第2話

 自宅は築45年の借家だ。市営住宅で家賃は3万円代、物価高騰の煽りも受けず据え置き価格できているが、そろそろ建て替えの話が出ているらしくここにしか住めない住人たちは文句を言っている。


 木造平屋で、キッチンと六畳の和室が二部屋。風呂トイレは別だが、膝を抱えて入るほどの狭い浴槽だ。なつきは母と二人、この借家で暮らしている。父親は物心ついたときからいなかった。

 母親は夜の仕事で、時々知らない男を家に連れ込んだ。なつきが自室で勉強をしていると、母親の啜り泣く声が聞こえてきた。男の淫らな囁きが聞こえるほどに壁は薄かった。

 なつきは母親の泣き声を聞きたくなくて布団をかぶって寝た。いつしか、それは泣き声ではないことを知った。もっと聞きたくない声だった。


 男たちは入れ替わり立ち替わりでやってきた。時々なつきにお菓子をくれたり、勉強を教えてくれる甲斐性のある男もいた。

 しかし、癇癪持ちの母とすぐ喧嘩になり、罵声を浴びせて出ていったきり二度と帰ってこないのが常だった。

 

 今の男はあまり好きではない。桜井という名で、母親を時々殴っているようだし、よく金を無心している。それに、なつきにいやらしい目線を向けてくる。

 男がどんな目で女を見るか知っている。中学生のなつきを女として見るその淫らな目つきが恐ろしかった。

 

 いじめの原因はこうしたなつきの家庭の事情だ。自分より下に見た人間をターゲットにして、集団で攻撃する。卑劣だ、と思う。彼女たちの前で涙を見せないとなつきは心に決めている。それがなつきの最後のプライドだった。


 借家の建て付けの悪いドアを開けると、怒号が飛んできて、なつきは思わず肩をすくめる。母親と桜井のお決まりの口喧嘩だ。

「遅いじゃないか、早く夕食の支度をしな」

 夜から仕事に出る日は、母親は夕食を作らない。今日は仕事だって言ったのに、と追い討ちで文句を言っている。


「ごめん、すぐ作る」

 なつきは通学カバンを部屋に放り投げ、キッチンに立つ。まともな食材がない。冷蔵庫の材料でできるのはツナ缶とタマゴ、マヨネーズを和えたパスタくらいだ。

「俺の分も頼むぜ」

 鍋にパスタを入れようとしたとき、背後から桜井に抱きつかれた。

 なつきは緊張に身を固くする。奥の部屋から母親が顔を出し、娘に手を出すんじゃないよ、と怒鳴っている。


 出来上がったパスタを皿に盛り、手の震えを抑えてテーブルに置いた。なつきは黙って外に飛び出した。涙が止まらなかった。麻痺していた恐怖と嫌悪感が一気に襲ってきた。

 借家の裏に流れる川を眺めながらひとしきり声を押し殺して泣いた。


「なつきちゃん、大丈夫かい」

 二軒隣のおじさんだ。奥さんに逃げられたまま20年、ここで待ち続けると借家に住み続けている。ロマンチックな話だが、おそらくこのまま待ちぼうけになるだろう。

 おじさんは工事現場の日雇い作業員で食い繋いでいるらしい。なつきが小さい頃から可愛がってくれた、心許せる数少ない人だった。

 学校でいじめられて、家では母親のヒモにセクハラを受けた…そんなことは言えない。


「辛かったら思い切り泣けば良いよ」

 優しい言葉だが、何の解決にもならない。それでもなつきは涙を拭いておじさんに笑顔を向けた。

「しかし、今来てる男、ありゃどうしようもないチンピラだね」

 おじさんの見立てでは桜井はヤクザの末端ではないかという。

 気をつけてな、とやはりどうしようもないアドバイスを残しておじさんはタバコを川に投げ捨てて借家に戻っていった。


 桜井がヤクザだろうがチンピラだろうが、どうでも良いことだ。まずいのは母親と腐れ縁が切れないことだ。どちらも似たもの同士、罵り合いながらも気が合うのだろう。

 桜井がどこかに遠くに行ってくれないだろうか、なつきは真っ暗な川面に揺らめく街灯の光を見つめる。


「縁切り地蔵」

 夕方、帰り道で見た神社の境内にあった地蔵を思い出した。あの地蔵に何かをお供えして祈れば叶うかもしれない。

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