タバコ

まきあ

タバコ

県内でも有数の進学校に入学した私は、昔から「真面目」で「良い子」だった。

小学生のころ。テストはいつも満点で、運動もよくできて、縦割り班のリーダーを務める、みんなから憧れられるような、お手本みたいな生徒だった。

中学生のころ。五教科平均で八十点を下回ったことはなかった。部活ではキャプテンをとして活躍した。さすがだと言われるような学校生活だった。

そんな私だから、みんなの期待を裏切らないような選択をした。そもそも勉強だってそんなに好きじゃなかった。それでも「真面目」で「良い子」だった私は勉強第一の高校に進学したのだ。


入試の結果は悪くなかった。が、それは私の中ではの話で、合格者の中では下から数えた方が早い順位だっただろう。

一学期が始まって、授業が始まると、すぐに私は後悔した。全くついていけるスピードじゃない。ノートを取るので精一杯で、授業内容をろくに理解することができなかった。誰かに教えてもらおうにも、同じ中学校の出身者はおらず、私は自然と孤立してしまった。移動教室も昼食も一人。クラスメイトからあからさまに避けられているわけではないけれど、特に仲のいいクラスメイトも居ない。

追い込まれていた。必死に授業についていこうとした。ダメだった。友人関係も部活も犠牲にして勉強した。ダメだった。テストは赤点ばかりだし、いくら先生に質問してもその場限りでしか理解できない。私ってこんなに勉強できなかったっけ? と思うほどにわからなかった。わからない個所がわからない状況ばかりだった。


そんな、高校一年の冬だった。私はローカル電車に四十分ほど揺られて通学していた。帰り道、単語帳を開きながらうつらうつらしていたとき、数メートル離れた向かいの座席に何か置かれて、いや落ちているのに気が付いた。目を凝らして見れば、タバコの箱だった。きっと誰かが意図的に置いて行ったか、カバンかポケットから転がり落ちたのだろう。その辺りにどんな人が座っていたかなんて一切覚えてはいなかったが、きっとおじさんだったんだろうな、と思った。

次に考えたのは、ゴミを放置してはいけないよな、ということだった。拾ってゴミ箱に捨てなければ、と生来の「良い子」が顔を出したのだ。都合の良いことにもうすぐ降車駅。降りるために立ち上がってそのままゴミを拾い、駅のゴミ箱に捨てれば良い。そのはずだった。

電車が止まると、私は予定通りの行動に出た。青いタバコの箱に手を伸ばし、掴む。くしゃりと握りつぶした、瞬間だった。まだ一本、タバコが残っていることに気付いたのは。私は何を思ったか、とっさにコートのポケットにタバコの箱を突っ込んだ。違う、駅のゴミ箱じゃなくて家のゴミ箱に捨てるだけだ、両親だって説明すれば私を疑うことはないだろう。

駅のホームに降りると、母親の車が見えた。私は足取りを無理やり軽くして改札をくぐった。母親の車に乗り込み、今日あったことを話し始める。いつも通りの私。ただ、コートのポケットにタバコのゴミがあるだけ。

家に帰ると、自室へ入り、一番にタバコの箱をポケットから出した。自室のゴミ箱に捨てれば親にだって気付かれることはないはずだ。そう、簡単なこと。見つかったなら説明すればいいだけのこと。なのに私は、ちょっとの罪悪感を抱えながら机の上に置きっぱなしにして自室を出た。

夕飯とお風呂を終えて自室に戻ったとき、タバコの箱はちゃんとそこにあった。箱にはメビウスと書いてあった。私でも聞いたことのある銘柄だった。

もし、と私はぼんやりタバコの箱を眺めながら思った。

もし、これを吸ったら「良い子」じゃなくなれるだろうか。

そんな考えが自分の中に浮かんだのが驚きだった。「良い子じゃなくなれる」なんて。私は良い子のままで良いじゃないか。このままゴミ箱の奥底に沈めてしまえばいいじゃないか。そして明日からもこれまで通りの――

これまで通りが、もう嫌なんだ。

疲れちゃったんだ。「真面目」でいるのが。「良い子」でいるのが。

だからこのタバコ一本でこれまでの私からサヨナラできるんじゃないか、なんて空虚な妄想をしてるんだ。そんなはずないじゃないか。結局誰にもバレないように吸って、終わりなんだから。

いや、誰にもバレないなら。バレないなら吸ってもいいんじゃないか?

万が一、それで何かが変わるなら、それは神さまが私に与えてくださったチャンスなのでは?

そう考え至ったとき、私は自室を出て玄関の靴箱をあさっていた。確かこの辺りにライターがあったはずだ。

ライターを見つけて自室に入る。電気を消す。窓を全開にする。カチッと音を鳴らしてライターが発火するのを確認すると、私は恐る恐る、たった一本残ったタバコを手に取った。軽かった。窓から上半身を半ば乗り出して、人差し指と親指でつまんで火をつける。ポっと灯った灯りはすぐに落ち着いてじょじょに灰になり始めた。

何か、変わりますように。

私はそう願いながらタバコに口付けた。息を吸う。タバコはちりちりと赤く燃える。タバコを口から離す。ふーっと長く息を吐いた。涙がつぅっと頬を流れた。そして堰が壊れたようにぼろぼろと雫があふれ出してきた。私は慌ててサッシでタバコを揉み消すと袖で目元を強く拭った。拭いても拭いても涙は止まらない。タバコをゴミ箱に投げ捨てる。タバコの箱をゴミ箱に投げ捨てる。わっと声を出して泣きたくなったけれど、声は出なかった。ただ醜く歪んだ顔から涙がこぼれるだけだった。


その日、私は初めて課題をせずに就寝した。泣きはらした目では課題なんてできなかったし、する気も起きなかった。

翌朝は少し早く目が覚めた。帰って来たままのカバンを一瞥して、ゴミ箱に目をやる。一番上にタバコと箱があった。私はなんとなく居心地が悪くて、それをゴミ箱の奥へ押し込んだ。

その日から私は「真面目」で「良い子」ではなくなった。今まで張り詰めていた糸が切れてしまったみたいだ。一度忘れたのなら、もう課題を徹夜でする必要性が見えなくなってしまったし、わからないものはわからないでいい気がした。それよりも、もっと大切なことがある気がした。

結局、私は高校を二年で退学して高卒認定を取り、フリーターになった。今はもう二十歳の誕生日を迎えて、タバコが合法的に吸える。もっとも、吸おうとも思わない。

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タバコ まきあ @08110216

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