第3話 訓練航海
――ボクシングヘビー級タイトルマッチの30日前――
最新鋭の高速ステルス潜水艦〝かいりゅう〟が
「2度目の航海が脱出訓練ですよ。それはわかる。しかし、自分たちは艦を貸すだけです。不思議な任務です」
副長の
「
艦長の
勇気が旧型潜水艦〝もちしお〟の艦長になったのは2年前だった。マスコミは彼女を〝美しすぎる艦長〟としてもてはやした。注目を浴びると、彼女に対する自衛隊内部の風当たりが強くなった。男たちの嫉妬と言えばそれまでだが、実務上の悪影響があった。彼女が発する命令に対し、男たちの反応が鈍い。自衛隊内部での評価は下がったが、それでも政府の思惑が彼女を〝かいりゅう〟の艦長につけた。
〝かいりゅう〟は二カ月前に就航し、処女航海と装備の調整を終えたばかりの遠洋航海だった。選りすぐりの優秀な隊員が集められているものの、新型艦は従来と異なる設備と操作手順が多い。乗組員同士の連携も十分とはいえない。訓練とはいえ、勇気にとって気楽な航海ではなかった。
「荷物はなんですか?」
伊東が勇気の横顔に目をやる。彼の声は、お世辞にも好意的なものではなかった。
「
勇気はタブレットの命令書を細い指でめくって見せた。
「特殊部隊なんて、何の役に立つのですかね」
伊東はすぐに、彼らに対する関心をなくし、壁面のモニターに眼をやった。そこには艦橋のカメラから送られる周囲360度の景色が映し出されている。瀬戸内の波は穏やかだが、それでも本格的な冬に向かって高さを増していた。波間に、様々な種類の船が映っている。
「船影多数。監視、怠るな」
勇気の凛とした声が響き渡り、乗組員たちの背中に緊張が走った。
〝かいりゅう〟は外洋に出ると静かに潜航して南東へ針路をとる。最初の訓練海域は青ヶ島沖で、それから
訓練の主な目的は脱出管の運用だった。それは〝かいりゅう〟に初めて設けられた設備で、艦の先頭部分の前部脱出管と貨物の搬入口を兼ねた中央脱出管があった。先頭の外部ハッチは進行方向に向き、中央のハッチは上方に向いている。
脱出管とマグネシウム燃料電池システムを搭載するために、艦体はそうりゅう型潜水艦よりも1割ほど大きくなったが、海水からマグネシウムを直接採集する燃料電池システムは、原子力潜水艦並みの速力とほぼ無限の航続力を生み出した。
青ヶ島沖15キロの海中で〝かいりゅう〟はモーターを止めた。水中スクーターを使う訓練には前部脱出管が使用される。
「水島3佐って、どんな人物ですか?」
手持無沙汰なのか伊東が訊いた。彼は何事につけ、他人の評価を気にする人間だ。
勇気は司令部で挨拶を交わしたときの
「自分にはよく分かりません。伊東さん自身で確かめてください」
印象だけで水島を評価するのは避けた。他人に評価を求める伊東の姿勢が嫌いなのも、冷たく応じた一因にある。勇気の経験では、彼のような性向の人間は、試験の成績は良くても、難題に直面した際に的確な判断ができない。ミスの責任を他人に押し付けることも多い。
勇気は伊東の反抗的な視線を感じながら、脱出管室の監視カメラ映像を見つめていた。
§
――前部脱出管室
「最初は自分がやろう」
水島は、未知の作業に自ら臨んだ。脱出管に水中スクーターを入れてから水密ハッチを閉じる。注水作業は脱出管内部でもできるが、水中スクーターを持ち込んでいることもあり、安全と効率を配慮して脱出管前室で
「OKだ。注水頼む」
水島の声で臼杵がスイッチを押した。水島の足元から海水が湧き出し、脱出管内が満水になると正面の外部ハッチが開いた。
水島は水中スクーターのスイッチを入れて前方に押し出す。潮の流れが速く、水中スクーターを艦にぶつけないようにするのには力が要った。ぶつけた場合、水中スクーターが破損する可能性もあるし、発生した音によって敵方に存在を知られることになる。実践では絶対犯してはいけないミスだ。
ハッチを潜り抜けた水島は外側で待機し、楠木、柳川と順番に出るのを見守った。2人は、水島が危惧した通りに水中スクーターをハッチの縁にぶつけて大きな音をたてた。
声の届かない海中での会話は、お互いの身体を接触させて声の振動を肉体から肉体へ直接伝える。
「スクーターを腕だけでコントロールしようと思うな。肘を締め、足腰を使って方向を決める感覚を持て。ハッチを出る前に潮の流れを良く見ろ。それから、後でソナー員に謝っておけ。大事な商売道具の耳を傷めたかもしれない」
2人の部下に指示をすると、艦の外殻を――トン、トトト、トン――と握りこぶしでたたいてハッチを開けてもらう。ハッチは外部からの侵入を防ぐために、内部からしか開かない構造になっているからだ。
出た時とは逆に、柳川、楠木の順に艦内に戻った。2人は、今度こそ水中スクーターを艦にぶつけないように、慎重に行動した。水島は周囲の警戒に当たった。
§
脱出管からの出入りに慣れた特殊部隊員は、次の段階の訓練に入った。水深20メートルの海中で艦外にでると、10キロほど離れた小笠原諸島の島々まで前進し、再び艦に戻る。訓練のたびに脱出深度や、水中スクーター、潜水服、発信機といった装備を変えた。それが単なる脱出訓練でないことは、吾妻勇気でなくとも気付いた。
「こそこそと、何をやっているんですかね?」
伊東が首をひねった。
「これまで行われたことから推測すれば、海からの侵入訓練でしょう」
「侵入って、どこかの施設へ潜入するということですか?」
「防衛の際にも、敵の前進基地や艦艇に侵入することはあるでしょう」
「なるほど。しかし、そんな機会は、本土決戦があるような事態しか想定されませんが……」
「我々が守るのは日本国だけではありません。世界の平和です」
勇気の言葉に驚いた伊東が、彼女の顔を見つめた。
艦を出た水島が〝かいりゅう〟にたどり着かないことは1度もなかった。彼の行動は機械のように正確だった。
楠木と柳川の2人は、50%の確率で艦を見失い迷子になった。太平洋上の迷子だ。GPSや発信機といった電子機器が無ければ間違いなく命を失う。
明け方、その日の最初の訓練時のことだった。
「迷子です。楠木2尉が北へ3キロほど流されました。水中スクーターのバッテリーが切れる時間です」
特殊部隊員のGPS装置を監視していた弓田が報告した。その口調には嘲笑の色がある。
「救出せよ」
勇気が命じると、
「特殊部隊のおかげで朝日が見られるぞ」
艦内で冗談が飛んだ。
〝かいりゅう〟は3キロ移動して浮上する。勇気と伊東は艦橋に上がり、数人の乗組員が甲板に出た。
海に浮かんだ楠木は泳ぎ疲れ、甲板に上がる力もなくしていた。先に戻っていた柳川が海に飛び込み、楠木の水中スクーターを脱出管室に運ぶ。
「水浴びかよ!」
乗組員が楠木を笑ってから甲板に引きずり上げた。
「大変なものですね」
勇気は楠木を憐れんだ。
「漂流してサメに食われなければよいのですが」
伊東が苦笑した。
水島が甲板に現れる。彼に続いて、仕事のない乗組員が日光浴に上がってきた。
吾妻は、甲板に座り込んだ楠木が水島に叱責される様子を観察した。部下を座らせたまま、耳元で注意事項を一つ一つ
「ねちっこいやり方ですね。太平洋のど真ん中で、潜水夫が潜水艦を探すこと自体が無理なのですよ。そんなことが出来るくらいなら、対潜哨戒機なんて飛行機はいらないのです。ぽんと叱ってぱっと忘れる。そのほうが部下にとっては気持ちがいいと思います」
当初は笑っていた伊東も、いつの間にか特殊部隊の若者に同情していた。彼には叱る水島に非があるように見えているのだ。
「彼らは、水中では単独行動です。我々と違って上官に都度指示を仰ぐことなどできない。個人の能力が作戦の成否を左右してしまうでしょう。技術を身に付けなければ、あるいは、判断を誤れば、楠木2尉自身が真っ先に命を落とすことになる。だから水島隊長は事細かに指摘して叱っている。復唱することも大事ですが、座らせて体力を回復させながら教えるやり方は、私には合理的に見えます」
勇気は伊東の考え違いを指摘した。彼は形式的な返事をしたが、納得したのかわからない。
水島が手を貸して楠木を立たせた。2人が艦内に降りる姿を見ながら、伊東に尋ねた。
「幕僚監部は、具体的な作戦を想定しているように見えますね。副長はどう思います?」
質問は反抗的な彼を懐柔するためでもあり、自分自身に対する問いかけでもあった。
「艦長にわからないものが、自分に分かるはずがありません」
伊東は投げるように答えると、ハッチに潜りこんだ。
〝かいりゅう〟は再び潜航して特殊部隊を海へ送り出す。訓練の繰り返しを、勇気は行先の分からない行進のように感じた。
水島は
夕食時、勇気は水島の隣に座った。
「〝かいりゅう〟の乗り心地はどうですか? 何か不便はありませんか?」
年上のベテラン指揮官に敬意を払った話し方を心がける。
「これは素晴らしい船です。自分が要望することなど、何もありません」
水島が真面目に応じた。その返答に、欲のない忍耐強さを感じた。
「訓練はどんな作戦を想定した訓練なのでしょう?」
「それは自分にもわかりません」
「特殊部隊ですから、工作活動なのでしょうね?」
「自分にはわかりかねます」
そこに嘘は感じない。この口数の少ない中年男性が、部下に向かってはコンコンと言葉を重ねるのが不思議だった。それほど部下に対する愛情があるのだろうか? それとも仕事にかける情熱だろうか?
勇気が水島の家族の話を聞くようになったのは、父島の基地を目前にしたころだった。彼は自分の家族のことを淡々と説明した。娘が自分に似ていて将来が心配だ、と言うときの顔は普通の父親だった。
勇気が自分にも小さな娘がいると話すと、彼は目尻を下げた。
「お母さんが長期不在では、ご主人も娘さんも寂しがっているでしょう」
その言葉には優しさが
「私は離婚しました。娘は母にみてもらっています」
そう告げると、彼の顔に困惑が浮かぶ。いや、水の底に沈んだように見えた。
「余計なことを言いました……」
「いえ、お気になさらず」
勇気が笑って見せると、彼が深くうなずいた。
父島の基地を離れた〝かいりゅう〟は深度を徐々に下げた。それからは浮上することなく深海を南下した。指揮所や食堂、艦長室でも、モニターに映るのは暗く無味乾燥な外の世界だったが、時折、深海生物のカラフルな発光を楽しむことができた。
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