狂咲
星合みかん
狂咲
無駄に力を入れた化粧。必死になって飾った髪。貰い物のショルダーバッグに、一目惚れして買ったヒール。そして、今日の為に新調した、真紅のワンピース。その全てが、横殴りの水玉によって台無しにされてしまった。こうなるのは承知の上だったから、別に構わないのだけれど。ただ、心身から熱が奪われている感覚は、どうしても気持ちが悪い。
今朝のニュース曰く、今日はこの夏一番の土砂降りの日らしい。そんな中を傘も差さずに歩く私は、側から見たら相当な変人だろう。でも心配いらない。私を見ている人なんて、誰一人いないから。
そっと、バッグの中の“ソレ”を撫でる。
——ピンポーン……ピンポーン……
薄いドアの向こうから、呼び鈴の音が聞こえる。この古くさいアパートに足を運ぶのは何度目か、数えるのはずいぶん前にやめてしまった。
「はーい、どちら様……って」
寝ぼけ目を擦りながら顔を出した、ダサいTシャツの男。私の身体を一瞥するなり、その目を見開いた。
「
「……ちょっと、傘忘れちゃって」
「昨日の夜中から雨だったろ。ったく、傘無しで出てくるとか意味わかんねぇ……心配して損した」
男は舌打ちをしながら、ぼりぼりと頭を掻く。その悪態に苛立ちを覚えることも、もう無くなった。
「んで、何の用? 俺今忙しいんだけど」
ドアの数十センチの隙間から身体を出すだけで、男は出てこようとしない。
「……雨宿りさせて」
「こんな雨じゃ待っても止まねーよ。それだけならさっさと帰れ」
覚悟は決めてきたつもりだった。何を言われても何をされても、もうどうでもいいと腹を括ったのに。胸あたりを真っ直ぐに射抜く冷たい筋が、どうしても痛くてたまらなかった。
——もしも、まだ私に、ほんの少しでも愛情があったなら。
「ちょっとだけでいいから」
「無理。じゃあな」
「ちょっとだけだってば!」
ドアの向こう側に踵を返そうとする男を部屋へ押し込み、私も無理やり足を踏み入れた。バランスを崩して倒れた男は、無様にも尻もちをついている。
「っ、おい! 何のつもりだ!」
吠える狼を横目に、ヒールを脱ぎもせず家に上がった。すぐ左側の部屋、洗面所で私は目当てのものを探す。
「勝手に上がってんじゃ……あ」
私の手には、仲良く並ぶ青とピンクのコップと歯ブラシ。ピンクの方に見覚えは無い。
「これは、違くて、その……」
背後からでも私の目線の先に気づいたらしい男は、言葉を濁した。みるみる萎縮し狼狽える姿が鏡に映っている。もはや狼とは言い難い。
「前遊びに来た男友達が忘れてってさ……ははっ」
見苦しいこと限りない作り笑い。考えるまでもなく嘘。わざわざ『男友達』だなんて、強調しちゃって。何年の付き合いだと思ってるの?
それほどまでに、私たちの関係は凍りついてしまっていた。
「ごめん。私、嘘ついた」
雨で身体が冷えて、蒸し暑いのに身震いしそうだった。でもそれ以上に、表面じゃないもっともっと芯の部分、そこは絶対零度に引けを取らないほど凍てついている。
「……嘘?」
「うん。ほんとは、お願いがあってきたの」
ジッパーを開けっ放しにしていたショルダーバッグに手を入れ、“ソレ”の柄を握った。そして男の鼻先に、先端を向ける。
「——死んでくれる?」
もう、戻れないね。
「……は……?」
ただ見つめられる、空白の時が流れた。男が口を開くまで、長かったような、一瞬だったような。
「……ははっ、咲らしくない冗談だな。悪いけど笑えない」
口ぶりとは裏腹に、顔は青く、声は今まで聞いたことないくらい震えていた。
「残念、これは嘘じゃないから」
鼻の高さにあった“ソレ”を首元へ運ぶ。いよいよ身体を震わせ、呼吸も下手くそになってきていた。怯え切ったその
「は……なん、で……」
「……は?」
今、『なんで』って? 『なんで俺が』って? わからないはずないでしょう?
「知ってる。浮気してるの」
「なっ……」
男の瞳は揺れる。気持ちはわかるよ、私がアンタの立場でも、きっと意味がわからないと思うから。
「流石に何も知らずにサヨナラは可哀想だから、冥土の土産をあげるよ。この前ショッピングモールで会った、私の後輩の女の子、覚えてる?」
「……お前の、職場の……?」
いつもの威勢はどこへやら、声は裏返り、かすかに震えていた。そんなに私が怖いんだね。
「その子が教えてくれたの。アンタと知らない女の人が、腕を組んで歩いていた……って」
男は視線を泳がせた。言葉は無くとも、思い当たる節があるのだろう。だかそれも束の間、息を飲み込むように頷くと、目つきが変わった。さっきまでの、狼の目。
「ああそうだよ……二股かけてたよ! 飽きたんだよお前にっ!」
掴みかかって来そうな勢いだか、首元に突き付けられた“ソレ”のせいで、男は微動だにできない。
「わあ、見事なまでに清々しいね。……じゃあ、そろそろいい?」
“ソレ”の位置は変えずに、一歩ずつ男に詰め寄る。男はもう身体の震えを隠し切れていなかった。
「クソっ……何なんだよお前……頭おかしい、狂ってる……」
「あ?」
この男、私の地雷を踏むのがよっぽど好きなようだ。冷たい心のどこかで、ふつふつと何か熱いものが湧き上がってくる。
——止まれない、抑えられない。
「狂ってる? 狂って当然でしょう? 十年も付き合ったんだよ私たち‼︎」
感情任せに、男を思いっきり突き飛ばす。私の弱い力でも男はいとも簡単に尻餅をつき、壁に背を預けていた。
「全部……全部アンタにあげた。時間も、お金も、愛も……私はアンタと結婚して、結ばれるんだって、信じてたから……それなのにっ」
少し前まで輝いていた十年の軌跡は今や汚らしい靄に覆われ、黒闇の底に沈んでしまいそう。
悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい。信じてたのに、信じてたのに……!
「何なの浮気って……十年も私で遊んでたってことでしょ⁉︎」
“ソレ”を握る手に、自然と力がこもる。湧き上がる熱に息が上がって、身体が震え出した。
「まっ……待て、落ち着けって! 一回置けよ、その“包丁”……まず話し合おう。俺の知ってる咲はこんなことするやつじゃないから……」
私の腕を掴み、何とか“ソレ”を遠ざけようと試みている。その力の強さが、話し合う気なんて更々ないことを物語っていた。
「うるさいっ‼︎」
手を振り払えば、男の腕が僅かに切れた。“ソレ”には赤い液が付着し、男は自らの腕と対照的に顔を青くした。その光景を前にしても一切揺るがない私の自我は、さっき雨に流されてしまってしまったのかもしれない。
「あ……あ……」
「……“包丁”って言ったね。でもただの“包丁”じゃないよ」
赤い液を親指で拭い、刃を優しく撫でた。怯えきっているのか、男は逃げようともしない。それか腰が抜けて逃げられないのかも。
「わざわざ百円ショップで買ったの。よく聞くじゃん、『切れ味の悪い方が痛い』って」
「ひぇぁっ……」
過呼吸を起こした男は後ずさろうと必死に試みるも、壁が邪魔で私との距離は一向に離れない。いよいよ目から涙が溢れ出していた。
「助けて……助けてくださいっ……何でもしますからぁっ……‼︎」
十年、この男を見てきた。口が悪くて、冷たくて。傷ついたことだってなんどもあった。
「じゃあさ——」
それでも、どうしようもなく好きだった。
「返して、私の十年間」
「そ、れは……」
十年あれば、アンタも見違えたね。いつの間にか、私の好きだったアンタはもういなかったよ。
「無理だよね、そんなこと。……なら死んで詫びろ」
“ソレ”にありったけの力を込める。ついでに、怒りと憎しみと、少しばかりの愛を乗せて。
「やっ、やめっ……あ、あ、あ——」
頬を流れる熱い感覚には気づかないフリをしておこう。まだ私が正気であるうちに、最後に一つだけ。
「——幸せになりたかった……アンタと二人で」
——グサッ
「がっ……あ……ぐぁっ……はっ……」
刺した。刺してやった。肉を切り裂く気持ちの悪い感覚と共に、男の声にならない叫びが耳に届いた。何年着ているのかわからない白Tシャツが、赤く染まっていく。
「——あはっ」
痛いね、苦しいね。そんな歪んでぐちゃぐちゃな顔、初めて見たよ。目も虚で焦点が定まっていない。
「もう死ぬの? まだ早くない?」
“ソレ”を男の腹から抜くと、溢れ出す赤が一気に加速した。
「そのTシャツ、赤の方がカッコいいよ」
男はすでに痛ましい姿にだった。腹のさっきより少しだけ高いところにもう一刺し。白Tシャツに広がる赤は留まることを知らない。
「ぁ……」
限界が近いらしい。深めに刺したつもりだったのに、リアクションはイマイチだった。
「……あーあ、もっと泣き叫んでくれると思ったのに」
この男が期待外れなのは、今に始まったことではないのだけれど。
——そう、期待外れ。
「ねぇ……何で? 何で浮気したの? 待ってたんだよ、プロポーズ」
この男と結婚して幸せになるんだと信じてやまなかった私は、男の浮気を知るまで十年という年月の重さに気が付かなかった。それだけ心が満たされていた。
「……ほんっと最低。死ね」
グサッ……グサッ……グサッ……グサッ……グサッ……
「ふふっ……あははっ」
刺しては抜きを繰り返すたび、空中を汚らしい赤が舞う。気持ち悪い生温かさは、雨に濡れた身体に溶けて、冷えていく。
「あはははっ、あはははっ!」
ちょっと前まで愛しくてたまらなかった男が、今は憎くて仕方ない。手が止まらない。
「死ね! 死ね!」
憎い。
「あはははっ、あはははっ、あはははっ!」
憎い憎い憎い。憎い憎い憎い憎い憎い。
「死ねぇっ!」
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い——
——赤。目に映る世界すべてが、一色に染まっていた。私はどれくらい間、男の赤を浴び続けたのだろうか。生臭い嫌な匂いが鼻を抜けていく。
目の前のぐちゃぐちゃの物体に、もはや原型はない。物体の周りには赤い水溜りが広がり、壁には飛沫が飛んでいた。洗面台の鏡にも跳ねて、流しにまで垂れている。ちょっとやりすぎちゃったかも。
でも……まあいいか、もうそんなの関係ない。私が消化すべき憎しみは、あと一つだけ。
「——浮気相手の子には、悪いことしちゃったな」
彼女に憎しみの念がないと言えば嘘になる。けれど彼女について、この男が彼女持ちと知らずに関係を持っていたこと、真面目で朗らかな性格で不貞を働くような人物ではないこと、既に調べがついていた。彼女もある意味では被害者。真っ当な子がこの男の手中に囚われずに済むなら、私の行動にも多少は意味があったかもしれないと、今では思う。それに、三十近い私たちより五歳も若い子を殺めるのは、流石に気が乗らなかった。
彼女には、本当にいい人と出会って、本当の幸せを手にして欲しい。その代わり——
「私は……この男と幸せになるから」
憎かった、コイツが。私の十年を無駄にし、すべてを奪ったコイツが。
でも……でもね……
「一番憎くて、殺したくてたまらないのは——私」
誰よりも、何よりも憎い。キミを好きになった私が。恋に酔いしれ、言いなりになっていた私が。いつまで経っても結婚の申し出をされないことに、何の疑念も抱かなかった私が。十年という年月の重みに気づかなかった私が。人に言われるまで浮気に気づかなかった私が。
——まだ、キミを愛してる私が。
「すぐ、そっちに行くよ」
ごめん、私、たぶん勘違いさせたね。この“包丁”は、キミを痛めつけたくて選んだわけじゃないの。他でもない私が、痛い思いをして苦しみながら死ねるように。もう何も、怖くはないから。
それなのに、なぜだろう。洗面台の鏡に映った
きっと、嬉しいんだ。十年の恋の蕾が、ようやく花開くんだもん。
「私、幸せだよ」
——グサッ
痛い。でも、まだ甘い。
グサッ……グサッ……グサッ……グサッ……グサッ……
愛する人をこの手で殺めたんだもん、当然の報い。泣き叫びたいほど痛くてたまらないけど、不思議と受け入れられた。
「死ぬって……こんな感じなんだ」
視界はぼやけ、痛みが遠のいていく。四岐の感覚はもう無い。生臭い臭いも感じない。でもやはり、怖くはなかった。
私が仕出かしたことは、どんな理由があろうとも許されない。キミなんて、私から言わせれば可愛いものだ。きっと同じところには行けない。それでもいつか、生まれ変わってからでもいい、どうかキミと結ばれて……今度、こそ……しあ、わ、せに……
「あ、い……してる……よ」
狂咲 星合みかん @hoshiai-mikan
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