第10話 野心の音

 吾妻と水島は狭い艦長室で向かい合っていた。2人の膝は今にもくっつきそうだ。かたわらのテーブルでは、金属製のマグカップがコーヒーの香りを漂わせている。


「とうとう来るべき時が来ました」


 吾妻の顔は緊張で青ざめていた。今回命じられた作戦は、昨年、特殊部隊を乗せた時に想像した〝敵基地工作〟だったが、実際、直面すると受け入れがたいものがあった。


 目的地が近づくのに合わせて順次、作戦の詳細が開示された。そうして全てを知った時には、その重圧に心が折れそうになった。自分を見失わないよう、吾妻は核心部分を考えないようにした。そうして核心から目を背けているうちに、にっちもさっちもいかない場所に立っていた。


「緊張しすぎですよ、吾妻艦長。作戦は何時中止になってもおかしくない」


「さすが水島さんですね。落ち着いておられる。私など臆病で恥ずかしい」


 胃の辺りがキリキリ痛んだ。


「あなたは艦長として60余名の命を預かっている。臆病でいい。しかし、緊張しすぎては判断を誤ります。無理をしてもリラックスすべきです」


 水島のいかつい顔に薄く笑みが浮かぶと、吾妻の震えがおさまった。


「ニューヘブンで持ち込んだのが、今日の荷物なのですね?」


「気づいていたのですか?」


「自信はありませんでした。あの時は土産物であってほしいと願っていた」


「アメリカの情報部員から、あれを受け取りました。隠していて申し訳ない。命令でしたので」


 水島が少しだけ頭を下げた。


「艦長の私にまで荷物を隠すとは、総監部にも困ったものです」


「秘密を知る人間は、少ない方がいいのです」


 吾妻はうなずいた。


「訓練時には部下がおられたが、今回はどうして単身なのですか?」


 答えは想像がついているが、水島の口から事実を聞きたかった。


「昨年の訓練の結果を見たでしょう。あのレベルでは実戦は務まらない。それで単独行動を進言しました。今回の任務は若い隊員には荷が勝ちすぎています。自分一人の方が成功の確率が高い」


 水島の表情は穏やかだった。部下の能力不足を嘆くどころか、部下の安全を確保できて安堵しているようだ。


「やはりそうでしたか。水島さんは優しいのですね」


「吾妻艦長が自分の立場でも同じことをするでしょう。都合の良いことに、今回の任務はひとりでも十分にこなせる。潜水艦を動かすのとは、わけが違います」


「しかし、水島さんに何かがあったら、作戦は遂行できないことになります」


「その時は申し訳ないが、艦長の判断で作戦を中止してください。今回の作戦にスペアはないのです」


 穏やかな表情の水島も、その言葉の端々に本音を表した。作戦の難しさと必死の覚悟を言っている。


 吾妻は水島の心情を察した。


「了解しました。水島さんは安心して、任務に集中してください」


 左脳は作戦の要求度が高すぎると訴え、作戦を中止すべきだと言おうとするが、唇は動かない。それが組織というものの持つ圧力だった。


 逃げるように話を変える。


「水島さんは、実戦経験があるのですか?」


「単に現場に出たというだけなら、アフリカに派遣され、海賊を相手にしたことがあります」


「なるほど。それは羨ましい」


「羨ましいというのはどうかな。確かに、実践に勝る経験はないが、命を落としてはもったいない。人間に向かって武器を向けるのも、気持ちのいいものではない。自衛隊だから火中の栗を拾う必要はあるが、何も好き好んで火中に栗を投げ入れることはないのです」


「しかし、今回の作戦は……」


 結局作戦の話題になる。


「火中に栗を投げ入れるのです。困ったものだが、命令があれば動かざるを得ない。我々は軍人です。いや、それに似た公務員です」


 水島が自嘲するように笑った。


 吾妻は再び話題を変えた。


「軍の潜水士は、どのくらい潜られるものなのですか?」


「我々の能力は機密事項ですから、ギネスに登録というわけにもいきません。世界のどこかの軍には、世界記録保持者以上の記録を持っている兵隊がいる可能性が高い。そんな者たちに比べたら、自分などはペンギンのようなものです」


「ペンギンなら、潜るのが得意では?」


「丘を歩くよりは得意だが、とてもサメにはかなわない」


 水島の言葉に、吾妻は初めて笑った。水島も表情を崩すと〝かいりゅう〟を見つめるように隔壁に向けた視線を細めた。


「この艦の名前は誰が付けたのでしょう」


「何故ですか?」


 吾妻が小首を傾げる。水島がその姿に女を感じて息をのんだ。


「艦長も大和ミュージアムに足を運んだことはあるでしょう。特攻兵器に海龍というものがあります」


「確かに同じ読みですね。しかし、この船の名の意味は、怪物の龍です。水中速力40ノット、潜航深度700メートルという原潜なみの怪物です。頼りになる船です」


「なるほど。しかし……」


 水島が唇を結んだ。


 戦争には勝利と死が同居している。死を想定しない戦いは考えられない。だからこそ、正常な判断の持ち主は安易な戦闘を避ける。戦闘が避けられないなら、犠牲は少ない方がいい。それは単純な算数の世界だ。


「今度の任務は特攻にも等しいということですね。それで、部下を作戦から外した……」


 吾妻は水島の気持ちを代弁した。闇夜の中、10キロの外洋を泳ぎ、工作を行った上で海中の潜水艦に戻れというのだから無茶な任務だった。半ば特攻のようなものなのだ。


 一つの仮説が脳裏に浮かんだ。海上幕僚監部は〝かいりゅう〟の設計段階から、こうした作戦を想定して脱出管を設け、原潜並みの速力と無限ともいえる航続距離を与えたという仮説だ。


 水島の表情はとても穏やかだった。それが吾妻に理解されていると知ったからか、あるいは死を覚悟したからか、吾妻にはわからなかった。


「自分としたことが、つまらないことを口にしました。忘れてください」


「水島さん……」


 うかつにも、吾妻は目頭を熱くした。


「安心してください。この作戦は特攻ではありません。自分は生きて帰ってきます」


 彼は強い口調で言うと、ふっと息を吐いた。そして、苦い薬を飲むように言った。


「……ただ作戦が姑息こそくすぎる」


「水島さんは、武士ですね。あなたのような精神が、日本にはなくなってしまいました。今の我々には、戦う大義名分もなければ法制度もありません。ただ、時代という流れの中に漂っている。そういった意味では実に日本的だと言える。……いずれにしてもこれは、アメリカ軍の立案なのでしょう」


 吾妻は、専守防衛という戦い方に順じてきた水島にとって、今回の作戦が納得しがたいものなのだと察して、あえてそうした見解を述べた。


 しかし、本当に戦争を行うとなれば、きれいごとは通じない。ましてや潜水艦乗りは、武士ではなく忍者なのだ。実戦になれば、目的が手段を正当化する、という戦略家独特の発想が普通に正当視されるに違いない。それほど、自分たちが守るべきものは大切なものなのだ。


 吾妻は、苦し紛れにアメリカの名を持ち出したが、でたらめを言ったつもりはなかった。合同軍事訓練にアメリカ軍が途中から加わると言う噂が、艦長クラスの幹部の中ではささやかれていた。


「さて、まもなく時刻のようです」


 時計を確認した水島が立ち上がった。


「中止命令は届きませんでした」


 吾妻は、水島がそれを待っていたのではないかと感じていた。

 

 水島が唇を真一文字に結んでうなずいた。


「自分は覚悟を決めましたよ。最後に、あなたと話せてよかった」


 彼が〝最後〟などと言うので、吾妻は上手く返事ができなかった。


 2人は艦長室を出た。吾妻はドアの前で足を止め、水島が前部の脱出管室に向かう背中を敬礼で見送った。


 水島の姿が水密ハッチの向こう側に消えてから、発令所に入って潜望鏡をあげた。それはワイヤーの先についた自律型ロボットだ。小型のドローンも付いていて、高度数百メートルから海上を俯瞰ふかんすることもできる。


 天気予報では晴天の安定した気候になるはずだったが、潜望鏡の暗視カメラが映し出す海は荒れていた。海が荒れると潜水艦は発見されにくくなるが、生身で泳ぐ水島にとっては不利な状況といえる。


「こんな時に限って、荒れているな」


 吾妻はつぶやいた。


 予報は外れることがあるから予報だ。大自然の変化を何もかも人間が掌握できると考えるのはおごりなのだ、とモニターに映る黒い波に教えられた。


「出来るだけ島に近づけろ」


「作戦ポイントは、10キロですが……」


 すでに艦は東バタン大島から10キロの地点に着いている。松本航海長が自分の仕事にケチをつけるのか、とでもいうように抵抗した。


「かまわない。戦闘は臨機応変が肝要。この時化しけなら8キロまで寄せられるでしょう」


 幕僚幹部の作戦で、水島は軍用の水中スクーターではなく市販のそれを使用することになった。軍用ならば時速12キロ出るが、市販のそれは7キロだ。作戦通りに1時間で移動するためには、人間の足に頼らざるを得ない。わずか2キロ近づいただけでも水島の肉体にかかる負担は軽減される。


「捕捉されるリスクが4倍にはなります」


「水島2佐は、これから1人で外洋を行くのです。少しでも助けてやろうと思わないか?」


 吾妻が、部下に向かって苛立つ声を投げたのは初めてのことだった。


〝かいりゅう〟は潮の流れに乗って東バタン大島に近づいてからスクリューを止めた。艦のバランスだけを取り、潮に流されるままにまかせる。脱出管から海に出る水中スクーターにかかる海流の力をいなすためだ。


「水島2佐。操艦を誤って2キロほど近づきすぎました」


 吾妻がマイクに向かって言った。


『お気使いありがとう』


 脱出管内の水島の声は聞き取りにくかった。


『操艦ミスとはどういうことだ?』


 監察官の疑問とも叱責とも判別できない声がスピーカーから流れたが、吾妻は無視した。


「時刻だ。ハッチ開け」


 吾妻は命じた。


§


 作戦で使用する装備品は、水中スクーターだけでなく身に着ける小物に至るまで、全て性能の劣る市販品だ。万が一の場合、水島は漂流した民間人ダイバーを装うことになっている。それは、隊から見捨てられることに等しい。日本国と自衛隊の名誉を守るための対策だが、皮肉なことに、作戦が失敗するリスクをも高めていた。


 脱出口が開くと、水島は水中スクーターを押し出して〝かいりゅう〟を離れた。すぐに振り返ってみたのは、戻る場所を確認するためだ。想像通り、ほんのわずか離れただけで〝かいりゅう〟を目視することは出来なくなった。


 帰ってきても、艦を見つけるのはしんどそうだ。……自分に語ったのは、自分を慰めるためだった。


§


「ハッチ閉じろ」


 命じた瞬間、吾妻は自分が水島を見捨てたのではないか、と恐怖した。


 水島さん、必ず戻ってくださいよ。……心の中で祈った。


「ソナー音、流せ」


 ソナー員に命じる。


 ――ウィィィ――


 スピーカーからソナーが拾った、水中スクーターの小さなスクリュー音が流れた。日本政府の野心を運ぶには、とても頼りない音だ。それが徐々に遠ざかる。乗組員の誰もが、そのノイズのような小さな音に耳を澄ました。訓練時のように嘲笑する者はひとりもいない。


 ご無事で……。念じているうちにスクリュー音は完全に消えた。


「潜航、深度250」


 吾妻は命じた。


 水島との合流は3時間後。海流の影響を考慮して合流地点は7キロほど北になる。

〝かいりゅう〟は音のない海底を目指した。

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