第8話 野心のないライオン

 ヘイトスピーチが法律で禁じられてから、それまでそうした活動を行ってきた勢力は二つに割れた。


 一つは愛国だけを口にして、日の丸を掲げて歩くデモ隊だ。それは祭日に外国人や左翼的団体の多い地域に入り込み、「日の丸を掲げろ」と挑発する。もう一つは少数派だが、地下に潜って暴力に訴える団体だった。外国人や外国人の経営する店舗に因縁をつけ、時には襲い、破壊する。


 文化の日という祭日……。愛国を訴えるデモ行進には百人ほどの男女が参加していた。多くは若者だが中高年も交じっている。都会の乾いた風が走ると、行進する者たちの頭上には街路樹の枯葉が舞い降りた。


 デモ行進の主催者は、日明研にちめいけんと呼ばれる政治団体〝日本の明るい未来を考える研究会〟だった。


「日の丸を掲げよ!」


 会員の友永修造ともながしゅうぞうが先頭に立ってシュプレヒコールを上げると、その声に続いて後続の参加者たちが声を上げた。


「日の丸に敬礼せよ!」


 彼らはそう言って見物人たちに国旗をつきつける。


 行列の中には一之瀬雄介いちのせゆうすけ三沢智明みさわともあきといった日明研のメンバーが紛れ込んでいて、何食わぬ顔で友永に併せてシュプレヒコールを上げた。その大きな声が周囲の参加者に叫ぶ勇気を与え、叫んだ後の爽快感と高揚感をもたらす。自分の行動力の源泉である愛国心が、あくまでも本人がそう感じているだけだけれども、見物人に対する優越感と正義感を高めていく。


「日の丸を持たないものは、日本から出ていけ!」


 参加者には、外国人に仕事を奪われた者がいれば、奪われたのかもしれないと想像している者もいる。外国人の犯罪に巻き込まれた経験を持つ者がいれば、理解できない外国語に不安を覚えただけの者もいる。


 社会保障政策からこぼれ落ちた非正規労働者がいれば、弱者保護に予算を使うことに不満を持つ富裕層もいた。誰かを攻撃することで日常生活のストレスを発散する者がいれば、攻撃そのものを喜びとする者もいる。


「美しい日本を守れ!」


 デモ行進のシュプレヒコールは落葉のように風に乗って街に広がり、そして同じ風に流されて消えていく。それは叫ぶ者を満足させても、街を汚し、魂を汚し、声を耳にする人々の気持ちを不快にさせた。朽ちた商店街のシャッターに書かれた落書きのようなものだ。


「朝礼には国歌斉唱を!」


 ざらついた言葉を聞いて不快を感じた者が、同じように叫んで苛立ちを誰かにぶつけると世の中の憎悪は増殖し、穏やかに暮らす人々を不安に陥れるという意味において、愛国デモの意味はあった。


 主催者はそれを狙っている。


「腐った魚の群れのようだなぁ」


 ビルの2階にあるハンバーガーショップの窓際で、九段明信くだんのぶあき警部は愛国デモを、そう表現した。


「今日は文化の日だぞ。その文化はどこへ行った。……臭いなぁ」


 愚痴のように繰り返す。


 九段は仕事でデモ行進を監視しているのではなかった。純粋に空腹を満たすためにそこにいた。50歳を過ぎたベテラン警部は、警視庁内では〝眠れる獅子〟と呼ばれている。日頃は雄ライオンのようにあくびをして休んでばかりいるし、ぼさぼさの髪と無精髭という容姿がライオンに似ているからだ。


 まれに大きな手柄を上げるのもライオンたるゆえんだ。ビルの谷間で目立たなく規則正しく生きる官僚たちの中にあっては、異色の存在だった。


 警視庁のライオンは、ファストフードチェーンのフレッシュバーガーがお気に入りなのだが、若者ばかりの店にひとりでは入りにくいので、部下の小島恵子こじまけいこ警部補を連れてくる。


 無理やり連れて来るとパワハラと言われるし、にやにやするとセクハラだと言われるので、小島のハンバーガーセットは九段のおごりだ。良好な人間関係があればパワハラもセクハラも成立しない。食事を奢ることでしか良好な人間関係を築けない中年男には辛い時代だった。


「嫌な世の中になったなぁ」


「そうですか?」


 小島は九段の視線を追った。


 デモ行進の列がだらだらと進んでいる。


「全く品が無い。同じ日本人だと思うと情けないよ。品の無い俺が言っても説得力がないか……」


 ライオンは、見た目に似合わず自虐的だ。


「そうですね」


「……」九段が濁った眼で小島を見た。


「いえ、そう言うことじゃなく……」


 小島が笑って誤魔化す。男女平等が叫ばれて久しいが、未だに涙と笑顔は女性の武器だ。おまけに小島はキャリア組とよばれる種族で社会人2年目だが、入庁時から警部補だ。肌はぴちぴちで容姿は十人並みより上……。本人も、多少のことなら男性に許されないはずがない、という自信を持っているから、九段としても気を使う。


「……彼らの気持ちもわからなくはない、ということです。何かというと東亜や中国は日本が悪いと言うから腹が立ちます」


「お前たちは被害者だと言うわけだな」


「違いますか?」


「確かに、何もしていないのに悪い人間だと決めつけられたら腹が立つなぁ。名誉棄損みたいなものだ。しかし、世界史という枠組みの中では、小島だって半分は加害者だ」


「日本企業が世界中の市場を荒らしたからですか?」


「違うなぁ。第二次世界大戦、……いや、もっと前からだ。日本は朝鮮を併合し、満州国を建てて植民地政策をすすめた。日本語と日本名を押し付けて、彼らのプライドを傷つけた。国家としても民族としても、いくつかの国家や民族に対して日本は加害者だ」


「警部は歴史に詳しいんですね……」


 九段を見る小島の眼に尊敬の色はない。あるのは、自分たちの理屈を押し付ける年配者に対する嫌悪の色だ。


「……百年も前のことを言われても困ります。第二次世界大戦は私には関係ないことだし、関係があったとしても時効ですよ。私には、刑事的にも民事的にも責任がないと思います」


「そんなことが言えるのは、お前が先祖の経験や記憶を共有していないからだ。日本人が原爆問題でアメリカを取り上げるように、アジアの人々は大日本帝国の行為を口にするだけのことだ」


 東都大学で学んだエリートが、その程度のことを何故考えないのか?……九段にはそれが理解できない。


「先祖の経験や記憶を共有するなんて、エスパーしかできませんよ。私、スピリチュアルとか、信じませんし」


「お前も刑事だ。事件の後、加害者や被害者が似たようなことを言うのを経験しているだろう」


「被害者は犯人を極刑にしてくれと言いますね。加害者は心神喪失を持ち出して減刑を望む。あわよくば無罪を勝ち取ろうとします。取調べで、神のお告げで殺したとか、親に虐待されていたからこうなったとか、医者に処方された薬のせいだとか、私の肩に霊がいているとか、わざと訳の分からないことを持ち出す犯人もいます」


 小島は口をとがらせて憤る。


「国家も同じことを言っていると思わないか? 日本は戦後補償をしたが、その後、被害者以上の繁栄を迎えた。そのことは被害者から見れば面白くないことだろう。それを不満としてぶつけてくるから、お前たちは面白くない。それで、欧米諸国から解放してやっただの、欧米よりはましに扱っただの、日本は欧米に経済封鎖されたから仕方なく戦争を始めたなどと、こちら側の理屈を言うことになる。感情に対して論理で応えているから、議論がかみ合わないんだなぁ。被害者の立場に立ってみれば、加害者に自覚がないのが一番頭にくることじゃないのか?」


「まぁ……」


「加害者にとって時間は味方だ。時効であれ、刑期であれ目安がある。被害者にはそれがない。たとえ慰謝料を受け取っても、被害の記憶は引き継がれ、親の苦しみを自分の苦しみとするものだ。親が、あるいは祖父母が被害を受けなければ、今の自分にはもっと明るい人生があったはずだと考えてしまう。それは脳のメカニズムともいえる。そうやって被害者意識は消え去ることなく、世界から加害者意識だけが消えて、世の中は被害者ばかりになる」


 窓の外には愛国デモの行列の最後尾があった。


「真実なら、それを言う権利はあります」


 小島は行列を見ながら言った。


「真実って何だ? 事実は一つだが、交通事故でさえ被害者と加害者にはそれぞれ別な真実がある。おまけに記憶はゆがむ。事故後の話し方、考え方、持っている情報量で人の中の事実は歪み、異なる真実が残る。客観的事実が簡単にわかるなら、警察も裁判所も要らなくなるだろうよ」


「何となく騙されているような気がします」


 小島が九段に咬みつくような勢いで、ハンバーガーに咬みついた。


 ハンバーガーを平らげて店を出ると声がする。


『ありがとうございました。またのおこしをお持ちしております』


 可愛らしいキャラクターのロボットが流暢りゅうちょうに礼を言い、子供にするように手を振った。


「日本人の仕事を奪ったのは外国人だけじゃないだろう。あいつらもそうだなぁ」


 九段はロボットを顎で指した。


「機械を敵対視するなんて、18世紀の職人ぐらいですよ。あんなに可愛らしいのに、どこが問題なんですか?」


 小島が、食事中にやり込められた仕返しをするように言い返した。


「まったく情緒的な評価だなぁ。俺は恐ろしいよ。あのロボットがどれだけの個人情報を収集し、客を区別していると思う?」


「そうなんですか?」


 彼女がロボットに手を振り返す。


「何も知らないのだなぁ。あいつらが条件反射的に挨拶や商品の紹介をし、手を振って客を喜ばせているだけだと思っているのか?」


「他に何か?」


「あのロボットは顔認証システムで常連客やクレーマーを判別し、アルバイト店員に対応方法の指示を出したり、過去の購入実績から注文の予測をたてたりしているんだ。そうやって注文の誤りを防ぎ、作業のスピードアップを図り、ポテトはどうだ、アイスもどうぞと客好みのサイドメニューの提案をして客単価のアップに努めている」


「いいことじゃないですか」


「まあ、聞け。データは中央のサーバーに集められてマーケティングに利用されているし、アンケートで名前を書いたことがあるなら、顔と名前は一つのデータとして管理され、住所や家族構成だって把握されている。来店した店から、行動範囲も知られているだろう。サーバーのデータは使いもしない個人情報の山になっているはずだ。店頭にロボットを飾るのは、見た目がかわいいだけのお姉ちゃんを飾っておくより、はるかに経営に有益なんだよ。オーダー用のタッチパネルは指紋も判別できる。ロボットだけじゃなく、駅の券売機や銀行のCDのタッチパネルも同じで、公安部のサーバーにデータが送られる」


「警部、は女性差別発言です」


 彼女が人差指を立てて鋭く言った。


「……すまん」


 反応するところはそこか、と驚きながら九段は謝った。


「今日は奢ってもらったので許してあげます。でも、あれで公安が指紋を集めるのはどうしてですか?」


 彼女はロボットを指した。


「顔や名前を変えて入国している外国人や指名手配犯を探すためだ。反社会的思想の持ち主も追跡されている」


「でしょう。警察だって外国人や犯罪者予備軍を差別しているんですよ」


 小島が一矢報いたとばかりに微笑んだ。


「感情的に愛国デモを繰り返すのとでは次元が違うだろう。まあ、いずれにしてもロボットの情報収集力や分析力は年々進化している。面倒な会員カードやポイントカードを無くせたのもロボットの顏認証性能がアップしたおかげだ」


「私はポイントを集めていたんですけどね。もうすぐぬいぐるみを交換できるところまで溜まっているのに、残念だなー」


 小島が扉に張ってあるポスターに眼をやった。並んだクマやペンギンのキャラクターがとぼけた顔で客を誘っている。


「自分で支払いをすれば、ポイントが付くぞ」


 九段がクレジット機能の付いたスマホを見せると、小島は舌を出して「ごちそうさま」と頭を下げた。


「オリンピックだ、万博だと外国人客を歓迎したんだ。住むことにだって寛容になれないものかなぁ」


「人によりますよね。イケメンなら歓迎ですが、脂ぎったのはだめです」


「それは差別発言じゃないのか?」


「個人の感想です」


 小島が澄ました顔で歩き始める。


「キャリアのお前は、日本の治安を背負って立つようになるんだ。しっかりした見識を持ってくれよ」


 九段の声は街の喧騒にかき消され、小島の背中まで届かなかった。

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