第9話 野心家の尻尾

 海上自衛隊の呉港には、荷物の積み込みを待つ艦船が並んでいた。荷物は武器弾薬もあれば食料や日用雑貨品もある。〝かいりゅう〟の作戦成果次第で、並んだ艦船の演習内容が変わることになっていた。


「慎重に積み込んでくれよ」


〝かいりゅう〟の前で声を上げるスーツ姿の若者は横柄だった。米原雪之丞まいばらゆきのじょうという歌舞伎役者のような名前の博士は、最先端生物科学研究所の研究員でバイオセーフティーレベル4という最も危険なレベルのウイルスを取り扱っていることと、若く体力があるという理由で作戦のメンバーに加えられた。


「まったく、潜水艦とは息苦しい乗り物ですね」


〝かいりゅう〟に乗り込んだ米原は、挨拶より早く不平を言って伊東を苛立たせた。


「艦内では自分たちの指示に従ってもらいます。そうでなければ安全は保障できません」


 大概の民間人は、そう告げれば素直に言うことをきく。ところが、米原は違った。


「私は民間人だ。自分の判断で行動します。それがダメなら放り出してもらっても構いません。ですが、任務が遂行できなくなるのではないですか?」


 米原が反論するので、伊東は苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙った。見かねた吾妻が前に出る。


「米原博士こそ防衛予算で研究しているはずです。防衛省に予算を止められたら、研究所の所長はなんと言うでしょう。その時、困るのは博士ですよ。……ご存じのとおり船の中では、私の権限は元首に等しいのです。難しいことを要求するつもりはありません。艦内では乗組員との協調に努めていただけませんか?」


 吾妻に厳しく諭された米原が目を丸くして態度を変えた。


「艦長の依頼では仕方がないですね」


 負け惜しみを言うと、身の回りを世話する菊田2士につれられて特別室に向かった。


「まったく、どういうやつなんでしょうな」


 伊東の腹立ちは収まらなかった。


「博士にすれば、アウエーでひと月以上過ごすのです。自衛官などに、なめられたくないと思ったのでしょう」


 吾妻は感情を抑えて言うと、さっさと艦内の見回りに向かった。


「冷血女め」


 伊東が吾妻の背中を見ていた。


 吾妻は水島2佐の部屋を訪ねた。部屋といってもベッドがひとつだけという狭い空間だが、三段ベッドに寝る乗組員に比べれば贅沢な場所だ。


「お久しぶりです」


「その節はどうも。また、お世話になります」


 水島は通りすがりの隣人のように頭を下げた。


「こちらこそ」


 思わず吾妻の頬が崩れる。


 水島は11月の訓練時には3佐だったが、2佐に昇進していた。通常の昇進は1月1日付で行われるが、水島の2佐昇進決定は出航の僅か三日前と異例だった。もはや奇妙とさえいえる。


「昇進、おめでとうございます。階級章は3佐のままですね」


「ありがとうございます。急なことでしたから。まぁ、階級章などどうでもいいことです。中身が変わるわけではありません」


「艦内ではそうですが、おかに上がったら影響があります。ところで、外洋に出て時間ができたら、いろいろ教えていただけますか?」


 具体的に知りたいことがあるわけではなかった。いや、正直、作戦内容について知りたいことが山ほどあった。しかし、それは彼が話せることではないと、それもよく認識している。


「艦長に教えられることなど、自分にはありませんよ」


 階級は並んだが、水島のもの言いは丁寧だった。


「水島2佐は謙虚ですね。隣の若い博士とはずいぶんと違います」


 吾妻は、米原と伊東の間に一悶着ひともんちゃくあったことを話して笑った。しかし水島は、真面目な表情を崩さなかった。


「自衛官に噛みつくぐらいの肝が据わっていなければ、民間人で今回の作戦にあたることはできないでしょう。おそらく、作戦終了後も何かと行動が制約されるでしょうから」


「なるほど。相変わらず、水島2佐の分析は的確ですね。恐れ入りました」


 水島の部屋を出ると前部脱出管室に入った。そこには小さな冷蔵庫ほどの機械があって電気が供給されている。その中にインフルエンザウイルスHHV2Cが入っていると聞いていた。


『艦長、ウイルス冷蔵装置には触れないでください』


 スピーカーから流れた声は、地方総監部監察官の河本征夫こうもとまさお2佐のものだ。今回は特別任務ということもあって、吾妻も監視されている。


「もちろんです」


 吾妻は監視カメラに向かって目礼した。


 1月24日、他の艦船に先立って〝かいりゅう〟は呉港を出港した。小笠原諸島に沿って南下し、通常立ち寄る父島基地を素通りしてフィリピンの東で北に舵を切る。はるかに遠回りしたのは、作戦目標を隠ぺいするためだ。


§


 日本中がバレンタインデーでお祭り気分を楽しんでいるころ〝かいりゅう〟は東バタン大島沖に到達した。


 艦内は緊張した空気で、誰もがピリピリしていた。作戦中止命令がなければ、2時間後には水島が艦を離れることになる。


 脱出管室では、白衣をまとった米原が冷蔵装置の中からHHV2Cウイルスをボンベの中に封入する作業を始めていた。菊田が助手をし、河本が作業を監視している。


「どうして……」


 米原は作業をしながら、自分を監視する監察官の河本に言う。


「……自衛隊はこの封入作業を自分らでやらないのですか。生物兵器や化学兵器の研究部隊も持っているはずですよね?」


 河本が少し困った表情を作った。


「米原博士が言う部隊は、陸上自衛隊のほうです」


「なぁんだ。自衛隊も縦割りなんですね。それで僕のような民間人を使うんだ」


 米原はボンベにホースをつなぎ、バルブの留め具をくるくると要領よく回した。普段はレベル4や3のウイルスを扱っているので、レベル2のウイルスなど怖いと感じない。


「博士の研究所は、海上自衛隊の研究委託先です」


「ああ、そうですとも。美人の艦長さんにも、そういって叱られました」


 冷蔵装置のつまみを回して気体の温度を下げて液化する。


「一般的なウイルスは宿主を離れると数時間で死にますが、このウイルスはノロの遺伝子が組み込まれていて、人間の住む環境なら、ひと月は生きるそうです。こうして液化するのは、長生きさせるためではなく、飛散を防ぐためです。空気中に漏れると厄介なことになりますから」


 米原は得意気に説明しながら作業を進めた。


 バルブを回すと、ホースの中にシューっという音がして液体が流れた。同時にバルブの付け根でプシュという短い音がした。


「チッ」


 舌打ちした米原が、あわててバルブを閉めた。


「どうした?」


 河本が訊いた。


「バルブの取り付けが甘かったか……」


 米原はレンチを取ってボルトを締めなおした。


「大丈夫なのか?」


 河本の表情がこわばっている。


 菊田はマスクをかけなおした。


「たかがインフルエンザウイルスですよ。4段階の下から2番目です。心配しないでください」


「そうか……」


 河本がつばを飲み込んだ。

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