第31話 存在意義

 ざぶんざぶん。


 水が賑やかな音を立てる。

 しばらくして、静かになった頃。


 しゃわしゃわ。

 今度は穏やかなASMR的音声が鼓膜を撫でた。


 思わず音のした方を見てしまう。女子ふたりが湯船につかっていた。


『あっ』


 小陽さんと朝日が入浴中なんだった。透明なお湯越しに大事なところを見てしまうところだった。すぐに、目をそむけたので、ギリギリセーフ。どうせ温泉なら濁っていてほしかった。


「ふう~生き返るなぁ」


 朝日がオジサン臭いセリフを吐く。なお、チラ見したときに気づいたんだが、タオルを頭に乗せている。オジサンだ。

 ちなみに、本物の僕は絶対にやらない。


「おうちのお風呂も気持ちいいですが、お湯の肌触りが全然ちがって、面白いです」

「だろ。温泉だもん」

「これが……温泉なんですね」


 声しか聞こえなくても、感慨深げなのが伝わってくる。喜んでもらえるなら、男子の欲望に耐える価値はあった。


「ここはな、含よう素泉。きりきず・末梢循環障害、冷え性、うつ、皮膚乾燥症なんかに効果があるらしいで」

「朝日さん……じゃなくって、一道さん、お詳しいんですね。かっこいいです」

「温泉、親が好きなんだ。子どもの頃は年に10回は、あち……僕も行ってたんだよね」


 嘘だ。朝日一家の話をしている。


「一道さん、あたしに温泉を教えてください」

「ええよ。温泉にもいろんな種類があるんだよ。白いお湯とかね」

「白って、お湯が白いんですか?」

「うん、牛乳みたいでさ、おっぱいが透けないぐらい濁るんだぞ」

「うわぁ~見てみたいです」

「なら、夏休みにでも、一緒に行こうか?」

「はいっ、行きたいです!」


 小陽さんの声が弾む。


「ですが」


 しかし、急に声のトーンが落ちた。小陽さんの様子が気になるものの、お湯が濁っていないから、おっぱいが見えてしまう。動けない。


「小陽さん、なにか不安があるんだったら、教えてくれないか?」

「……」

「僕でも、話ぐらいは聞けるから」


 朝日が僕の言葉を代弁してくれていた。


「一道さん、やっぱり優しくて、頼りがいのある人です」


 小陽さんの声は水平方向ではなく、斜め上方向だった。まるで、僕に届けようとしているみたいだった。


「夏休みになっても……あたし、存在しているのでしょうか?」


 吹き出し口からお湯が流れる音が障壁となって、彼女の弱々しい声に立ちはだかる。

 しかし、僕は聞き逃さなかった。彼女が珍しく気持ちを訴えているのだから。


 小陽さんの言葉が僕の胸に突き刺さる。


 夏休みまで、2ヶ月ある。

 重い病気を抱えていない高校生にとって、2ヶ月後の未来は当たり前のようにあって。


 でも、小陽さんのような特殊な子からしてみれば。

 未来は常に不確実で。


 普段は微笑を浮かべていても、不安でもおかしくない。


 迂闊だった。


 たまに、家で入れ替わっても、小陽さんは楽しそうで、落ち込んでいる様子を見せたことはない。スマホのメモにもマイナスな表現はなかった。

 学校でも楽しそうだし、最近は自己主張も少しずつするようになった。


 すっかり安心して、油断していた。


「体を洗ってるときも言ってたよな」

「えっ?」

「みっちゃんを全肯定するために生まれてきたって……思い詰めてる感じもしたけど、今の話と関係するの?」


 小陽さんの声が聞こえなくなる。


 10数秒の間、水音だけが家族風呂を支配していた。

 やがて。


「あたし、クラゲさんのときに思ってるんです」

「う、うん」

「授業中や部活中は面白いのですが、クラゲさんだと本も読めませんし、退屈するときもあって」


 僕もある。基本、ぼうっとするか、考えごとをするか。会話を盗み聞きするのも罪悪感があるし。

 今だって、小陽さんのための必要悪で聞いている。


「自分はどうして生まれたのだろう……そう、ぼんやり考えちゃって」

「せやな。僕もだよ。いや、誰もが同じような悩みを抱えているかもな」


 朝日がしみじみとつぶやく。演技に感じられない。


「僕、昔から不器用で、小学生の頃なんか、みそっかすだったんだ。朝日ぐらいだよ、僕の相手をしてくれたのは」

「一道さん、うぅ〜」


 本物の僕も同じことを言っただろう。事実だし、小陽さんを励ましたいから。


「だから、僕、朝日が好きなんだよ」


 余計な発言で感動を台無しにするのが朝日らしい。


「僕、みじめすぎて、なんのために生まれたのかなって、長い間、悩んでいたんだ」


 中学時代、僕は本気で苦しんでいた。勉強も運動も、会話も、なにひとつ得意なものがなかったし。

 朝日が僕の気持ちをわかってくれる。それだけで、当時の僕が救われた。


「一道さん、ずっとつらい思いをされてらしたんですね」

「小陽さん、髪を撫でてくれて、すっごく癒されたよ。ついでに、おっぱい揉ませて」


 見直したとたんに、これだった。


「あたしのでよければ、使ってください」

「いいの?」

「だって、あたしと一道さんは体が同じなんですよ。あたしの胸は、一道さんのものですので」


 そうかもしれないけれど、言い方。


「本当に、みっちゃんに尽くす気満々なんだねぇ」

「だって、あたしは一道さんの副人格ですから」

「そこに胸を張るんだ」

「なんのために生まれてきたかの話に戻るんですけど、一道さんのおかげできづけました」

「ん?」

「あたしは一道さんのでいいって」


 僕と小陽さんの関係を考えるなら、二重人格の問題に尽きるわけで。


「一道さんが精神的な悩みを抱えていて、解決するために副人格のあたしが必要だった。そう考えています」

「ドラマとかの二重人格でも見かけるパターンだよな」


 僕も同じことを何度か考えた。しかし、ドラマとちがって、僕に壮絶な過去はない。親は生きているし、家庭が崩壊したわけでもない。学校では陰キャでも、犯罪レベルのいじめを受けたこともない。


 僕の悩みなんて、特別なものではない。自分が無能なだけだし。まあ、それが僕にとってはつらいんだけど。


「まあ、わかるよ。小陽さん、頭も愛想もよくて、運動もできる。僕の苦手分野を代わりにしてくれてる感じだよ」


 小陽さんからの返事はない。謙遜しているのだろう。


「自分にないものを持ってるから、僕は小陽さんの存在を求めたのかも」


 偽の僕が言っているのに、反論の言葉が出てこなかった。

 自分でも気づいてなかっただけで、正解かもしれない。


 朝日は僕が知らない僕を知っている。自分だとけっしてわからない僕を見ているのだ。


「最近、一道さん、結果を出し始めてますよね?」

「ああ。剣道部の仏像を倒したんだっけ?」

「あっ、いえ。勝負には負けましたが、かなり強くなってました。すっごく、かっこよかったですよ」


 朝日は部活にいないので、あのときクラゲ状態だった小陽さんが訂正する。ふたりとも偽物だとわかりきっていて、本音を口にしている。


「部活はともかく、クラスの女子も言ってたんだよね。最近、『星野くん、雰囲気ちがくない。よく見ると、好みかも。朝日、援護してくれない?』とか」

「朝日さん、それ。あたしも聞いたことあります」


 というか、もはや演技は忘れたようだ。


「一道さん、このまま行ったら、自分の壁を乗り越えられると思うんです」

「昔から努力だけはしてたからな。いつか結果を出すだろよ」

「あたしもそう思います」


 褒められまくって、恥ずかしすぎる。


「いつか一道さんが最強になって、周りに認められたら――」


 一呼吸分の間をおいて。


「あたし、いらない子になると思うんです。あははは」


 笑い声が痛かった。


「未来のどこかで、あたしはいらない子になって、消えちゃうんじゃないかなって……」

「それが不安なんだな」


 反応はない。いや、僕の目に見えないだけで、小陽さんの態度に表れているかもしれない。


「こればっかりは偽物の役割じゃないよな。みっちゃん、抱きしめてやってよ」


 僕だって、なんとかしたい。


 けれど、僕は小陽さんに触ることはおろか、リアルタイムで会話するのも不可能だ。


 とはいえ……。

 いつか、小陽さんとか話したい。今みたいに悩んでいたら、慰めたい。

 そんな未来が来るまでは。

 絶対に小陽さんを消すわけにはいかない。


「かわりに、あちしのDカップを貸してやんよ。みっちゃんよりたくましくないけど、柔らかいぞ」


 言い方は残念だけど、朝日に任せておけば安心だ。朝日が代理でよかった。

 そのときだ。

 体がふわふわして。


(ウソだろ、こんなタイミングで……)


 どうすることもできず。

 体の制御を取り戻したとき、頬にみずみずしい弾力を感じていて。


「みっちゃん、あちしのパイオツに頬ずりした感想は?」


 全裸で幼なじみに抱きついておりました。

 もちろん、全力で土下座しました。

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