……」それは紛れもなく、夜空の下で聞いた美麗の澄んだ声だった。フィリピンでの礼をしたいと望みを言った。その時声が上ずったのが自分でもわかった。
「東京での星の見方を教えてくれるのなら会ってもいいわ」
美麗が電話の向こうでクスリと笑う。
「何とかしよう」
会いたい一心で約束した。
プラネタリウム、夜間遊覧飛行、スカイツリーからの夜景……。無い知恵を絞ったが、フィリピンで見た本物の星空にはかなわないと思った。新宿、渋谷、秋葉原と街を歩き、店舗を回りながら星空を探した。歩き疲れ、考えあぐねた末に真っ白なガラス製の万華鏡を買った。作品のタイトルはミルキーウェイ。工芸品の万華鏡は玩具に比べると目玉が飛び出すほど高価だった。
ミルキーウェイは、青いオイルの中に金銀とパステルカラーのビーズが浮いたもので、オーロラが色と形を変えながらゆっくりと動くように色とりどりのビーズがオイルの中を流れて幻想的な景色をつくった。芸術に関心のない手塚にもそれは
「綺麗。故郷の星空よりきれいかも」
万華鏡をのぞくと、美麗は
「無口なのね」
美麗は手塚の厚い胸の筋肉を撫でる。
「そんなことはない」
「何か話して」
「なにを?」
「家族のことでも、仕事のことでもいいわ」
「家族はいない」
「あら……桃から生まれたの? それとも、水たまりの中から?」
美麗は笑った。
「俺は桃太郎でもボウフラでもない。両親は函館にいる。今は1人暮らしというだけだ」
「良かった」
「何が?」
「主水にも両親がいたから」
美麗が微笑む。
「そうか……」
「家族は大切だもの。ひとりで生きていくなんて、哀しいことよ」
自分の気持ちに無関心な手塚も、美麗と結婚したいと自分が望んでいることに気づいた。それで、3度目の夜を過ごした時に気持ちを告げた。
「2人で家族をつくろう、ずっとそばにいてくれ」
手塚が誰かに愛情を伝えるのは初めての経験だった。
美麗は手塚の胸の中で、首を横に振った。
「こうして一緒にいることを周が知ったら、2人は生きちゃいられない。軍隊よりも気安く殺すのよ」
その目は真剣だった。
一緒に暮らせないと言われても、手塚は失望しなかった。「周が日本にいる時には会えない」と美麗が言うからだ。
「周がいない時ならいいだろう」
それが手塚の答えだった。そうして繋がっていれば、いつか打開策が見つかると信じた。
手塚は、住んでいる官舎と別にマンションを借りた。表札には2人の国から1文字ずつとって〝中本〟と書いた。
貿易の仕事をしている美麗は、外国に行くと周に嘘をついて月の半分ほどを手塚のマンションで暮らした。残りの夜は周と過ごす。手塚が訓練で部屋を空けるときも周の家に戻り、何食わぬ顔でアリバイ作りをしていた。美麗が周といるとき、手塚は官舎に戻って嫉妬にもだえ苦しんだ。それが手塚の選んだ愛だった。
奇妙な同棲をはじめると美麗が中国人でないことが分かった。だからと言って日本人でもない。その訳を手塚は尋ねなかった。訊くと伝説の天女のようにどこかに帰ってしまいそうな気がしたからだ。
マンションで過ごすときの2人は、ただ静かに抱き合って互いの愛をむさぼり、相手の息遣いに耳を澄まして魂を癒した。時には音楽を聴き、時には恋愛ものの映画を観る。その時が幸せだから、美麗がいつか本当の名前に戻り、自分のもとへ来てくれるものと信じた。
テキサスの射撃訓練から帰国した時、部屋に美鈴はいないものと思っていた。普段なら周のところにいるはずだからだ。ところが予想に反して彼女はそこにいた。美麗と周の関係が切れたのではないか、と期待した。
「おかえり」
キッチンの床に座って電子レンジを前にし、美麗は黒い瞳をキラキラさせて邪気のない笑みを浮かべた。ピンクのトレーナーとジーンズ姿は、まるで少女のようだ。
「おう……」
手塚は照れて頭を掻いた。
「旅行は楽しかった?」
「いいや。仕事みたいなものだったからな。何をしているんだ?」
電子レンジを前にあぐらを組んだ美麗の周囲には、半田ごてやペンチが転がっていて、手にはドライバーがあった。そんな美麗は、女ではない不思議な生き物に見えた。
彼女の顔を改めて観察すると、ブルースに見せられた写真の娘 ジェーンに似ていると思った。ただ髪や瞳の色は黒く、写真と違っている。
「電子レンジが壊れたから修理したのよ。もう済んだからコーヒーにするわね。それとも、する?」
立ち上がった美麗は悪戯をたくらむ猫のような瞳をした。
「おう。する」
手塚は美麗の軽い身体を抱き上げて寝室に駆け込んだ。身体をベッドにおろし、遮光カーテンを閉める。暗闇の中で美麗の肌は金色に輝いた。その瞳は万華鏡の中で煌めくビーズのようだ。2人は本能のままに愛しあった。
「周の所に戻っていると思ったよ」
口にしたくない名前だが、美麗が周と別れたことを確認したかった。
「昨日まで、周の所にいたのよ」
「そうか……」
愛していても、いや、愛しているからこそ、さらけ出せない秘密があった。
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