(2)

 ――ガラガラガラ

 俺の背後で教室のドアが開く音がした。


 4月8日。

 ここは北校舎の端っこにある、もう何年も使われなくなった空き教室。

 というか、そもそもこの北校舎の存在でさえ、みんなの記憶から抹消されているのではなかろうか? それくらいここ一帯は閑散としていた。

 耳を澄ませば、ようやく校庭から野球部やらサッカー部やらの声が聞こえてくるくらいなのだ。ここにいる限り誰かに会う、ということはなかなかに無いだろう。やはりここを選んで正解だったな。

 そんな状況下でこのいきなりの音。

 案の定、ドアには制服姿の女子が一人。

 白いYシャツに紺色のベスト、白や藍色のストライプが入ったスカートを見事なまでに着こなしたザ・女子がそこには立っていた。


「あっ、いたー! もー、探したよ~」


 楓は俺を見るなり、口をへの字にする。

 怒っているのかなんなのか、その感情は読み取れないが、いずれにせよ一つだけ分かっていることは、怒っていても可愛いということ。

 はい、ここ重要。テスト出ます。


「しょうがないだろ? ここしか空き教室が無かったんだ。我慢してくれ」

「むむむ……だったら、場所くらいラインしてくれればいいのにー!」

「したぞ、ちゃんと。十分くらい前に」

「……うわっ! 本当だー。ご、ごめんね~、気付いてなかったー。えへへー」

「世界一速い手のひら返しを見た」


 さっきまでの強気な姿勢はどこへ行ったのやら。落差がすごい。ナイアガラの滝?

 茶色に淡く染めたボブカットの髪をいじりながら下手に誤魔化すと、楓はドアを閉めてこちらへと向かってくる。


「よっと! うぅっ! はあ――……授業疲れた~」


 俺の前の席に重たそうなバッグを置く。目をぎゅうっとつぶりながら、両手を上げて気持ちよさそうに背伸びをする。

 お前は昼下がりの猫か。どうせこの後はあくびをするのだろう。そう世の中では相場が決まっている。かっこ俺調べかっことじ。


「ふわあ~……」


 ほらな、言ったろ。俺やっぱ神かも。

 うーむ……にしても、この教室は本当に寂れているな。

 もちろん椅子や机などはあるのだが、細かい傷が付いた会議用の長テーブルやゴミが入っている汚い段ボールやら、そんなのが放置されている状態だ。

 つまり、俺たちは今、学校のゴミ捨て場にいるってことになるな……いや、それは言いすぎか。せめて、産業廃棄物処理場くらいか? 反省、反省。

 それに床や壁はひどく汚れ、所々に身を隠すようにしてほこりがその姿をあらわにしている。いつかちゃんと掃除しないと、本当の廃墟になりかねない。ハウスダストアレルギーを患う俺からしてみればこれは死活問題でもある。

 とまあ教室に対する不平不満を言い切ったら、いつの間にか彼女は教卓の前で体を乗り出すようにして、じっとこちらを見ていた。

 え、折角その椅子を用意してあげたのに。それじゃあ俺、なんか可哀そうな人みたいじゃん。

 そんなささやかな俺の気遣いに目もくれず、楓は端正な笑顔を浮かべた。


「それでは、これから第一回悩み部部会議を始めたいと思いまーす! 

 改めて秋宮あきみやまき君、よろしくね~」


 ――ぱちぱちぱち


 虚しい拍手が弱弱しく教室に鳴り響く。

 おいおい……なんで俺はこんなのに付き合わされているんだ? 

 俺が思っていた以上に彼女はこの「悩み部」に対して本気らしい。さっきから俺と楓とでの温度差が激しすぎる。

 このままじゃ、地球温暖化が更に進行しかねない。ちゃんと先進国としての自意識を持たなきゃ! そうだ! 早めにこの廃れた教室で植物を育てた方が……じゃあ、僕窓の外でゴーヤ育てて緑のカーテン作っちゃお……って、ここは小学校かなあ?

 そんな温暖化問題についてあたかも関心が高いかのように内心イキっていると、楓は小首をかしげる。


「どうしたの、薪君? あんま乗り気じゃないね」

「え、ゴーヤ作りがか?」

「……え、何の話?」


 なんだ、違ったのかよ……ってそんな気持ち悪いみたいな目で見ないで? 

 え、今の俺が悪いの?


「いやこっちの話だ。気にしないで進めてくれ」

「ふうん。まあ良いけど。じゃあ早速、話始めてくよー!」


 そうして。

 純粋無垢で、どこまでも輝かしい笑顔を向けてくる彼女。

 腕を組みながら、その吸い込まれるような黒曜石の瞳で俺を見つめる彼女。

 この暗い教室にいるだけで、その空間が華になる可愛い彼女。

 そんな彼女の名前は、清水楓しみずかえで

 そう、そうなんだ。この子は。

 昨日。4月7日。


 ――俺のことをふった、大好きだった、あるいは、大好きな女の子だ。


 そして、俺は知った。こんなこと人生で初めて聞いた。正直今もまだびっくりしている。

 楓は、


 ――「好き」という感情を知らない。

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